第3話
日曜日。その日は、仕事が休みだった。僕は、レンガ造りの大きな邸宅の前に来ていた。磨き上げられた表札と、カメラの付いたインターホンを前にし、少々緊張していた。僕は、意を決してベルを鳴らした。機械的な音が響いた。僕は、前髪を少しだけ整えた。インターホンの奥から、カチャッという音がして、誰かの声がした。
「どうぞ」
声と同時に、目の前の門が、重たそうにガチャンと音をたてた。僕は門をゆっくりと押し、レンガの壁の奥へと足を踏み入れた。色鮮やかなアジサイが目に留まった。青く濃く色づいていた。こんなに大きなアジサイは、今までに見たことがなかった。
「こっち」
アジサイに気をとられていると、庭の向こうのドアから、初老の女性が顔を出して手招きをした。きれいなふわふわの白髪が印象的だった。僕は軽く会釈をしながら、その女性のもとへ歩いていった。
「おあがりになって」
女性はそう言いながら、僕を玄関へ通し、若草色のスリッパをすすめた。家はあまりに豪華で、玄関があまりにきれいだったから、僕は、自分の汚らしいジーパンと、黒ずんだスニーカーとを見比べて、とても恥ずかしい気持ちになった。そんな僕の心の内がわかったのだろうか、女性は笑って言った。
「いいのよ。 気になさらないで」
笑い方が、あの女性と少し似ている気がした。
床は、傷一つないフローリングで、ぴかぴかに光っていた。壁は真っ白だった。僕は、自分のアパートの狭さと汚さを思い浮かべながら、こんな邸宅に住めたらどんなにかいいだろうと、のんきに考えていた。白髪の女性は、紺色の涼しげなワンピースを着ていた。上品で、清潔な様子が、服装からだけでも見て取れた。僕は、ぐにゃぐにゃのシャツのしわを伸ばしながら、女性の後について歩いた。ほどなくして、広いリビングに通された。ベージュのふかふかのソファ、ガラスのテーブル、スリッパと同じ若草色をしたカーテンと、壁一面に広がった大きな窓。天井からは、立派なシャンデリアがぶら下がっている。
「座ってください。 コーヒーとお紅茶、どっちがいいかしら」
僕は、向かい合って並べてあるソファのどちらに座るべきかを考えるのに必死で、彼女の質問になかなか答えられずにいた。彼女は思い出したように言った。
「美味しいお紅茶をいただいていたのよ。 ミルクととっても合うの」
そう言って、彼女は僕に、紅茶でいいかと尋ねた。僕は状況を理解できないままに、ただうなずいた。僕のうなずくのを見ると、彼女はリビングとつながっているキッチンへ、いそいそと歩いていった。
「リッチだなぁ」
僕は、ソファに身を沈めながらつぶやいた。そのとき、廊下から、微かな足音が響いてきた。そして、リビングの入り口から、ためらいがちに若い女性が入ってきた。彼女だ。
「こんにちは」
僕が言うと、彼女はぺこりと頭を下げた。そして、ゆっくりと僕の声のする方へ歩いてきた。僕は、彼女の手を取った。一瞬、彼女は身体を震わせたが、すぐに安心したように表情を緩めた。僕は、隣に彼女を座らせた。
「お礼がしたいって」
彼女は膝を揃えてソファに座り、とても小さな声で、ゆっくりとそう言った。僕は、彼女のスカートの裾からのぞく絆創膏を眺めながら言った。
「でも、怪我をさせたのは僕の方だから」
彼女は首を横に振った。キッチンから、白髪の女性がトレイを持って出てきた。銀色のトレイに、花柄の装飾のほどこされたカップが三つ。
「どうぞ」
女性はそう言いながら、慣れた手つきでテーブルの上にカップを置いた。
「甘いものはお好きかしら」
「いえ……甘いのは苦手で」
僕がそう答えると、隣にいた彼女は小さく笑った。
「あ、僕何か変なこと……」
彼女は口を開きかけたが、すぐに唇をぴたりと閉じてしまった。白髪の女性は、自分も向かい合わせのソファに座った。
時間は比較的ゆっくりと流れた。慣れない紅茶と、ふかふかすぎるソファの感触に、僕は自分を順応させることができずにいた。女性は物静かな喋り方をした。僕は、こちらから話しかけるようなことは滅多にせず、ほとんど女性の質問や話題に答える形でいた。
「お名前、青木くんだったわよね」
僕は、熱い紅茶に手こずりながら、何とか返事をした。
「お仕事は何をなさっているの?」
「自動車の修理工場で」
「もしかして、この先の村上さんのところかしら」
「はい」
女性は、頭に手を当てて、“村上さんの修理工場”への道を思い出そうとしているようだった。僕は、熱い紅茶を飲むことをあきらめ、テーブルの上にカップを置いた。隣に座って黙っている彼女は、まだ一口も紅茶を飲んでいなかった。僕は、彼女のカップを取り、そっと手に持たせた。彼女は、柔らかなものに触れるように、そっとカップの取っ手に指を通し、熱い紅茶に、慎重に唇をつけた。静かに喉を鳴らして一口だけ飲み込むと、僕の袖をつかんで小さく引っ張った。
「もう、いいの?」
彼女は、僕の問いかけに無言でうなずいた。僕は、彼女からカップを受け取り、テーブルの上に戻した。
「ねぇ、今度はいつお仕事がお休みになるの?」
初老の女性は、ふいに尋ねた。僕は、毎週日曜は工場が休みだと答えた。
「次の日曜日、またよかったらいらして」
女性はそう言ってから、小さな名刺を差し出した。それから、僕の隣に座って身を固めている彼女に同意を求めた。彼女は、小さくうなずいただけだった。決して口を開こうとはしなかった。