第6話
金曜日。僕は、仕事を一通り済ませたあと、仕事仲間と飲みに行く約束を交わしていた。僕よりも年上の人たちばかりだったから、居酒屋へ繰り出すのは少しだけ気が引けるものがあった。
「青木は今晩来れるんだろ?」
「ええ、まぁ……」
曖昧な僕の返事に対し、三歳年上の瀬戸さんが笑った。
「青木は最年少だからなぁ。 オヤジの会話にゃついて行きづらいんだろ」
「いや、そういうわけじゃないですよ」
携帯電話をいじりながら、十年以上のベテランである山本さんは尋ねた。
「高校卒業してすぐだったっけか。 おまえが来たの」
「山さん、奥さんからメールですか?」
山本さんは照れくさそうに頬をかきながら、携帯電話をパチンと閉じた。
「いつまでも新婚気分でいいですねぇ」
周りの人数人にからかわれて、山本さんは耳まで赤くなっている。僕は、どうしてここまで人を愛せるのだろうかと、山本さんを見ているといつも不思議になる。奥さんと子供の話をする山本さんの瞳は、いつも優しかった。そのことが、僕には理解できなかった。
「おまえ、けっこうかわいい顔してるんだからさぁ」
瀬戸さんは僕の頭を小突きながら言った。
「女の一人や二人くらい引っ掛けて来いよ」
僕は笑いながら、黙って首を横に振るだけだった。
夜の12時。僕らはひとしきり居酒屋で飲んだ後、その場で解散することになった。僕は、もともと酒が強い方ではなかったので、大して飲むこともなく、酔うこともなかった。
「気ぃつけて帰れよ」
山本さんは、仕事仲間全員にそう声をかけてから、また携帯電話を開いた。
「奥さん、お怒りですよ」
瀬戸さんをはじめ、周りの人はまた山本さんをからかった。そんなからかいに対し、山本さんはいつも照れくさそうに笑う。決して怒るようなことはなかった。
「じゃあ、おやすみ」
酒でわずかに赤く染まった頬をゆるませて、山本さんはみんなに軽く手を振った。周りはみんな、気持ち良さそうに夜の空気を吸い込みながら帰路についた。僕は、赤信号で立ち止まりながら、服にこぼした焼き鳥のタレを気にしていた。そして、ふと、みんなはどこへ帰るのだろうかと考えた。自分のアパートだったり、家族の待つ家だったり……。何かしら、彼らには帰る場所がある。しかし、僕にはそれがなかった。古びた安アパートは、どこか僕を排除しようとするような空気を感じられる。少なくとも、僕を迎え入れてくれるような優しさはまったくない。
信号が青に変わった。奇怪なブレーキ音を立てて、ぎらぎらのライトを灯した自動車が止まった。ちょうど、早く行ってしまえと、僕を急かすように思われた。
「僕の居場所」
それだけぼやくと、僕はまた、古びたジーパンの裾を引きずりながら歩き出した。
気付けば、あの豪邸の前に来ていた。ちょうど、仕事場とアパートの中間地点にある豪邸は、仕事帰りに、その前を通ることが容易なものだった。今まで気付かずに通り過ぎていたが、僕は、この家に住むあの白髪の女性――葛西圭子さんのことも、目の見えない彼女のことも、何も知らなかった。電灯の淡い光に照らされて、腕時計は12時半を指していた。
豪邸に並ぶ窓からは、明かりは一切漏れていなかった。人の住む気配すらしなかった。彼女は、本当にこの豪邸の中にいるのだろうか。僕は、目を凝らして家の中を見ようとして、思いとどまった。たとえ僕がどんなに視線を送ったところで、あの子は僕に気付くことはない。
豪邸を後にし、僕は真っ直ぐにアパートへ向かった。心がわずかにきしんでいるのに気付いた。あの子のことを考えると、いつも心がきしむ。恋愛とか、彼女の目が見えないことに対する同情とか、そんな感情とはまた違うように思われた。
アパートの鍵を開けたとき、僕は軽い吐き気に襲われた。急いでトイレに駆け込み、胃液を吐いた。大して飲んだわけでもないのに、気分は最悪だった。部屋の片隅で針を振るわせる時計の規則的な音だけが、耳の鼓膜を刺激していた。手足の感覚を忘れたように、僕は、トイレの入り口に座り込んだ。頭の中が、空洞になってしまったように感じられた。