夜の学校転移 ~俺以外みんなお化け~
夏休みに突入してからはや数週間。
日々を怠惰に過ごしていた俺に、ある日突然雷が落ちた。
「毎日毎日手伝いもせず昼までゴロゴロゴロゴロと! せめて勉強でもしたらどうなの、宿題は!?」
「え、ええっと……学校に忘れてきて……」
「ハァッ!? あんたって子は本ッ当にボーっとしてるんだから。早く取りに行きなッ!」
「ひいいっ」
頭から角を生やした母さんに追い立てられ、俺は自転車に飛び乗って学校へと急ぐ。
自転車を漕いでいる間に太陽が地平線に顔を隠してしまい、学校に着いたのはあたりは暗闇に包まれた後のことだった。
お盆の時期だからだろうか、学校には誰もおらず電気もついていない。闇に包まれた学校というのは何は無くとも不気味に見えるものだ。正直言ってものすごく怖い。
だが宿題をとらずに帰ったりしたら。
『あんた一体何しに行ったの!? 中学生になったんだからいい加減もう少ししっかり――』
夜の学校と角の生えた母さん。心の天秤に乗せたところ、角の生えた母さんを乗せた皿がわずかに沈んだ。俺は大きく深呼吸をし、鍵の壊れた窓から校内へと忍び込む。
静寂に包まれた廊下を進んでいると、否応なしに最悪の事態が脳裏をよぎってしまう。
この前やっていた心霊番組に出てきたお化けの顔が頭に浮かび、慌ててそれを打ち消した。すると次は夏休みが始まる前、クラスメイトが神妙な顔で語っていた話が幻聴の様に頭に響く。
『知ってるか、この学校“出る”んだぜ。何がって決まってるだろ。お化けだよお化け。何年か前にそこの踏切で事故があって、女子高生が死んだんだ。しかもただ死んだんじゃない、上半身と下半身が真っ二つに切り離されて死んだんだってよ。その女子高生の幽霊は上半身の姿のまま、新しい足を探して彷徨ってるって話だ。なんで踏切でも高校でもなくこの中学に出るのかって? しるかよそんな事、でも野球部の先輩で見たって人がいるんだ。足を奪われないようお前らも気を付けろよ』
「ううっ……ダメだダメだ。考えるな」
嫌な考えを振り払い、俺は廊下を小走りに進んでいく。電気をつけたいところだが、万一学校に勝手に侵入したことがバレたら怒られるかもしれない。小心者な俺は様々な事に怯えながら暗い教室へ飛び込んだ。
数か月慣れ親しんだ教室だ。暗くても自分の席くらいは分かる。
「ええと、宿題宿題は……あった!」
引き出しに無造作に突っ込まれていたプリントの束を引っ掴み、ほっと胸をなで下ろす。あとは来た道を戻るだけ――
「……ッ!?」
俺は手元のプリントに目を落としたまま、その動きを止めた。
視界の端に何か黒い物が映る。
数メートル先、黒い影が地面に這いつくばる様にして蠢いている。
見ちゃいけない、そちらを見てはいけない。そう本能が警告しているのに、俺はそれを視線を向けずにはいられなかった。
「ひっ……」
地面に這いつくばる影の正体は、黒いセーラー服を纏った女であった。長い黒髪を地面に広げ、うつぶせに倒れている。
『知ってるか、この学校“出る”んだぜ』
クラスメイトの言葉が脳裏に浮かぶ。
確かあの話に出てきたのも、女子高生の……
「ねぇ」
長い髪の向こうで見開かれた目が俺を見上げる。
「足、頂戴」
俺はたまらず大絶叫を上げる。
その時、ぐらりと地面が揺れてバランスを崩し、俺は這いつくばる女の上に倒れ込んだ。
「ぐえっ」
潰れたカエルのような声が遠くの方で聞こえたっきり、俺は意識を失ってしまった。
*******
「ねぇ」
「……ん?」
「いつまで寝てんの!」
「アダッ」
頬に軽い衝撃を受け、俺はゆっくりと目を開いた。窓から差し込む光がまぶしい。
「んん……なんだよ母さん……」
「誰が母さんよ、なに寝ぼけてるの」
「ん……? あっ」
俺は慌てて飛び起きた。
目の前にいるのは母さんではないし、ここは自室のベッドの上なんかじゃない。どのくらい寝ていたのだろう、固い床の上に横たわっていたせいか背中が痛い。
いや、そんな事を気にしている場合ではなかった。俺をジッと見下ろしているこの女……黒いセーラー服に真っ赤なリボン、そして腰まで伸びる長い髪。間違いない、昨夜のお化けだ。
だが朝日に包まれている彼女に昨日の様な恐ろしさは無い。もしかしたら普通の人間なのだろうか? だがそのスカートからは本来見えるべき二本の脚が伸びていなかった。
