呼吸
ルゥナミアの鼻に、生ぐさいにおいが届く。
「なんのにおい?」
「海のにおいだろ」
「このねっとりとした風はなに?」
「潮風だろ」
「じゃあ、ざばんざばんとこちらを威嚇するあれはなに?」
「ただの波だ。総じて海だ」
「海! これが海!? 海ってもっと美しいものだと思ってたのに!」
穏やかな海面が太陽の光をきらきらと反射し、さわやかな風が髪をなびかせる様を想像していたルゥナミアは、がっくりと大きく肩を落とした。
昔、ファフティリヤの丘の上から見えた海はどこまでも青く、美しかった。
ルゥナミアはもっと海の近くまで行きたかった。
だが、ファフティリヤの丘の海に面した側は切り立った崖になっており、浜辺に出るためには大きく回りこまなければならなかった。
母親とまた今度行こうねと約束をして、それきりになっていたことを思い出す。
そして遠くから見るのと、近くから見るのとでは大違いなのだということを実感するのだった。
目の前には漁船が並び、海の男たちが威勢の良い声を張り上げている。
次々と運ばれてゆく木箱から飛び出した一匹の魚が、ルゥナミアの目の前で威勢よく跳ねる。
「きゃっ」
その威勢のよさに驚いて、ルゥナミアは一歩あとずさった。
河口近くの港には、漁船だけでなく商船も多く入港していたが、今ルゥナミアたちがいるこちらは、漁船の停泊場所になるらしい。
「とりあえず今日はここで一泊するぞ。ラハイ湾に向かう船を探して、乗せてもらえるよう手配してくる。少し待ってろ」
「こんなところに置いて行かないで」
ルゥナミアは慌ててあとを追う。
「休んでいたほうがいい」
ルゥナミアをひとり残していくのは、今でもやっぱり怖い。自分のいないあいだになにかあったら、という恐怖は、いつもシャンの心に巣食っている。
けれど今のルゥナミアにとっては、少しの無理が命取りになりそうな気がして、シャンにはこれ以上ルゥナミアを連れて歩くことが出来なかった。
「女の子をひとりにして、もしなにかあったらどうするのよ」
「もともとひとりでファフティリヤまで行くつもりだったんだろ?」
「そうだけど……」
声の大きな男の人は、昔から苦手だった。
父親が物静かな人だったというのもあると思う。
大きな声でしゃべられると、それだけで心臓が縮んでしてしまうのだ。
「……じゃあ、先に宿をとるか。部屋だったらゆっくり休めるだろ?」
シャンがやれやれというように息を吐く。
シャンの声はいつも穏やかで、心地よい。
シャンはよほどのことがないと声を荒げないし、そんな彼が大きな声を出すときはいつもルゥナミアのために必死になってくれているときだった。
ときどき、不機嫌さがにじみ出ることもそりゃあなくはないけれど、それだってほんの少しだけだ。
「一緒に行く」
「駄目だ。少し呼吸が速い」
シャンに指摘されて、ルゥナミアはぎくりとする。
自分では、うまく誤魔化しているつもりだったのだ。




