第23話
日曜日。
「いらっしゃい」
葛西さんが玄関先で手を招く。僕は、擦り切れたジーパンを引きずり、あの豪邸へ足を踏み入れる。相変わらず庭はきれいに整えられている。枯れた向日葵がうつむいている。その向日葵の顔からは、生まれたばかりの種が溢れんばかりに実っているようだった。
「もう、夏も終わりね」
葛西さんはそう言うと、向日葵を眺めた。僕は何も言わずにうなずいた。
「さ、上がってちょうだい。 あの子、待ってるから」
僕は、言われるがままに家に上がった。葛西さんが出してくれた若草色のスリッパに足を入れ、フローリングのぴかぴかの床を歩いた。廊下の真っ白な壁に、真っ青な空の写真が掛かっていた。白と青の対比が鮮やか過ぎるくらいだった。写真の隅に、白い字で小さく、“KASAI”と書かれていた。
「それね、私が撮ったの」
葛西さんは嬉しそうに言った。
「こう見えても、昔はけっこうアクティブだったのよ」
思わず僕は笑った。笑うのは何日ぶりだろう。葛西さんは、笑っている僕の腕を引いて、リビングへ通してくれた。リビングのテーブルの上に、桃色の小さな花が飾ってあった。
「呼んでくるから、ちょっと待っててね」
葛西さんはそう言うと、パタパタと走って行った。僕は、リビングに残され、立ちすくんでいた。何だか、緊張していた。さくらは、どんな顔をして来るだろう。久しぶりの僕に、どんなふうに話しかけてくれるのだろう。
数分、僕は立ったままで固まっていた。なかなか二人は来る気配を見せない。さくらは目が見えないから、時間がかかってもそれは仕方ないだろうと言い聞かせ、僕はじっと待った。座ろうという気にはならなかった。本当は、僕も彼女に会いたかったのだと、今さらながら気付いた。身体中がうずうずする。早く会いたい。さくらに会いたい。
「お待たせしたわね」
葛西さんがようやく顔を見せた。さくらはまだ来ない。
「ほら、青木くんよ。 顔、見せてあげなさい」
そう言われて、ゆっくりと、廊下からさくらが出てきた。何だか、前と様子が違う気がする。何が違うんだろう。そう考えて、僕は、さくらが少し、化粧をしていることに気付いた。
「あいさつは?」
葛西さんはさくらに言う。さくらは、小さく頭を下げた。僕は、上手く声が出せなかった。何を言えばいいのかわからなかったのだ。さくらは、ゆっくりと歩いてきた。そして、手を伸ばした。相変わらず白くて、細い腕だった。僕は、その手を取った。
「ゆうじ」
彼女は僕の名前を呼んだ。そして、僕の手を硬く硬く握った。そのまま、僕は立ちすくんでいた。さくらの唇がわずかに震えている。僕は、何だかとても息が苦しくなって、彼女の名前を呼んでやれなかった。
「お茶、置いておくわね。 私、奥の部屋にいるから。 何かあったら呼んで」
葛西さんは、いつの間にかテーブルの上にアイスティーを二つ用意していた。僕は頭を下げた。葛西さんはにこりと笑うと、そのままリビングを出て行った。廊下を、スリッパの擦れる音が遠ざかっていくのがわかった。
「ゆうじ」
さくらは、また僕の名前を呼んだ。僕は、さくらの身体を引き寄せると、強く抱きしめた。何だかもう、わけがわからないくらいに、彼女が愛しかった。このまま離したくないとさえ思えた。