「あ……あの、えっと」
「ここ、どこだと思う?」
「は?」
俺は恐る恐るあたりを見回す。
たくさんの机、目の前には教卓、その後ろには見慣れた黒板。少なくとも日本人ならばここがどこだかすぐに分かるだろう。
「ええと、学校じゃ」
「そうよ学校よ!? それは分かってんの、見てあそこ!」
女に急かされ、俺は慌てて窓から外を見下ろす。
「……は?」
緑だ。
眼下に緑が広がる。どこまで行っても緑緑緑。まるで終わりのない樹海のよう。良く見慣れた学校の中にいるはずなのに、窓から見える景色には見慣れた物が何一つとしてない。
「こ、校庭は? 町は?」
「こっちが聞きたいわよ、あんなのまで飛んでるし」
女はそう言って空を指差す。
最初はやけに大きい鳥だと思った。だが違う、尻尾がある。羽毛は無く、代わりにその体は鱗で覆われている。ゲームでしか見たことがないが……間違えようがない。明らかにあれはドラゴンだ。
「もう一度聞くけど。ここ、どこだと思う?」
答えられるはずもない。一体誰がそんな質問に答えられるというのだろう。
俺は俯き、静かに首を振る。すると女は腕を組んで大きくため息を吐いた。
「参ったわ、お盆はあの世とこの世の境が曖昧になると言うけれど……」
「えっ、ここあの世なんですか!?」
「そんな訳ないじゃない、殺すわよ」
「い、いや。だってあなたが今……」
「あの世だったら少しはマシだったかもしれないけど、もっと酷いとこよココは」
そう言いながら女はまるでそれが当然であるかのように浮き上がり、素早く俺の背後に周る。そして俺の胸に手を回し、まるで子供を抱きかかえるようにして持ち上げた。
「うわっ! な、なにを!?」
「あなた随分軽いわね。1年生でしょう? ってことは13歳?」
「え、ええと、誕生日来てないからまだ12……」
「12歳? あらあら」
女は廊下を進みながらなんとも楽しそうに俺の耳元で笑う。高校生だからか、それともお化けだからか。細い腕にもかかわらず彼女の力は強く自力では抜けられそうにない。
「あ、あの。自分で歩きます。だから離して」
「ダメよ。こうした方が都合が良いの、襲われても守ってあげられるし」
「えっ、襲われるって……どこへ行こうとしてるんです?」
「色々。挨拶回りってとこ」
女は氷の上を滑るようにして廊下を進んでいく。彼女は理科室に入り、黒板横の理科準備室の扉の前で足を止めた。
「あ……鍵閉まってるんじゃ」
「問題ないわ」
女がそう言うや否や、ガチャリという音がして独りでに扉が開いた。一瞬どんなカラクリがあるのか考えてしまったが、すぐにそんなのは無意味だと気付く。
彼女はお化けなのだ、どんな超自然的な力を使っても不思議ではない。
「ねぇ少年。あなたこの理科室にまつわる話を知っているかしら」
「い、いえ……」
女は俺を抱えて人体模型の前まで歩み出る。
身長は俺と同じくらいだろうか。きっと材料は樹脂やプラスチックのはずだが、温かさやぬるりとした臓器の感触が頭に浮かんでしまうほどリアルだ。そしてこの奇妙な身体。腹にはパズルのように臓器がはめられ、なぜか顔半分だけに皮膚が張られている。まるで生徒を驚かすために作られたかのような絶妙な気持ち悪さである。
遠くから見ているだけでも嫌なのに、女は俺をグイグイ人体模型に押し付ける。
「この人体模型、夜になると動くのよ」
「そんなまさか……はは」
「まさか信じてないの? あなたの後ろにいるのは誰?」
「う……」
クラスメイトの言っていた噂は本当だった。現に今、俺はそのお化けに抱きかかえられて宙に浮かんでいる。
ならば彼女の言っていることだって――
「昔変態の理科教師がいてね。あなたみたいな可愛い男の子を殺してバラして加工して、人形に仕立て上げたのよ。それがこの人体模型」
「な、なんで今そんな話……」
「ほら、目を逸らさないでちゃんと見なさい」
女は俺の顎に優しく手を添えまっすぐに人体模型を見つめさせる。人体模型と目が合っているような気がして、思わず生唾を飲み込んだ。
と、その時。
人体模型の目玉が、ギョロリと左右に動いた。
「う……ううう」
「どうしたの?」
振り向こうとするが、女に顎を固定されていて顔を動かすことができない。目玉をギョロギョロ動かす人体模型を至近距離で見ながら恐怖を押し殺して口を開く。
「あ……目、目が。動いて……」
「そう」
