第10話
「何が食べたい?」
公園を出た通りで、信号を待ちながら僕は尋ねた。さくらは、しばらくじっと考え込み、それから大きな声で言った。
「ハンバーガーが食べたい!」
「ハンバーガーでいいの?」
「食べたことないから」
「食べたことないの?」
驚いた。僕もそんなにハンバーガーなんか買う方じゃないけれど、食べたことくらいはある。それに、僕の知り合いに、ハンバーガーを食べたことのない人はいない。
「変?」
さくらは、恐る恐る言った。
「一度も食べたことないの、おかしい?」
僕は首を横に勢いよく振って言った。
「ううん、全然。 変なんかじゃない」
それを聞くと、さくらはほっとしたように笑った。
「ここの通りまっすぐいったところにあるから、そこでいい? あ、段差。 気をつけて」
信号が青になり、歩き出しながら僕は言った。さくらは嬉しそうにうなずき、僕の腕に頬を寄せた。僕は一瞬、他の人から見たら、僕らは恋人同士に見えるだろうかと考えた。そう考えると、少し照れくさくなった。一方のさくらは、相変わらず楽しそうに僕の腕を抱えている。彼女は純粋なんだと、改めて実感した。
僕は、ファーストフード店の前まで来ると、足を止めた。
「ここだよ」
「不思議な匂いがするのね」
さくらは、鼻をひくひくさせて言った。フライドポテトの香りがかすかに鼻をついた。僕は、入るよ、とさくらに言うと、自動ドアの前に立った。機械の音を立てながら、自動ドアが両側に開いた。入ってすぐのカウンターが、運良く空いていた。休日のわりには、めずらしく客が少ない。
「何がいい?」
「選んで」
「選んで……って言われてもなぁ」
「じゃぁ、ゆうじと同じのがいい」
さくらは無邪気に笑って言った。僕は仕方なく、自分が食べたいものを、二人分注文した。支払いを済ませ、注文したものが出て来る間、僕はさくらに尋ねた。
「いつもどんなものを食べてるの?」
「わからないわ」
わからない?彼女は何を言っているのだろうか。
「甘かったり、しょっぱかったり。 ……いろいろ」
僕には、理解できなかった。あの葛西さんが、さくらに食事を作ってくれるのだと思っていたが、“わからない”とはどういうことなのだろう。僕は、もう一度尋ねてみた。
「葛西さんが作ってくれるんでしょ?」
さくらは、その名前を聞くと、それまでにこにこしていたのが、一気に沈んだような表情になった。そして、口を閉じてしまった。そのとき、僕が前に葛西さんに言われた言葉がまた蘇った。気まずいまま固まっていると、目の前に注文したものが置かれた。僕は、彼女のご機嫌を取るつもりで、わざと明るく言った。
「ほら、ハンバーガー。 初体験なんだから、もっと嬉しそうにしろよ」
しかし、さくらは少し頬を緩めただけで、未だ固い表情を崩すことがなかった。僕は戸惑いつつも、さくらを連れて、空いている席に座った。もう、彼女の前で、葛西さんの話題を出してはいけないような気がした。その理由ははっきりしなかったが、葛西さんの言った言葉と、さくらの表情から、何となく、そう思ったのだ。
席について、僕が一息ついたとき、周りからひそひそ声が聞こえてきた。“あの子、障害者かしら”。やはりわかるものなのだろうか。そのとき、僕の頭には、“差別”という言葉が浮かんだ。周りがどう彼女を見ようと、僕は少なくとも差別に値することはしてはいけないと思った。だから、何も気にしないように努め、僕はさくらに話しかけた。
「はい」
ゆっくりと、さくらの手に、ハンバーガーを持たせる。
「このまま、かじってごらん」
「かじる?」
「そう、かじる」
さくらは、ゆっくり、ゆっくりと口を近づけ、ハンバーガーの端をかじった。そして、口を動かし、ハンバーガーを咀嚼する。僕は、自分の食べることなどすっかり忘れ、さくらの動きにだけ注目していた。さくらは、ようやく一口分を飲み込むと、何も言わずに、次の一口をかじった。そのかじった分を飲み込むと、また間髪入れずにかじり出した。それを見て、僕は思わず笑った。彼女の必死にハンバーガーをかじる姿が、まるで、お腹を空かせた子犬のように見えた。
「ポテトは?」
「ポテト?」
僕は、フライドポテトを一本抜き取り、さくらの口元に寄せた。
「口、開けて」
