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彼女。  作者: ling-mei
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第11話

 僕は、アパートへ続く道をさくらと一緒に歩きながら、こっそり財布からあの名刺を取り出した。『葛西圭子』の文字がくっきりと印刷された下に、自宅のものであろう電話番号と、090から始まる携帯番号があった。

 さくらがどうして葛西さんの話題を嫌がるのか。葛西さんの言っていたとおり、さくらは葛西さんが好きではないのだろうか。しかし、そんなことを本人に尋ねることなどできるはずもない。

 財布をしまい、携帯の時計を見た。一時半を回っている。これくらいの時間、明るさなら、何とか夕方までには彼女を送り届けることができると思った。幸い、今日が梅雨明けの宣言を出された日だったので、雨はもうしばらく降りそうもない。入道雲が、空の奥で波打っているだけだ。かすかに、蝉の声もする。

「夏ね」

 さくらがつぶやいた。僕は驚いた。調度、彼女は僕と似たようなことを考えていたらしい。

「夏だね」

 僕も同じようにつぶやいた。蝉の声が少し大きくなった。風が吹いた。通りに植えられているイチョウの葉をざわざわと揺らし、それと一緒にさくらの長い髪もさらさらとなびいた。石鹸の優しい香りがした。

「蝉のお話」

 さくらは、頬にかかった髪の毛を指でどけながら言った。

「蝉?」

「あのね」

 まるで、絵本を読むかのように、彼女は一言ずつ、丁寧に話し出した。

「蝉のいのちは、たったの一週間なの。 だから、蝉にとっては、ほんの一秒だって休めないの。 いっぱい鳴いて、いっぱい子孫を残すために、一週間の間、ずっと、ずっと生き続けるの」

 一瞬、蝉の声が止まった。あたりの木がわずかにざわめいた。入道雲が頭を持ち上げる。空を、鳥が横切る。僕は、どこかとても遠いところに来たような錯覚に捉われた。

「昔、小さな女の子がいたの。 麦藁帽子をかぶって、いつもあっちへ行ったり、こっちへ行ったり。 家の中でじっとするのが大嫌いだったの。 夜はいつもうずうずしていたわ。 闇の中で、独りぼっちで布団にもぐっているのが耐え切れなかった。 だから、お日さまが顔を出すと、女の子はすぐに布団から這い出て、麦藁帽子を頭に載せて、家を飛び出すの。 女の子は、夏の公園が大好きだった。 でもある日、女の子のママが死んでしまったの。 それも、女の子が、公園に行って、蝉の声を浴びながら、くるくる回って楽しんでいる間に。 だから、女の子は公園へ行くのをやめたの。 大好きな公園は、女の子の大好きなものを奪ってしまうものだと思ったから。 ママが死んだのは、夏に入ったばかりの、ちょうど、今日みたいな日だった。 蝉が鳴き始めて、木の幹やら枝やらがにぎやかになったころのことだった」

「それは本当にあった話?」

 さくらが一息ついたころ、僕はそう聞いた。彼女は、かすかに微笑しただけだった。

「夏が終盤になって、蝉が少しだけ声を低くし始めたころ、女の子は公園へ出かけたの。 とても久しぶりに行った公園には、知らない子どももたくさんいて、女の子はどこのグループにもなじめなかった。 でも、前と同じように、ベンチに座って、風を飲んで、砂場を裸足で歩いたり、ブランコを空高く揺らしたりしていたの。 しばらくして、女の子の頭の上を、一匹の蝉が音をたてて横切った。 蝉は、女の子の頭の上で、ジジジ…って言うと、ぽとんと目の前に落ちた」

 信号が赤になった。僕が立ち止まると、さくらも足を止めた。信号が青に変わるまで、さくらは何も言おうとしなかった。僕も、何となく黙っていた。彼女が話しだすのを待っていた。

 ようやく信号が青になって、僕ら二人が歩き出すと、彼女はそれと同時に話し始めた。

「女の子は、その蝉を指でつまみあげた。 蝉は、鳴くこともなく、逃げ出そうとすることもなく、硬くなって、女の子の指の間で死んでた。 女の子は、どうして蝉が死ぬのか、わからなかった。 お母さんが死んだときも、どうして死んだのかわからなかった。 女の子は、一瞬、どうして自分が生きているのかわからなくなって、何だかとても恐くなった。 蝉をその場に置いて、女の子は家に走って帰った。 恐くて、恐くて、でもそれを一人じゃどうにもできなかったの」

 さくらは、そこで話すのをやめた。

「おわり?」

 何だか中途半端な終わり方だと、僕は思った。

「中途半端でしょ」

 また、さっきと同じように、さくらは僕と同じことを考えていたらしい。僕は、心の底を読まれているような気がした。

「まだ途中かけなの」

「途中って?」

「まだどうやって締めくくろうか、考えてないのよ」

 そう言って、さくらは照れくさそうに笑った。

「このお話、公開したのは今日が始めてなの。 ゆうじが初めてのお客様ね」

「君が作ったってこと?」

 さくらはためらいがちにうなずいた。驚いた。さくらは、頭の中だけで、こんな話を作り、記憶していたのだろうか。

「作家になれるよ」

 僕は言った。おせじではなかった。本気でそう思った。さくらは、首を横に振って、笑っている。そのとき、彼女は地面に落ちていた小石につまずいた。

「きゃっ」

 僕は思わず、彼女のお腹のところに手を回し、彼女を抱きかかえる格好になっていた。そのとき、彼女の頬と僕の頬が軽く触れた。さらりとした柔らかな肌の感触が、僕の頬に残った。

「ごめんなさい」

「僕がしっかりしてなかったから。 大丈夫?」

 さくらは、僕からそっと離れると、うん、と小さくうなずいた。僕の目には、その一連の仕草のせいで、彼女が幼い少女に見えた。

「アパート、もうすぐだから」

 僕はそう言って、さくらの腕と自分の腕を組んだ。さくらは今までと同じように、しっかりと僕の腕に寄りかかる。一方の僕は、何を言えばいいかわからないまま、彼女と腕を組み、アパートへ真っ直ぐに向かった。

 向かう途中、僕は何度も心の中で繰り返していた。

――彼女を“意識”してしまった

 そう、確かに僕は、彼女を女性として強く意識していた。


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