女はそう言って人体模型の腹に俺の身体を押し付けた。生温いグチャリとした湿っぽい感触、そして微かな振動が服の上から伝わってくる。
「うわあああっ! やめて、離して!」
女の腕の中で必死にもがくが、彼女はますます強く俺の身体を抑え込んで離そうとしない。
「ねぇ、怖い?」
「怖いに決まって――」
その時、人体模型が滑らかに動き、その拳を俺の頬にぶち込んだ。
「えっ……ええっ!?」
殴られた痛みと人体模型が動いた恐怖でもうわけがわからない。呆然としていると不意に女の手が緩み、俺は地面に尻餅をついた。
人体模型は俺を睨みつけ、宙に浮く上半身だけの女子高生に詰め寄る。
「おいお嬢、なんだこのガキは! どういう関係だ!?」
人体模型は眉を吊り上げてそう息巻く。
女は呆れたように目を回し、わざとらしくため息を吐いた。
「第一声がそれ? 本当馬鹿ねあんた」
「なっ、なんだと!」
「いきなり体が動かなくなったとか、そういう疑問はなかったわけ?」
「は? い、いや……普通に夜が明けたんだなーって」
「日が沈んだばかりだったでしょう? そんなに早く日が昇るはずないじゃない」
「ああ……言われてみればちょっと変だったかな。あれっ、なんで日が出てるのに動けるんだ俺」
「はぁ、もっとマシなのから起こせばよかった」
女はそう言いながら再び俺の身体に手を回し、先ほどと同じように抱きかかえた。
それを見て人体模型は目を見開き怒りの形相を浮かべる。
「なななな、なんのつもりだ! 降りろクソガキ!!」
「ヒイイッ」
「うるさいわね。窓から投げ捨てるわよ。さぁ少年、次はこっち」
女は次にロッカーのような場所を開け、中に入っていた骨格標本に俺の身体を近づける。俺の嫌な予感を裏付けるかのように、女は俺の耳元で囁いた。
「ねぇ少年、あなたこの骨格標本にまつわる話を知っているかしら」
*************
「も、もう勘弁して……ください……」
俺は息を荒げながら女にそう懇願する。
人体模型、骨格標本、音楽室の肖像画、夜ピアノを弾く幽霊、トイレの花子さん、鏡に映るお化け……様々な怪談を聞かされ、そのすべてが話の通りに具現化したのだ。
今、その魑魅魍魎は俺と俺を抱える女子高生のお化けを取り囲むようにして教室に集まっていた。
「なぁお嬢、そろそろ教えてくれよ。一体何がどうなってんだ?」
人体模型が机に腰を下ろしながらそう言うと、他の異形の面々も一斉に頷いた。
「今日は変な事ばっかりだ。明るいのに動けるし」
「でもなんだか力が入らないのよね」
「そいつだ、そいつのせいだきっと!!」
「ええっ、俺じゃないよぉ」
「いいやお前だッ!」
そう言って人体模型が般若のような顔で俺を指差す。
「おい、コイツ鏡の中に引きずり込んで閉じ込めちまえ!」
だが鏡の中の人体模型は目の前の人体模型と違い、机の上で横になって大あくびをしている。
「ええ……今そんな元気ないよ」
「なっ、なんだと! この腰抜けどもめ、なら俺がこの手で……」
「ヒイイッ!?」
血走った眼で俺を捕えながらジリジリと人体模型がその距離を詰めてくる。
だがすぐに俺と人体模型との間に女子高生が入り込み、今にも襲いかかろうとする人体模型を制止した。
「やめなさい、この子を殺したらあんたはただの樹脂とプラスチックの塊でしかなくなるわ。みんなそうよ、ただの紙きれ、ただの鏡、ただの骨格標本。私も消えてなくなる」
「ど、どういうことだそれ?」
人体模型は、いや、他の皆も困惑した様に首を傾げている。かく言う俺も彼女の言葉の意味をくみ取ることができなかった。
頭の上にクエスチョンマークを浮かべる俺達を見下ろしながら、女は口を開く。
「私たちは人間の感情を憑代に存在できている。でも今、この世界で私たちの存在を知っている人間は彼一人。彼がいなくなったら私たちを知る者はいなくなる、世界から完全に忘れ去られるの。そうなった時、私たちは誰一人としてここに立ってはいられなくなる」
「はぁ? い、いや……俺達は結構メジャーな存在だろ? 全国の子供たちが俺たちに恐怖を抱いている、こんなガキいてもいなくても――」
「ここはもう私たちの知っている世界じゃないのよ。いったい世界のどこに竜の飛んでいる地域があるって言うの。あなた達は有名すぎて感じたことがないでしょうけど……私は自分を知っている人間が最後の一人になったことがある。その時の感じと今はそっくりだわ」
