第16話
「もしも」
僕は、慰めるつもりでもなく、同情するつもりでもなく、こう言った。
「僕が、さくらを愛すると言ったら?」
さくらはこちらを向いた。暗闇のせいで、彼女の表情はまったくわからなかった。笑っているのか、悲しんでいるのか、怒っているのか。彼女は言った。
「そうしたら、私は独りぼっちじゃなくなるわ」
そのとき、僕のポケットの携帯電話が鳴り響いた。さくらは身体を震わせた。いきなりの音に驚くのは当然だろう。
「僕の携帯だよ」
僕は、携帯の画面を見た。見知らぬ番号が並んでいる。どうせいたずら電話か、間違い電話あたりだろう。そう考えたとき、ふと、前に見た電話番号が頭に浮かんだ。090から始まる、あの電話番号。
葛西さん? 僕はそう思った。確か、前に電話番号だけ教えた覚えがある。出ようか。しかし、隣には今、さくらがいる。この電話を取ってもいいのだろうか。
「ねぇ、葛西さんからじゃないかしら」
さくらは言った。察しがいい。僕は、どうしようか、と尋ねた。電話は未だにけたたましく、六畳の狭い部屋に音を響かせている。
「出てあげて」
僕は、さくらがそう言うのならと、通話のボタンを押した。
「……もしもし」
「青木くん? 葛西圭子ですけど」
葛西さんの声だ。紛れもなく。
「あの子がいないの。 もうこんなに真っ暗なのに」
ずいぶんと冷静な声だった。心配ではないのだろうか。僕は、素直に、自分が今さくらと一緒にいることを話した。
「そう……ご迷惑かけたわね。 今から車で迎えに行くわ。 そこのアパートの住所、教えてくださらない?」
僕は、アパートの住所を答えた。
「ええ、わかった。 そこなら近いから、すぐに着けると思うわ」
そう言って葛西さんは電話を切った。僕は一つ息を深く吐いた。さくらは、僕に身を近づけてくる。
「……来るの? あの人」
「うん」
僕がそう言うと、さくらは怯えた様子で僕のシャツの端を握った。僕は、震えながらシャツを握るさくらの手を取った。暗闇の中、さくらの頬を手でさぐった。柔らかな肌が手に触れた。
僕は、小さなさくらの頬を両手で包み込むようにした。さっき、さくらが僕にしたように、今度は、僕がさくらの顔を触った。額から、あごの輪郭から、鼻、まぶた……。滑らかなさくらの肌に、手のひらを這わせた。最後に、僕の指はさくらの唇に触れた。
“ゆうじ”と、微かに彼女の唇が動いた。僕は、彼女の唇にキスをした。柔らかな唇だった。
「もしも」
僕は、唇を離すと、言った。
「僕がさくらを好きだと言ったら?」
そのとき、窓の外で、車のエンジン音が聞こえた。さくらは、びくっと身体を震わせた。僕は、彼女の頭を撫でながら、大丈夫とだけ言った。そして、ためらう彼女を立ち上がらせた。
「行こうか」
さくらは小さくうなずき、ゆっくりと玄関先へ歩いた。僕は、目をつむって歩いてみた。少しだけ、さくらと同じ気持ちになれた気がした。気のせいかもしれないけれど。
さくらは、玄関まで来ると、はっきりと、けれど優しい声で言った。
「ありがとう」
その声は、初めて出会ったときの声よりも、柔らかかった。