第15話
さくらは、長い髪を、流れ込んでくる風に遊ばせていた。風がさくらの髪を揺らすたび、甘い香りが鼻をつく。そのたびに僕は、彼女を抱きしめたときの感触を思い出さずにはいられなかった。
さくらは、また僕に尋ねた。
「もう一つ聞いてもいい?」
遠くの空を、鳥が鳴き声をたてて横切るのが見えた。かすかに空が茜色に染まりだしている。アパートの狭い部屋は、少しずつ薄暗くなってきた。さくらの表情が、暗くてよく見えなかった。彼女は、顔の横に垂れた長い髪を耳に引っ掛けながら言った。
「独りぼっちだと思ったことは?」
さっきも、彼女が僕に同じ質問をしたのを思い出した。彼女にとって、“独り”というのは、重要な言葉なのだろうか。
「そんなの、しょっちゅうだよ」
「しょっちゅう?」
「仕事から帰ったあとは、妙に部屋ががらんとして、孤独で仕方ない。 どんなに楽しかった日でも、一人になった途端に孤独が襲ってくる。 ひどいときなんか、仲のいい友達と一緒にいるときだって、孤独を感じることがある」
僕の言ったことを、さくらは何度も頭の中で咀嚼するように見えた。口の中で、何度か、“孤独”という言葉を繰り返している。それから、ふと思いついたように言った。
「私といるときは、寂しくないって言ったわよね」
「うん、言った」
「どうして?」
不思議なことに、僕は、彼女には何でも言えた。普段の僕なら決して言わないだろうことも、すべて。
「似てるからじゃないかな」
そう、僕らは似ているんだ。初めて出会い、さくらのことを考えるたびに僕の胸がきしんだのは、彼女を見ていると、まるで僕自身のように思えたからだろう。
「私とゆうじが、似てるの?」
「見た目とか、性格とか、そういうのじゃないよ。 もっと、深いところでさ」
彼女は暗闇の中、いつも孤独と闘っていた。僕は、光が見えていても、心に染み付く孤独を取り除くことができなかった。
「私もそう思ってた」
「君も?」
さくらは、わずかに微笑みながら続けた。空の闇が濃くなっていく。さくらの微笑は、その闇の中でようやく見えたくらいだった。
「ゆうじは、すごく優しくて、でも、ちょっと悲しい」
僕には、彼女の言っている意味がすぐには理解できなかった。この意味を理解したのは、もう少しあとになってからのことだった。
「でも、大丈夫」
さくらは、急に声のトーンを上げた。まるで、空元気のように思われた。わざと明るい調子で彼女は言う。
「私と違ってゆうじは目が見えるもの」
そのとき、部屋が真っ暗闇に包まれているのに気付いた。いつからこんなに暗くなったんだろう。夏になって、日が長くなったといっても、暗くなり始めたら一気だ。僕は、電気をつけようとして、思いとどまった。さくらと同じ、暗闇の中にいようと思った。そうすれば、彼女が言おうとする何かを捕らえることができるような気がした。
「私は出来損ないだもの。 誰も私を愛してくれやしないわ」
窓から、とろけるような夕飯の香りが流れてきた。しかし、僕の胃は空腹感を覚えることはなかった。さくらは、あまりに孤独だった。目が見えないという理由だけで、彼女には、振り払うことのできない孤独感がある。自分を平気で“出来損ない”と表現してしまうことが、僕にはあまりに悲しいことのように思われた。