人体模型はなおも何かを言いたそうに口をモゴモゴとさせていたが、やがて言葉を飲み込んで俯いてしまった。
ざわついていた教室が一気に静かになる。
彼らははようやく気が付いた。
……俺はやっと自覚した。
どうやら俺達はとんでもないところに迷い込んでしまったらしい。
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「顔色が悪いわよ少年」
屋上で夕日を眺めていると、セーラー服の女がふわりと横に座った。
せっかくなら普段は施錠されている屋上に上ってやろうと思って来たのだが、それは大きな失敗だった。屋上から外の世界を眺めていると、自分が大変な場所に来てしまったという事を嫌が応でも直視させられる。夕日が沈んでいくのは見慣れた住宅街ではなくどこまでも続く樹海だし、夕日にシルエットが浮かぶのはカラスではなくライオンに羽の生えたような化け物だ。そして隣にいるのは女子高生のお化け。お化けとはいえ、このおかしな世界では随分とまともな見た目をしている方である。
「……俺、どうなっちゃうんですかね。帰れるんですかね」
「こっちが聞きたいわ。あ、悲観して自殺なんてしたら許さないわよ。あんた一人の命に私たち全員の存在が乗っかってるってこと忘れないでよね」
「はは……しませんよそんな事」
そう言ってため息をついた拍子に、タイミング悪く腹の虫が鳴き声を上げた。
「ああ、おなか減った。カレー食べたい」
「……そうか、そうだったわ。あなたは生きているんですもの、お腹が減るわよね。水だって……ああ、どうしてそんな事も思い浮かばなかったのかしら。明日、誰かに森へ探索に行かせるから」
「い、いや。俺も行きますよ、さすがに一人じゃ怖いけど誰かついてきてくれれば」
「ダメよ、あなたが死んだらみんな消えるんだから。そんな危ない事させられない」
「あ……そ、そうですね。すいません」
「とにかくあなたはいついかなる時も自分の身を第一に考えなさい」
「は、はい」
俺は彼女にぺこりと頭を下げる。
つっけんどんな口調だが、案外優しい人なのかもしれない。いや、俺が死んだら皆死ぬからそうしているだけかもしれないけど……。
「あ、あのう」
「なによ」
ぶっきらぼうに答える女を、俺は横目で盗み見た。夕日に照らされた彼女は本当に普通の女子高生のようだ。教室に集まった時から思っていたが、彼女だけ他の皆と違うような感じがするのだ。なんというか、立体感があるというか、人間っぽいというか……
俺は勇気を出して女に言った。
「あの、さっき言っていた『自分を知っている人間が最後の一人になった』っていうのはどういう……」
「……そうね、例えば人体模型。ただの樹脂製の人形だって分かっていても怖いでしょう?」
「そ、そうですね」
「その怖いって気持ちがあの人体模型に自我を与えたの。他の子たちもそう。ピアノが勝手になりだしたら、鏡に変なものが映ったら――そういう恐怖が具現化したのね。でも私は違う」
女は夕日を見つめながら小さく息を吐く。
「私はね、学校の近くの踏切で事故にあって死んだのよ」
俺は思わず生唾を飲み込んだ。クラスメイトの言っていたあの噂、本当だったんだ。
女は淡々と続ける。
「気付いたら踏切に立っていて、線路の上に自分の死体が横たわってた。ずいぶん前の事だからあなたは知らないかもしれないけど当時はニュースにもなったのよ。行くあてもなく踏切にいると、時々こっちに気付いてくれる人もいた。でも毎日毎日どこかで誰かが死んで、新聞は日々新しいニュースを取り上げる。少しずつ、少しずつ忘れられていくの。それに従って自分が消えていくのが分かるのよ。恐かった、消えたくなかった。だから、忘れられないようにしたの。まぁ『最後の一人』っていうのはちょっと大袈裟だけどね」
「……ごめんなさい、変な事聞いて」
「別に良いわ。あなたが私に何らかの感情を抱いてくれれば私の力はもっと強くなるし」
「あの、ついでにもう一つ聞いてもいいですか?」
「なに?」
「どうして踏切でも自分の母校でもなくうちの中学に来たんですか?」
聞くと、突然女は口を三日月形に歪めてニタリと笑った。
「それはね――」
女はそう言ってどこからか鎌を取り出し、俺の首筋をなぞった。
冷たい金属の感触に鳥肌が立つ。
