第5話
「青木、こっち」
自動車の車体の下から、でかい声が響いた。僕は、油がついた頬をぬぐいながら、言われた通りのことをすることだけに集中した。いつもそんな調子だった。上の人間に言われるがまま動くことばかりだった。
高校を出てすぐにこの工場に勤め始めた。給料もまぁまぁいただいているわけだし、何とか生活するのには十分な給料だったから、不満を言うことも、仕事を変えようと思うことも特になかった。ただ、たまに、常に受身である自分に嫌気がさすこともあった。
「青木」
また誰かが名前を呼んだ。
「お客さんだ」
僕は、仕事の手を一端止めて、工場の入り口へ走った。たまに、母親が心配して工場にやって来ることがあった。父親と僕の仲が良くないことを知っている母親は、僕に会いに来るときはたいてい、工場かアパートへ連絡もなしにやって来る。
しかし、その日のお客は違った。
「こんにちは」
白髪の女性だった。僕は、無言で頭を下げた。
「お昼休み、一緒にランチでもいかがかしら」
カーキ色の薄汚れたつなぎのまま、僕はあの女性と小さなレストランに入った。アンティーク調の落ち着いた雰囲気の店内に、僕の汚い服装は不釣合いだった。しかし、女性は特に気にする様子もなく、メニューを眺めている。僕は一口水を飲み、彼女と同様、メニューに目を落とした。
「彼女は一緒じゃないんですか?」
僕はわざと明るく言った。女性は、首を横に振る。そして、ウェイトレスを呼んだ。
「私、Aのパスタをいただくわ。 あなたはどうなさるの?」
女性に促され、僕はカレーライスを頼んだ。特別お腹が空いているわけではなかったし、財布と相談すると、高価なものは頼めそうもなかったのだ。
「残してきたわ」
僕は、一瞬何のことかと思った。
「あの子、私のこと嫌いだから」
その言葉で、ようやく彼女のことだと気付いた。
「私とは喋りたがらないし、私もあの子と喋るのは苦手なの」
コーヒーの香りがつんと鼻をついた。厨房の方から、鍋や食器の触れ合う音が響いてきた。女性は、自分の白髪が窓に映るのを見て言った。
「私、何歳に見えるかしら?」
僕はしばらく考えてから、適当に、五十過ぎくらいだろうかと答えた。あまり多く年をよみすぎても失礼だし、かといって若すぎても不自然だ。女性からの年齢についての質問は、難しい。僕の答えを聞くと、女性は笑いながら言った。
「こう見えても四十三なのよ」
「すみません」
思わず謝った。四十三歳という若さが信じられなかった。真っ白な髪と、目尻のしわは、明らかに四十代の女性のものではないように思われたのだ。
「あの子に会ってからなの」
女性はおしぼりで手をふきながら言った。
「この髪も、顔のしわも」
ウェイトレスが、二人の前にパスタとカレーライスを運んできた。テーブルの端に伝票を置くと、小さく礼をしてカウンターに戻っていった。女性はスプーンとフォークを手に持ち、器用にパスタを絡めて口に運んだ。その光景を、僕が間の抜けた顔で眺めていると、彼女はこちらを見て、食べるようにすすめた。僕は急いでスプーンを手にし、カレーライスを口に押し込んだ。思ったよりもルーは辛かった。僕はコップの水を一気に飲み干した。ウェイトレスがやって来て、僕のコップに冷水を注いだ。
「あの名刺」
女性は、パスタを絡める手を止めてささやいた。
「どうか、捨てないでね」
その声は、店内に流れる微かなBGMにすらかき消されるほど小さな声だった。僕は、何とか彼女の唇の動きと、曖昧な発音から、言葉を理解した。
「私は、あの子に殺されてしまうかもしれない」
僕は、口に運びかけていたカレーライスを、危うく膝の上に落としそうになった。
「もうだめ。 私一人じゃ、どうにも……」
女性は、白髪をくしゃっと握ると、手元にあったナプキンで口元を拭った。
「ごめんなさい。 もう行くわ。 お会計は済ませておくから」
早口にそう言うと、僕が何か言う前に、テーブルの上の伝票をひらひらさせながらレジのところへ歩いていってしまった。彼女が注文したパスタは、一口二口手を付けただけで、まるまる残っていた。僕は、ポケットから財布を取り出し、先週の日曜にもらった名刺を探した。
『葛西圭子』
黒いはっきりとした活字で、名刺の中央にそう書かれていた。
「そういえば、あの子の名前、まだ知らないな」
冷め切ったカレーライスを口に運びながら、僕は夢の中にいるような妙な浮遊感にとらわれた。あの子に会ったことも、白髪の女性のことも、夢のように思われた。現実と夢との境が、分からなくなっていた。
女性の台詞が、頭にこびりついていた。“殺される”とはどういう意味だろう。僕は、とりあえず、次の日曜も、あの豪邸へ出向こうと思った。特に深い理由はなかった。しいて理由を言うのなら、興味があったから。それが一番適切な表現に思われた。
コーヒーの香りが鼻をついた。腕時計を見ると、休憩時間はあと十分ほどで終わるところだった。食べかけのカレーライスを残したまま、僕はレストランを後にした。何となく、もうここのレストランに来たいとは思えなかった。