第1話
彼女に出会ったのは、四年前の夏だった。梅雨も終盤に差し掛かり、じめじめした空気と、いつまでもねちっこく降り続く雨にうんざりしていた頃だった。
どんよりとした曇り空の下、僕は、仕事帰りのいつもの道を、とぼとぼと歩いていた。人通りの少ない、住宅地に伸びる歩道だった。道脇に植えられているサザンカの葉の色も、曇り空の色のせいで、幾分くすんで見えた。ところどころに残る濁った水溜りに足を取られないようにしながら、僕は、ぼろぼろの油だらけのスニーカーと、裾の擦り切れた汚いジーパンを引きずっていた。仕事先の工場で、仕事仲間と些細なことで言い合いになり、すっかり気分は沈んでいた。だから、自分の足元にしか目が届いておらず、前の方に目をやることなどすっかり忘れていた。
「きゃっ」
小さな声を立てて、目の前で誰かが倒れこんだ。僕も、後ずさりしたときに、上手い具合にコンクリートの凹みに足を取られ、しりもちをついてしまった。僕が焦って声のした方を見ると、一人の女性がうずくまっていた。ぼおっとしていたせいで、まともに彼女と衝突してしまったらしい。彼女は華奢な膝を抱えて、痛そうに何度もさすっている。僕はおろおろしながらも、何とか謝った。
「あの……すみません」
彼女は顔を上げることなく、繰り返し膝をさすっている。すると、彼女の膝から、真っ赤な血が滴り落ちた。
「大丈夫ですか?」
僕はどうしたらいいのか分からずに、ただ彼女の様子を見ていた。
「大丈夫」
彼女は膝をさする手を止め、はっきりとした口調でそう言うと、ようやく顔を上げて僕を見た。しかし、不思議なことに、彼女の視線と僕の視線は、空中で触れ合うことはなかった。彼女の視線は、どこかまったく遠くを眺めているように見えた。
「えっと……」
僕が何か気の利いたことでも言わなければと考えていると、彼女は自分の手のひらを握ったり開いたりした。そして、なくしたものを探すように、必死にコンクリートの上に手を這わせ始めた。
「何か落とされたんですか?」
彼女は僕の問いかけに対し、何も答えようとしなかった。僕はもう一度尋ねてみた。
「一緒に探します」
「いいえ」
彼女はやはりはっきりとした口調でそう言うと、血だらけの膝などそっちのけで、ただ何かを探すそぶりをしている。僕は、歩道に並ぶサザンカの植木の隅に転がる、白い杖を見つけた。以前にテレビで見たことがあった。視覚障害のある人が、こんな感じの杖であちこちをつつきながら歩いているところを。
「これですか?」
僕は、その杖を取り上げ、彼女の前に差し出した。彼女は、暗闇を探るようにゆっくりと手を伸ばし、その杖に触れた。そして、ほっとしたような表情をして、杖をしっかりと握った。
「よかった」
小さくつぶやき、彼女は大事そうにその杖を抱えた。
「家は、この辺りなんですか?」
僕がそう聞くと、彼女は少しだけ緊張したような様子でうなずいた。唇をかみ締め、わざと勢い良く立ち上がって見せた。そして、僕に言った。
「もう行ってください。 大丈夫ですから」
しかし、彼女の膝からは、真っ赤な血が垂れている。さっき地面にはいつくばったせいで、傷口にはばい菌が入っているだろうと思われた。
「血がひどいから……洗わないと」
僕は彼女の膝にそっと触れて言った。彼女は一瞬身体を強張らせたようにびくっとした。僕の心配をよそに、彼女は首を勢い良く横に振る。
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫じゃないよ」
僕は彼女の手を握った。彼女は、明らかに目が見えていないのだ。さっき、視線がうまく合わなかったことも、この白い杖も、そして、微かにちらついている彼女の、動作一つ一つに対する不安感も。それらはすべて、彼女が盲目であることを示しているようだった。僕には、盲目の彼女を放っておくことなどできなかった。人として、そんなことできるはずもないと思った。けれども、彼女はひどく僕を拒もうとした。手を振り解こうと、必死に腕を引っ張った。
「君は目が見えないんだろう」
思わず僕はそう言った。“メガミエナインダロウ”という言葉に、彼女はひどく敏感に反応した。
「一人でやれるわ」
「無理だよ」
僕は、嫌がる彼女を抱きかかえると、急いで水道を探した。幸い、しばらく行った先の角を曲がったところに、小さな公園があることを思い出した。彼女の持っていた杖も一緒に持ち、僕はできるだけ静かに歩いた。目の見えない彼女が不安がらないように、細心の注意を払ったつもりだった。
「下ろしてください」
彼女は絶えずそう言ったが、僕はその言葉に耳を貸さなかった。