「どうせなら可愛い男の子の悲鳴を聞いて毎日を過ごしたいと思ったからよ」
「ヒッ……」
俺は思わず息をのむ。
慌てて逃げようと立ち上がったが、女に回り込まれてしまった。
「こんなナマクラじゃ草だって刈れないわ。もっと悲鳴を上げなさい、怖がんなさいよ」
「ヒイイッ、もう十分怖いです! あなたの事はこれ以上怖くなりようがありません!」
「まだまだ足りないわ。あ、そうそう、私の事はお姉さんと呼びなさい」
「えっ、な、なんでですか」
「良いから呼びなさいよ、早く!」
「お、お姉さん……」
「うん、良い響きね」
女、改め「お姉さん」は満足げに腕を組んで頷く。
俺は後退りで彼女と距離をとりながらその妙な熱気に身体を震わせた。
「もう俺、お姉さんのことがわかりません……」
「これから分かるわよ。時間はたっぷりあるんだから」
「はぁ……ん?」
風の音と空飛ぶ猛獣の鳴き声に交じり、どこからか声が聞こえる。
慌てて屋上を囲むフェンスの隙間から外の世界を見下ろすと、校舎の正面玄関近くに白い馬車が停まっていた。そのすぐそばには数人の人間。変な格好をしているものの、確かに人間である。
「人だ、人がいる! 助けを求めましょう!」
「待ちなさい」
校舎に戻ろうとする俺の腕をお姉さんは強く掴んだ。
「な、なんですか? 急がないと」
「ふふ、私たちに任せなさい」
「なにするんです……?」
嫌な予感。
それを裏付ける様に、お姉さんは邪悪な笑みを浮かべた。
「脅かすに決まってんでしょ!」
そう言い残し、お姉さんはすごい勢いで校舎へ戻っていく。そして中から扉を施錠して俺を屋上に閉じ込めた。
「お姉さん! ちょっ……開けて、開けてよ!」
扉の向こうからお姉さんの高笑いが聞こえてくる。それは徐々に小さくなり、とうとう聞こえなくなった。
太陽は沈み、空飛ぶ猛獣の鳴き声も止んだ。暗闇の中、聞こえるのは風が木々を揺らす音、それから俺が必死に扉を叩く音だけ。
校舎でなにが起こったのかを知ったのは、夜がすっかり明けてからのことであった。
*********
結論から言うと、校舎は酷い有様になっていた。
あちこちに血溜まりができ、人の死体が折り重なって――という意味ではない。
「うううっ……怖かったぁ」
教壇の影で人体模型が膝を抱えて震えている。
鏡からすすり泣く声が聞こえるが、覗き込んでも顔や姿は映らない。
バッハの肖像画は血の涙を流し、隣に並べられたベートーベンが優しく慰めている。
「こ、これはどういう事ですか?」
教室の中心で呆然と立ち尽くすお姉さんに声をかけると、彼女は蒼い顔をゆっくりとこちらに向けた。
「やられたわ。あいつら、逃げるどころか立ち向かってきたのよ」
「あっ、ああああいつら剣なんかもってたんだぜ!? 銃刀法違反だろ! あ、あと少し前に出ていたら……首が飛ぶとこだった……」
人体模型はそう言ってしきりに首をさする。
みんなそれぞれ死ぬほど怖い思いをしてしまったらしい。教室の空気はずっしりと重く、少しの物音にも敏感になっている。
静けさを破ったのは壁にかけられたベートーベンの肖像だった。
「怪物が空を飛んでるような世界の人間だ。武装だってしているだろうし、俺なんて所詮はただの絵」
「そうだよな、相手は丸腰の中学生じゃないんだもんな……」
「もうダメだっ、俺達ここで消えるんだーッ!」
そう叫びながら頭を抱える人体模型。教室はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図のようだ。
だがその時、お姉さんがパニックにおちいるお化けたちにピシャリと言い放った。
「ちょっと静かにして! ねぇ、少年。あなたの意見を聞かせて頂戴」
「お、俺ですか?」
戸惑う俺の肩を、お姉さんはがっしりと掴んで顔を寄せた。
「そうよ、あなたよ。あなただけが観客の目線を持っている。演者に教えて。もう打つ手はない? この世界の人間には私たちの恐怖は通用しない? どう思うか、あなたの考えを言って」
「俺は……俺は……」
頭の中に巨大なドラゴンを思い浮かべる。
あんなのがその巨大な口を開いて襲いかかってきたら、きっとものすごく怖い。誰だってそうだ。ドラゴンじゃなくたって、ライオンやトラ、大型犬が牙を剥いて襲いかかってきたら、きっとものすごい恐怖を抱くことだろう。
ならお化けは?
