第18話
それからというもの、僕は彼女と会わなかった。
「青木」
工場の中で、僕を呼ぶ声が響いた。
「違うだろ。 前にも注意したじゃねぇか」
荒々しく僕を叱り付ける声。僕は、はい、と返事をし、頭を垂れた。いつもと変わらない日常だ。いや、むしろ、日常生活に違う新鮮なものを求める方が間違っているのかもしれない。
ここのところ、妙に胸がざわざわする。孤独と、無力感が交互に僕を襲ってくる。
昼休みになった。僕は、食欲がわかず、工場の隅に座って、ぼーっとしていた。
「おい」
誰かが僕の肩を叩いた。僕は、ゆっくりと顔を上げた。瀬戸さんがいた。三歳年上の。
「おまえ、気分でも悪いのか?」
「別に、そういうわけじゃ」
瀬戸さんは、ふーん、と言いながら、僕の隣でコンビニのパンをかじり始めた。口の中でパンをくちゃくちゃやりながら、瀬戸さんは言った。
「女か?」
にやりと笑って、瀬戸さんは僕の顔を覗き込んだ。僕は思わず目をそらした。
「やっぱりか」
「疲れてるだけです」
僕は勢い良く立ち上がった。
「おまえさ」
瀬戸さんは、その場を離れようとする僕に向かってこう言った。
「優しすぎるんだよ」
僕は思わず振り返った。瀬戸さんは、いつの間にたいらげたのか、空っぽになったパンの袋をひらひらさせていた。汚れたつなぎを着て、瀬戸さんは僕の方をじっと見た。
「もうちょっと、自分勝手にやってみろよ。 でなきゃ後悔するぜ」
自分勝手? 何を自分勝手にしろというんだ? 僕にはわからなかった。
「おまえが何に悩んでるのか、俺にはわからねぇけどさ」
瀬戸さんはそれだけ言って、工場の奥へ引っ込んでしまった。僕は、瀬戸さんに言われた言葉を、何度も何度も繰り返した。
そのときだった。
「青木」
他の従業員が僕を呼んだ。
「会いたいって奴が来てるぞ」
僕の頭には、その瞬間、葛西さんの顔が浮かんだ。ここ数週間会っていないのに、あの真っ白な頭と、上品な様子は今でも鮮明に思い出すことができた。
「行かなきゃダメですか?」
おそるおそる尋ねる僕に、その従業員は首を傾げた。
「まぁ、忙しいなら断ってきてもいいけど」
「お願いします」
僕がそう言うと、その従業員は頭をかきながら歩いて行った。僕は、罪悪感を覚えながら、工場の天井を見上げた。むき出しの天井が、僕の頭を冷ややかに眺めている。もう、葛西さんのことも、あの子のことも、すべて忘れたいと思った。僕には、……いや、あの子には、もう僕は必要ない。会う必要性はもうない。だから僕は会っちゃいけない。関わることはできない。もし会えば、愛情を受ける彼女と、孤独を感じ続ける僕との間に、大きな隔たりを感じることになる。それだけじゃない。きっと僕は、彼女を僕の孤独のせいで苦しませることになるかもしれない。
「だから……本人がそう言ってるから仕方ないじゃないですか」
少しいらついた声が聞こえてきた。その声と一緒に、聞き覚えのある声もした。
「ゆうじ」
僕ははっとした。あの子だ。あの子が来ている。僕は、反射的にその声の方へ駆け出していた。
案の定、そこにはあの子がいた。僕は、あえて声を出さなかった。声さえ出さなければ、彼女は僕がここにいることに気付くことはない。目が見えないから。でも、何故だか僕は切なさで胸がいっぱいだった。
「ゆうじ、そこにいるの?」
彼女は言った。その台詞に、従業員は周りを見渡した。もちろん、物陰から眺めていた僕の存在に気付いた。そして彼は僕を呼ぶ。彼女は僕の存在を知り、何度も何度も名前を呼ぶ。それこそ、迷子になった子どものように。
何故、僕らは出会ってしまったんだろう。
僕は、目の見えない彼女を支えきれる力なんて持っていない。彼女が愛されていることに対しても、嫉妬を感じるような小さい男だ。
それなのに、どうして僕は彼女を女性として意識してしまったんだろう。こんな情けない僕に、彼女を好きになる資格なんてあるはずもないのに。