第7話
約束の日、僕は前と同じように、穿き古したジーパンを引きずりながら、あの豪邸へ向かった。あえてあの豪邸に見合うような服装をしようなどという気の利いた考えは持たなかった。そんな考えを持ったところで、貧しい独り暮らしをする僕がきちんとした服を持っているわけはなかったし、実際、服装にいちいちお金をかけることを面倒に感じていたのだ。
サザンカの植木が並ぶ歩道を通り、レンガ造りの立派な壁の前に差し掛かると、見覚えのある女性の姿が目に入った。白い杖を大切そうに抱え、その女性はじっと身を固めて立っている。まぎれもない、あの子だった。
僕は、わざと足音をたてないようにして近づいた。しかし、彼女はすぐに僕の存在に気付いた。そして、ゆっくりと細い手を伸ばした。僕は、彼女の小さな白い手を握った。彼女は安心したように微笑むと、僕のシャツの端を、もう片方の手で強く握った。そのときに、手にしていた杖は地面に転がり落ちた。カランという頼りない音をたてて、杖は数十センチだけ離れたところへ転がった。
「落ちたよ」
僕がそれを拾おうとして身をかがめようとすると、彼女はいやいやと言うように首を横に振り、身体を固くして僕に近づいてきた。まるで、母親から離れるのを嫌がる子供のようだった。彼女の幼い一面が、一瞬、すごくいとおしく感じられた。
「中に入らないの?」
彼女は、僕の質問に、ただひたすら首を横に振る。
「入りたくないの?」
僕が聞くと、彼女はうんとうなずいた。
「このまま、どこかへ散歩に行こうか」
冗談交じりにそう言うと、彼女は勢い良く首を縦に振った。僕は、どうしたものかと考え込んでしまった。行く当てなどないし、目の見えない彼女を連れ歩くということは、何かしらの責任を負うということになる。しかし、当の本人は、すでに行く気満々のようだった。仕方なく、僕は彼女と一緒に散歩に出ることにした。転がったままの杖を拾い、彼女に渡した。彼女は、それを受け取りかけたが、すぐに僕に押し返した。
「どうしたの?」
「いらない」
「どうして?」
僕が問うと、彼女は微笑んで言った。
「あなたがいるから」
僕は、ますますの責任の大きさを感じた。僕が彼女の目の代わりにならなくてはいけないのだ。しかし、彼女は嬉しそうに笑っている。
「じゃぁ、これはここに置いていくよ」
彼女の笑顔を曇らせるのは悪い気がして、僕は彼女の考えを受け入れることにした。真っ白な杖をレンガの壁に立てかけ、僕は彼女の手をしっかりと握った。雨は夜のうちに上がり、今日は久々に青空が見られたが、水たまりはまだ少し残っていた。
「水たまりがあるから、気をつけて」
僕がそう言うと、彼女は腕を組んできた。微かに、彼女の柔らかな胸の感触が腕に当たった。思わずどきりとした僕をよそに、彼女は言った。
「どこへ行くの?」
「わからないよ。 散歩に行く予定なんて、立ててなかったんだから」
それを聞くと、彼女はまた笑った。無邪気な顔だった。僕は、彼女と腕を組んだまま、ゆっくりと一歩ずつ歩いた。彼女は、僕に寄りかかりながら、少しだけ不安げに、でもどこか期待を抱えながら歩いているようだった。