お化けにドラゴンの様な直接的な怖さは無い。人体模型が動いたから、肖像画が泣いたから、鏡に変なものが映ったから、だからなんだって言うんだ。生きている人間が一番怖いとはよく言ったものだ、刃物を持った変質者の方がはるかに俺達に危険をもたらす。
でも、こんなに科学が発達していても、俺たちはホラー映画に、廃墟の暗闇に、夜の学校に恐怖を抱く。
そして俺たちは時に直接的な脅威よりも「得体のしれないなにか」により強く恐怖を感じる。きっと理屈じゃないんだ、怖いって言うのは。
「――俺は、できると思います。つまり……脅かすことは可能だって思います」
人体模型は突然立ち上がり、肩を怒らせて俺の方へ向かってきた。
「だから!! 無理だって言ってんだろ!? お前現場を見てねぇくせによくもぬけぬけと」
「そ、そう。俺は現場を見ていません……だから、教えてください。どんな風に人間と対峙したんですか」
「ッ……ど、どんなって」
人体模型は腕を組み、苦い顔をしながらも口を開く。
「まずは俺がアイツらの前に踊り出た。手っ取り早く脅かしたかったから靴箱から飛び出して……そしたらアイツら、逃げもせず立ち向かってきたんだ。普通追いかけたら逃げるだろ!? でも奴ら、逆に追いかけてきやがった」
「なるほど……剣は最初から構えていましたか?」
「剣? あ、ああ。そう言えば鞘から抜いてたな、飛び出た瞬間に斬りつけられそうになったし」
「じゃあやっぱり駄目です。そのやり方じゃ」
「なっ、なんだと!?」
目をひん剥いてこちらを睨みつける人体模型。
正直凄く怖い。でも、ここで言わなくちゃ。俺は大きく息を吸い込み、できるだけ強い口調でまくしたてた。
「だ、だって、それじゃあの人たちにとって人体模型君はモンスターでしかないじゃないですか。人体模型君は正直言ってモンスターとしてはかなり弱い部類です。だってそうでしょ、爪も牙もないし力だって強くない!」
「う、うぐう……」
「皆さんはモンスターじゃない、お化けなんです! 怪獣映画やゾンビ映画、スプラッター映画みたいな脅かし方ではこの世界の人たちに太刀打ちできません。暗くてジメッとしていて、掴みどころのない恐怖。そう言うのが必要だと思うんです」
「ジャパニーズホラーってやつ?」
鏡の中の俺がジッとこちらを見ながらそう言った。
俺は恐怖を押し殺しながら頷き、鏡の中の自分の言葉を繰り返す。
「ジャパニーズホラー……そうです、ジャパニーズホラーです! ああいうジメッとした、背後から少しずつ迫りくるような怖さで戦ってください」
「うーん、しかしそうは言われても……私はずっと音楽室にいたから映画なんて見たことないぞ」
いつも以上に難しい顔をしながらベートーベンが口を開く。その言葉にバッハも頷いた。
「ええと……そうですね、分かりました。じゃあ俺が校内を周りますから、ちょっと脅かしてみてください」
「えっ、良いのか!」
魑魅魍魎の眼が一斉に輝く。
練習台として名乗り出たことを少し後悔しかけたが、人間にやりたい放題され、自信を失った彼らに再び悲鳴を聞かせてあげることも重要だ。だが俺だって一度日の光の下で彼らを見ているし、こうして話までしている。そう易々と悲鳴を聞かせるつもりは無い。
「ちゃちなお化け屋敷みたいな脅かし方ではもう怖がりませんよ。時間をあげます、校舎の時計で1時間経ったら校内をぐるりと一周しますから、良く考えて驚かせてみてください。スタートは正面玄関から。後で……いや、余裕があったらその場でダメだししますからね」
彼らはワッと歓声を上げ、それぞれ教室を飛び出していった。
********
次の日、すっかり日も沈んだ頃彼らはやって来た。