さくらは大きく口を開けた。ハンバーガーの食べかすがかすかに残っていた。しかし、僕はそんなことは気にせず、彼女の口の中にポテトを放り込んだ。さくらは、ハンバーガーのときと同じように、まずはゆっくりと噛み締めていた。
「もっとちょうだい」
ポテトを飲み込んでしまうと、さくらは僕を急かした。僕は何だか嬉しくなって、また、彼女の口元にポテトを運ぶ。彼女は、ハンバーガーを片手に、僕の手からポテトを食べた。
さくらは、僕が想像していたよりも、たくさん食べた。ハンバーガーは一つ簡単に平らげてしまったし、フライドポテトもすぐになくなってしまった。そして、コーラを飲みながら、満足げに唇を舐めた。
僕は、すっかり自分が食べることなど忘れていたから、さくらが一通り食べ終えてしまったのに気付いて、焦って自分の分に手をつけた。
「ハンバーガーって美味しいのね」
「うん? ……まぁ、美味しいっていうか」
「美味しくないの?」
さくらは、不思議そうに言った。
「ハンバーガーってのはさ、つまり……ファーストフードだから、あんまり身体にいいものは入ってないと思うけど」
「でも、美味しいからいいのよ」
トレイを手で探りながら、さくらは飲み終えたコーラのカップを置いた。カップから、しずくが一滴垂れて、テーブルに落ちた。僕は、さくらが次に言う言葉を待ちながら、ハンバーガーの最後の一欠けらを口に入れた。
「美味しいから、みんな好きなんでしょう。 中に何が入ってるかなんて、誰も気にしないのよ」
さくらがそう言ったとき、僕は、このファーストフード店に客足が増えてきたことに気付いた。僕らが入ってから、小一時間が経過したところで、急にお客がたくさんやってきたのだ。若いカップルもたくさんいたし、小さな子供連れも、少し年のいったおじさんもいる。
僕は、フライドポテトをかじりながら、その光景を眺めた。
「ねぇ、ゆうじはどこに住んでるの?」
「君の家から十分くらい歩いたところ」
「近いのね」
僕は、うんとうなずきながら、携帯の時計を見た。葛西さんは、さくらのことを心配していないだろうか。そろそろ店を出て、さくらを送り届けた方がいいと思った。僕がそのことを口にしようとした瞬間、さくらはそれを遮るように言った。
「ゆうじの家に行きたい」
「僕の家?」
さくらはにこりと笑いながら首を縦に振る。僕は頭を掻きながら、何と答えればいいのか悩んだ。
「だめ?」
そこで、素直にだめだと言えば良かったのに、僕はさくらの顔を見たとたん、だめだと言えなくなってしまった。
「きれいじゃないよ」
僕は苦し紛れにそう言ったが、さくらはふふっと笑った。
「見えないから、大丈夫よ」
しまったと思い、思わずゴメンとつぶやいてしまった。さくらは何も気にしていないように、相変わらずにこにこ笑っている。彼女の目は見えないのだと、僕は何度も自分に言い聞かせた。目の見える普通の人と同じような扱いをして、彼女を傷つけたらと思うと、僕はとても辛い気持ちになる。
そこまで考えて、僕はふと思いとどまった。“目の見える人間”が普通と表現するのなら、“目の見えない人間”はどう表現すればいいのだろう。そもそも、普通の人間というのは、どんな人間なんだろうか。
「ゆうじ?」
黙りこんでいると、さくらが僕の名前を呼んだ。僕は、何?と返事をする。
「何も言わないから、黙って帰っちゃったのかと思った」
安心したように彼女は言った。
「来る?」
僕は言った。さくらは、首を傾げる。
「僕のアパートに」
それを聞くと、さくらは嬉しそうにうなずいた。僕は、そのとき、わずかに心がきしんでいるのを感じた。やはり、恋愛でも同情でもない、別の理由がある。僕は、自分が何かしらの感情をさくらに対して感じていることはわかっていた。けれど、その感情がどんなものなのか、未だによくわからない。
席を立ち上がり、さくらの手を握ると、彼女も立ち上がった。僕は、ハンバーガーの包み紙などが載ったトレイを持ち、帰り際にゴミ箱に捨てて行った。カシャンと、頼りない音をたて、コップに残った氷がゴミ箱の中に沈んでいった。
さくらは、しっかりと僕の腕に自分の腕を絡めた。少しだけ、周りの視線が気になった。やけに人に見られている気がしてならなかった。
「ゆうじ?」
また、さくらが僕の名前を呼ぶ。何故か、うまくそれに答えてやることができなかった。