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彼女。  作者: ling-mei
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第20話

 葛西さんは、僕を車に乗せ、どこかへと走り出した。

「待っていたのよ」

「え?」

 僕は間抜けな返事をした。葛西さんは車を運転しながら、ふふっと笑う。笑い方が、どうしようもないくらい、あの子――さくらに似ていた。胸がきしんだ。

「あなた、あれ以来うちに来なかったじゃない」

「すみません」

「あら、そういう意味じゃないのよ」

 車は、少し狭い道へ入って行った。薄暗い道をしばらく走ると、高級な住宅街のある通りに出た。茶色のレンガ造りのきれいな邸宅が、両サイドに並んでいる。この町に、こんな高級な通りがあったなんて知らなかった。

 ほどなくして、ガーデニングのきれいな、小さな喫茶店のようなところに着いた。クリーム色の壁は、無造作に塗りたてられたような風合いだった。

「ここでいいかしら」

 僕は黙ったままうなずいた。そして、自分が、いつもの擦り切れたジーパンを履いていることに気付いた。ただ、運が良いと思えたのが、シャツがこの前買ったばかりのきれいなものだということくらい。自分の服装に目を落とす僕を見て、葛西さんはまた笑った。

「気になさらないで。 けっこう周りはそういうのに無関心なんだから」

 あぁ、やはりさくらに似ている。僕は、何だかとても悲しくなって、気付いたら泣いていた。

「どうなさったの」

 葛西さんは驚いて僕の顔を覗き込む。僕は、急いで涙をこすり取り、何でもないと言った。葛西さんは、そう、と言いながらも、表情を硬くした。僕は、慌ててわざと、お腹がぺこぺこだと言ったりして、明るく振舞った。

「ここのランチは本当に美味しいの。 値段のわりに量もあるのよ」

 葛西さんは、僕の下手くそな芝居に付き合ってくれた。僕は、安心したような情けないような、何とも言えない気持ちで、楽しみだな、などとつぶやきながら、車から降りた。葛西さんは、間違いなく僕の異変に気付いているはずなのに、それについては何も触れなかった。気遣いのできる、優しい人だと、僕は思った。

 店の扉を押すと、カランカランとベルが音を立てた。一瞬、教会の鐘を思い浮かべた。葛西さんは、一番奥の、窓辺の席を選んだ。

「時間が遅いから、空いていて良かったわ」

 葛西さんは店にある大きな柱時計を見ながら言った。一時半過ぎ。もうそんな時間かと、僕は自分の携帯と時間を見比べた。最近、時間と日にちがわからなくなっている。生活も、仕事以外では不健康極まりないくらいに不規則だった。まともに食事を取るのも、久しぶりかもしれない。

「まだ、ランチは大丈夫かしら」

 やってきた店長らしき男に、葛西さんは尋ねる。その男は、愛想のいい笑顔で、はい、とうなずいて見せた。

「じゃあ、ランチ二つ、お願いするわ。 あなた、飲み物は何がいいの?」

 僕は、窓の外を眺めていて、質問に追いつけなかった。葛西さんはもう一度優しく僕に尋ねる。

「飲み物は何がいい? コーヒーとか、紅茶とか……そうね、あとはジュースくらいかしら」

「紅茶で、お願いします」

 僕は適当に言った。葛西さんは、にこりとうなずき、オーダーを済ませた。運ばれたおしぼりで手を拭いながら、葛西さんは話し始めた。あの子――さくらのことを。できれば聞きたくなかった。葛西さんにも会いたくはなかった。けれど、心のどこかではさくらを求めていることに、僕は自分で気付いていた。だから、拒みきれなかった。

「ゆうじがね、ゆうじがね、って。 子どもみたいに話すの。 あなたのことばかり」

 さっきの男が、僕の前に紅茶のカップとポットを置いた。葛西さんの前には、アイスコーヒーを置いた。葛西さんはアイスコーヒーのストローの袋を破った。そして、グラスの中にストローを突き立てながら続けた。

「この前、あなたの工場に会いに行ったらしいの」

 僕は、この前の記憶が蘇り、何だか息が詰まるように思えた。

「お仕事、忙しくて会えなかったって言ってたわ」

「まだ、やりかけの仕事があったので……手が離せませんでした」

 また、下手くそな芝居をしてしまった。“やりかけの仕事”なんてなかった。本当は、僕が逃げただけだったのに。

「会いたい、会いたいって。 今度いつうちに来るのって。 最近はそればっかり。 あ、今日は私のおごりだから。 前にあなたがさくらにおごってくれたお昼のお礼に」

「……すみません」

「ううん。 あなたのおかげでね、私たち、会話が増えたのよ。 毎日楽しくて」

 そういえば、僕はさくらのこと何も聞いていない。僕は、僕のことだけ彼女に話して、彼女はまだ彼女のことを僕に教えてくれていなかった。葛西さんは目を細めて言う。

「あなたに会う前は、会話なんて会話は一つもなかったわ」

 そのとき、僕が初めて葛西さんの家を訪ねたときのさくらの表情を思い出した。人形のように、表情を動かすことなく、彼女はずっとうつむいていた。あのときの僕は、それがどうしてかなんて、まったくわからなかった。

 少しずつ、少しずつ、僕があの子に抱いていた疑問が、するするとほどけていく気がした。

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