「なんですかねぇ、この建物。ダンジョン?」
「魔物の気配はしないから大丈夫だ。屋根があるだけ野宿よりはマシだろう、行くぞ」
旅人……というやつだろうか。彼らは馬を校舎の脇に停め、大きな荷物を担いで校舎へと足を踏み入れた。一人は腰に剣を差した長身の男、もう一人は背中に斧を担いでいる小太りの男だ。
「でもなんか、廃墟にしちゃ綺麗ですね」
小太りの男が板張りの廊下を見ながら小さく声を出す。その声は誰もいないはずの静かな校舎に響き渡った。
「見たことない造りだが……もしかして学校か?」
「ああ本当ですね、机がたくさんある。でもこんな人気のないところに学校?」
男たちは教室を覗き込み首を傾げる。
だがじきにそんな事はどうでも良くなったらしい。机を端に寄せ、教室の中心に荷物を置いて座り込んだ。
「ま、何はともあれ屋根のある場所で一夜を明かせるんだ。ここがなんだろうとそれだけで十分さ」
「そうですね、雨も降ってきそうだったし……ん?」
「どうした」
小太りの男は首を傾げながら黒板の脇へと歩み寄る。
黒板の脇にかけられているのは、男の頭と同じくらいの大きさの飾り気のない鏡だ。男は鏡の中の自分の顔を覗き込み、ほっと息を吐く。
「ああいや、何かいたような気がしたんですけどただの鏡でした」
「なんだよ。脅かすな」
「はは、すいません。でも鏡まであるなんて至れり尽くせりですね。髪のセットもできますよ」
「お前に髪のセットなんて必要ないだろ」
「いやぁ、そんなことないですよ。短髪でも結構寝癖が――あれ」
小太りの男は不意に振り向き、長身の男と目を合わせた。その顔からは先ほどまでの笑顔が消えている。
「な、なんだ?」
「いや……今鏡に変なものが映ったような気が」
「変なものって?」
「黒い影みたいなのがカペリーニさんの背後に……」
「影?」
長身の男は慌てて振り向くが、そこには机があるだけで不審な物は見当たらない。
「なにもないぞ、見間違いだろう。それに魔物がそんな近くに接近したら俺が気付かないはずない」
「でも確かに」
「考えすぎだよ」
長身の男が冷たく一蹴したその時、静かな廊下から湿った足音が聞こえてきた。
小太りの男はほら見ろとばかりに目を見開いて廊下を指差し、長身の男も僅かながらその顔に恐怖の色を浮かべた。
「ッ……おい、武器を構えろ」
「ええっ、逃げないんですか?」
「いつまでもこちらの様子を窺ってばかりで襲ってこない魔物に大した力があるわけもない。サクッと殺ってさっさと寝るぞ」
荷物を担ぎ、剣を抜いて教室を後にする長身の男。小太りの男は情けない声を上げながら長身の男の後を追った。
「ちょっ、待ってくださいよ! 一人にしないで!」
「ビービー喚くなよ、お前は少し臆病すぎるぞ」
長身の男はあたりを注意深く見回しながら早足で廊下を進んでいく。
「どこから敵が見ているか分からないんだ、少しも怖くないみたいな顔をしていないと舐められるぞ。お前は図体ばかり大きいくせにノミの心臓だからな……おい、聞いているのか」
返事をする者はおらず、彼の言葉は廊下の暗闇に吸い込まれていった。男は立ち止まって慌てたように振り向くが、もはや彼の相棒の姿はどこにも見当たらない。
「お……おい! ペンネ! どこだ!」
男の声は廊下に反響し、そして虚しく消えていく。
さすがの男も動揺を隠しきれない。剣を構え、恐怖を押し殺して周囲の様子を窺う。
「くそっ、化け物め……! どこだ出てこい!」
彼を弄ぶかのように背後から少女の笑い声が上がった。剣を振り下ろしながら声の方を向くが、剣は空を切るばかり。声の主の姿を捕えることもできない。
