第12話
深い住宅街に差し掛かり、見通しの悪い大きなカーブミラーの角を曲がると、僕のアパートが見えてきた。薄いクリーム色の壁をした、二階建ての小さなアパートだ。壁はたいして厚くないし、新しいというわけでもない、ただ家賃が安いのが魅力のアパートだ。僕は正直このアパートが好きではなかった。
「着いた」
さくらに言うと、彼女は嬉しそうに言った。
「中、入ってもいい?」
「いいけど」
僕は勢いでそう答えていた。すぐに付け加えた。
「でも、ちょっとだけだよ」
「大丈夫」
さくらははっきりとそう言って、僕に早く部屋に連れて行くように急かした。僕は、ポケットから鍵を取り出し、二階の自分の部屋へさくらを連れて行くことにした。階段の目の前に来て、僕は念のため尋ねた。
「階段、上れる?」
「上れるわ」
僕は、彼女の腕をしっかりと支えながら、階段を一段ずつ上がった。さくらは、思ったよりも慣れた様子で階段を上った。
「これで最後の一段だからね」
そして、最後の一段を上り終わり、ようやく二階へ到達した。二階の廊下は、チラシが捨ててあったり、壊れたビニール傘が放置してあったり、生活している人のだらしなさが垣間見えているようだった。僕の部屋は、奥から三番目だった。鍵を開け、ドアを開けた。散らばっていた靴を下駄箱へ押し込んだ。
「どうぞ」
「おじゃまします」
慎み深い様子で、さくらはそう言った。僕は思わず笑った。
「どうかした?」
「いや、何でもないよ」
さくらは、ゆっくりと靴を脱ぎ、僕の部屋に上がった。そういえば、女の子を入れるのは、これが初めてだった。初めて部屋に上げる女の子が、盲目の少女だなんて、何だか不思議な気分だった。
「狭いから気をつけて」
キッチンと風呂場に阻まれて、玄関から続く廊下は、人が一人通れるくらいの幅しかなかった。僕は、彼女の後ろに続いた。彼女は、キッチンの流し台を横切ったときに、笑って言った。
「ちゃんと自炊してるのね」
僕は、どうしてそんなことが分かったのかと、流し台のあたりを覗き込んだ。昨日の夜作ったカレーの鍋が、狭い流し台の中でそのままになっていた。匂いで分かったのだろうか。
「外食って高くつくから」
さくらは、そう、と言いながら、奥へ入っていった。彼女を後ろから見ていると、何だか抱きしめたくなってくる。僕は、その感情をこらえながら、黙って彼女の後から部屋に入った。
「ここが部屋」
六畳の小さな部屋だ。一人で暮らす分には十分だけれど、やはり狭いと感じていた。このアパートが好きではない理由の一つがそれだった。さくらは、立ったまま、何もせずにじっとしていた。僕は、彼女の手を取り、壁にもたれかかれるように座らせた。僕も隣に、同じように座った。狭いアパートで、椅子なんかなかったから、これくらいしか座ってもらう方法は浮かばなかった。ベッドは置かずに敷布団にしていたし、実際、家具も必要最低限のものしか置いていなかった。カラーボックスが一つと、中古で買ったテレビ。それに、友人からゆずってもらった小さなテーブル。あとは小さなタンスだけ。
開けっ放しにしておいた窓から、風が吹き込んできた。唯一のこのアパートのいいところといえば、風通しがいいことくらいだろう。彼女は、気持ちよさそうに一つあくびをした。
「眠い?」
「ううん」
蝉の遠い声を聞きながら、僕はようやく彼女の顔をしっかりと見ることが出来た。
「寂しくないの?」
さくらはふいに聞いた。
「一人暮らし、寂しくないの?」
正直、僕は孤独を感じていた。特に、この部屋にいるときは。でも、何故か今日はその孤独を感じていなかった。
「今日は、寂しくない」
「どうして?」
さくらは、鼻筋の通った、整った顔をしていた。長いさらさらの髪が、肩にかかって波打っていた。彼女は、こんなにきれいな顔をしていただろうか。
「わからない」
僕はそれだけ言うと、さっきさくらがしたのと同じようにあくびをした。窓から外を見ると、誰かの家の屋根が見える。犬と子どもの声がする。屋根の間から、空の青が見える。入道雲が膨れ上がるのもかすかに見えた。いつもと何も変わらない景色だ。そのいつもと同じ景色が、今日は少し違って見えた。