うさぎ
夏の前倒しみたいなやつですけど、そんなに怖くありません。
今日の窓辺は暖かい。
緑が茂り、窓枠に飾られたフラワーポットには様々な花が咲いている。
四月の爽やかな微風を浴びながら、南向きの窓辺の特等席に座ったまま美羽は伸びをした。
この寝室には本棚とベッドしかない。
今の美羽は寝室からほとんど出ることはない。
生まれたときから病弱だったから、就学も辛かった。
美羽は目を伏せる。
綿のカーディガンのほんわりとした感触、瞼の裏の太陽の光、生きているだけでいいじゃないかと強く思う。
目を開け下の通りを見ると、両耳を握り締められた、大きなうさぎのぬいぐるみが目に真っ先に飛び込んできた。
真っ白いワンピースと黒髪ロングの女性が恨みでも持つが如く掴んでいる。
美羽は好奇心に駆られて、少しだけ窓から顔を出した。
女性は美羽の家の隣のアパートの玄関に入っていく。
101号室前で止まった。
と、風を切る音とともにドンっと音がしてぬいぐるみが101号室の玄関に叩きつけられた。
「わっ」
美羽は思わず小さな悲鳴を上げた。
女性は何度も何度もぬいぐるみで玄関を殴り続ける。
重いドォンドォンと共にビリビリという音も聞えてくる。
この光景を見ているのは自分だけなのだろうか、と通りを見渡しても人影はない。
バコンっと特別大きな音がしてうさぎの布の耳がちぎれた。
ぬいぐるみの胴体が放物線を描いて美羽の家の玄関前に落下する。
美羽は口を押えてカーテンの陰に隠れた。
女性が振り向いたからだ。
真っ白い白粉を何回も塗りたくったような肌、眉はなく口紅は黒く大きく塗っている。
目は胴体を見ていたが、段々窓へと上がって行き美羽を探すように左右に睨みつけている。
しかしその目は虚ろな灰が積ったような色だった。まるで人ではないような。
目が合ってしまった。美羽は震えが止まらず壁側にへたり込む。
思わず、微かな声で呟いた。
「…今日はいい日になると思ったのに」
「今日からいい日になるわよぉ」
女性だろうか、窓から粘り気のある低い笑い声が聞えた。
美羽は恐怖のあまり力いっぱい窓を閉めた。
翌日、ドォン、ドォンという音でベッドから跳ね起きた。
まだ日はあるけれどベッドで横になっていた処だったからだ。
また激しく寝室の戸が叩かれる。
「誰?!」
急いで戸を開ける。しかし誰もいない。
息を止め、静かに閉める。
すぐ目の前でドォンと戸が叩かれた。
「誰?!」
戸を開ける。誰もいない。
「嘘でしょ…」
へたり込んで頭を抱えた。
脳裏にうっすらと昨日の女性の声が再生される。
もしかして、「来ている」のだろうか。
貧血になりながら立ち上がり窓辺へ向かった。
101号室を見ると女性の姿はない。
ただ美羽の家の玄関に赤い絵の具で下手くそなうさぎが描かれていた。
「お母さん、聞えない?ほら、ドンドンって戸を叩く音」
美羽には確かに聞えている。
絶え間なくぬいぐるみを打ち据える音。
しかし母親は寝室に入っても首を傾げるばかりで、暫くすると美羽へ媚びた笑いを浮かべた。
「リビングで軽いものでも食べなさい」
始終音はしているのだと美羽が訴えても、父親も彼女の痩せてきた体を心配するばかりで取り合おうとしない。
「音なんかしないじゃないか」
自分は嘘はついていない。
美羽は涙ぐんで耳栓をぎゅっとつめた。眠れなくてもベッドに横になる。
翌日窓から玄関を見ると赤いうさぎの上に黒いうさぎが塗りつぶしてあった。
美羽は呟いた。
「味方は誰もいない」
まるでたった一人でサバイバルでも行っているような声音だった。
数週後。美羽は今、引越しを考えている。
両親は考えすぎだというが、あの音が聞こえていては寝室にいられない。
あのうさぎのぬいぐるみを持った女性を見た次の日から、晴れた日でも雨の日でも寝室の戸をぬいぐるみで打ち付ける音がするのだ。
その音は依然両親がいてもする。
だが両親には聞えないらしい。
美羽にはあの女性が来ているのだと分かっている。
だから逃げ出すのだ、この呪われた寝室から。
でないと自分は狂ってしまう。
あの音が毎日続くなら。
今日は音がしていない。
ベッドの中でやつれていた美羽だったが、気がついた時には窓辺に走っていた。
ぜぇぜぇと荒く息をつきながら、荒れ果てたフラワーポットをかき分け101号室を見る。
雷でもなりそうな黒い雲が立ち込める中、あの女性はうさぎのぬいぐるみを持って立っていた。
美羽は外出用の樫の木で出来た杖を咄嗟に掴んだ。
女性は後姿のまま動かない。
誰かを待っているのだろうか。
美羽は101号室へ向かうことにした。女性と話をつけるために。
玄関を出るときは新品の靴を履いて出てきた。
いつものカーディガンではなく着慣れないパーカも着てきた。
女性はあの顔でこちらを見ている。杖を握る手に汗が滲む。
とうとう女性の前にきた。杖で制するようにし、女性に語りかける。
「こんにちは」
黒い唇をニヤニヤさせながら、女性は返してきた。
「こんにちは。何か用?」
「毎日うちで暴れるの、止めて貰えますか」
「こんな風に?」
女性はうさぎのぬいぐるみを玄関へ一振りした。
玄関へ叩きつけられるぬいぐるみ。盛大な音が美羽の鼓膜をビリビリと震わす。
間近で見るとぬいぐるみが可哀想だ。
「…はい」
瞬間、どんっを頭に衝撃を感じた。
ぬいぐるみで殴られたのだと理解する前に意識を失った。
だが微かに女性が言った言葉を覚えている。
「まぁ暇つぶしだから飽きたのよ」
病院で目が覚めた。
頭蓋骨に平らな石で殴られたようなひびが入っていたという。
両親は警察に被害届を出し、美羽も聴取されたが101号室はずっと空き部屋だったという。ご近所も美羽の聞いていた音は聞いていないという。
もちろんあの女性もみかけた人はいないし、監視カメラにも写っていないといわれた。
だが確実に美羽の頭蓋骨に自作出来ないひびがある。
脳にダメージがなかったのが幸いだ。
そしてもっと幸いなことにあの音が聞えなくなっていたことだった。
薄暗い病室でも妙に居心地が良い。
痛みなら慣れているし、あの音を聞かないで済むなら十分だ。
窓辺を見ると紅葉の季節になっていた。
冬、美羽が本を購入し帰宅すると玄関先に見覚えのあるうさぎのぬいぐるみがあった。
両耳がしっかりと縛られており、赤と黒の絵の具で顔が描かれているのが分かった。
胸の辺りに真っ赤な絵の具が塗りたくられていた。
美羽は悲鳴を上げ、樫の杖で何度も何度もぬいぐるみを殴り散らしていた。
うさぎのぬいぐるみからは綿が飛び散り、美羽に絡みついて彼女は余計金切り声をあげ杖を振るう。ぬいぐるみを壊すかのように滅多打ちにする。
警察が呼ばれるまで彼女は狂ったように暴れ続けた。
彼女の長い黒髪が逆立っているようだったと目撃者は後に言った。