と、その時。
無数の黒い手が男の影から伸び、彼の足を掴んだ。振り払おうと足をバタつかせるが、手は男の足を掴んで離さない。
「ぐっ……このッ!」
男は勢いよく剣を振り上げる。だがまるで鳶が狩りをするかのように「なにか」が男の手から剣を奪った。
「し、しまった……」
丸腰になり、呆然とする男。
彼が正面に視線を戻すと、すぐ先の廊下に髪の長い女が這いつくばっていることに気が付いた。
恐怖を堪えきれず男は後退りをしようと足を動かす。だが足は黒い手にガッチリと掴まれており、彼はよろめきながら廊下に尻餅をついた。
「あっ……あ……」
男は顔を蒼くしながら廊下の真ん中で震え上がる。
髪の長い女は廊下を這い、少しずつ少しずついたぶる様に男に近付いていく。
「ねぇ」
女は長い髪の隙間から血走った目をギョロリと男に向ける。
「足、頂戴」
その瞬間、男は校舎中に響き渡るような絶叫を上げて意識を失った。
******
「やった! 成功だぞ!」
校舎に住み着く魑魅魍魎が歓声を上げながら次々と影から這い出てくる。
俺も隠れていた教室から飛び出し、その成功と彼らの頑張りを讃えた。
「みなさん、凄い演技でしたよ! 練習通り、いや、練習以上にパーフェクトです!」
喜びを噛みしめ、大騒ぎをするお化けたち。
だが一人、お姉さんだけは歓声を上げることも喜びに浸ることもなくなにやら男の身体をまさぐっていた。俺は恐る恐るお姉さんと気を失った男に近付き、声をかける。
「あのう、なにしてるんですか? こ、殺しちゃダメですからね」
「殺すわけないでしょう。彼らは私たちの怪談の大事な語り手よ? でもタダで帰すわけにはいかないからね、入校料置いてってもらうわ」
そう言いながらお姉さんは男の身体から鎧などを剥がしていく。そして次に男の担いだ荷物の物色を始めた。
「そんな追剥みたいなこと……」
「なに甘っちょろい事言ってるの、お金や売れるものがあれば後々なにかの役に立つかもしれないじゃない。それに――あ、あったわ」
お姉さんは男のバッグの中から何かを取り出し、俺に投げてよこした。
それは鉄製の水筒、それから干し肉のようなものであった。
「取りあえずそれ食べてて。あなたに死なれるとみんなが困るのよ」
「あ……ええと、ありがとうございます」
「でもよー、あんまり力戻ってなくねぇか?」
そう言いながら人体模型が俺とお姉さんの間に強引に割り込み、俺をさりげなく突き飛ばした。
俺はよろめきながら力ない笑みを浮かべる。
「はは……やっぱり一人や二人脅かしただけじゃね」
「力が戻らないのはあなたがあまり活躍していないからじゃない?」
「うっ……いや、裏方の仕事を頑張ったんだぜ……な、ならお嬢はどうだってんだよ!」
「私? 私はねぇ――」
お姉さんはどこからか鎌を取り出し、素早く俺の身体に絡みついた。そして俺の髪を一房つまんで鎌の刃に押し当てる。その瞬間髪はハラリと地面に落ちた。
「髪くらいなら切れるわね」
「わっ、やめてくださいよ!」
「ふふふ、前髪が伸びたら私が切ってあげる。でも――」
お姉さんはまた鎌を俺の首筋に当て、ツウとなぞった。
その刃は確かに昨日よりも鋭さを増しているような気がする。
「これじゃあまだまだ完璧には程遠いわ。じゃんじゃん脅かして力を戻すわよ」
「ううっ……」
このままいけばいずれ彼女の刃は俺の皮膚を簡単に切り裂けるようになるだろう。
本当にこのまま彼らに協力しても良いのか。でも他に行くあてもないし。
いいや、そんなことよりも。
「俺、いつか帰れるのかなぁ……」
俺の呟きは魑魅魍魎の馬鹿騒ぎに飲まれ、暗い校舎へと吸い込まれていった。