第八十話 甲板と船室
船の甲板から望む景色は素晴らしいものだった。
離れていく岸辺、彼方には水平線。大型の魔石が発生させる風のお陰で、船は淀みなく進んでいく。
マーナディアまでは海路で五日程になる。しばらくはこの大海原に抱かれることになるだろう。
甲板に吹き付ける海風は厳しいが、この景色を見る代償と思えば耐えられないこともない。隣のシルヴィアも同じように感じているのか、多めに着込んだ服装の上からアクアリザードの外套できっちりと固めている。
黒騎士はその体一つで狭い船内を占領してしまう。あの大きさは邪魔にしかならないので、船室の端っこに押し込んである。
出港したばかりの頃はマルシアも隣に居たのだが、いつの間にやら船内へと引っ込んでいた。最初から荷物の番として船室に残っているのはシャンディ。各地を回っていた彼女にしてみれば、こんな景色は見慣れたものなのだろう。
そんな寒さをものともせず、辺りでは船員たちが忙しなく動いている。寧ろあれくらい動いていたほうが暖かいのかもしれないなとふと思う。
「……へくしょん」
隣から小さなクシャミが聞こえてきた。
「……中に戻るか?」
シルヴィアは首を横に振って返答する。どうやら景色の方が、まだ幾分か勝っているらしい。俺もそれに付き合い、寒さに耐えられなくなるまで外の景色を楽しんだ。
数ある船の中、俺たちの乗った定期船は中程度の大きさだ。
質は可もなく不可もなく、実に一般的なものだ。その中で、俺たちは大きめの船室をとっていた。その原因は黒騎士にある。一般的な船室は主に人間サイズを基本に作られている。俺たちだけならその船室でも十分だっただろう。しかし、パーティでの荷物係である黒騎士を入れるには、獣人サイズの客室を取るしかなかった。
この部屋は大型の獣人族でも無理なく利用出来るように作られている。いくら大きさが変更可能な黒騎士と言えども、中に詰まっている荷物まではどうしようもない。運ぶ手間やリスクを考えると、少し多めの金額を払う程度、許容するべきだろう。それに、狭っ苦しい部屋よりも余裕があった方が何かと便利だろう。
それにしても、船の中と言うのは暇である。言い換えればゆっくり出来るということかもしれないが、体は既に動き出したくて仕方がない。一瞬、甲板の上を走ろうかと思ったが、どう考えても船員たちに怒鳴られる未来しか見えない。
「……だから本を全部売らなければ良かったじゃないですかー」
若干恨みがましそうにマルシアが呟く。確かに彼女の言うとおり、一冊二冊は許容するべきだったかもしれない。今、この船内に本を扱う商人がいたのなら、定価の倍でも購入してしまいそうだ。それほどまでに、暇は強敵であった。
「お前たちはまだ、魔術師としての勉強が出来るからいいじゃないか。俺なんて能力の練習をしようにも迂闊に出来んぞ」
「そう言えば、シャンディの祝福の反動ってどんなのでしょうね?」
反動故、ろくでもないものなのは確かだが、それはそれで気にもなる。俺は説明を求め、シャンディに顔を向けた。
「そうねー……動けなくなるわね」
その答えは、実に簡潔だった。
「……それならどの祝福にも言えることだろう?」
「そうなの? 他のを見たことがないから、私にはわからないのだけれど……」
俺を見て、シャンディは首を傾げた。
筋肉痛といい、頭痛といい、あの悪夢は二度と見たくはない。特に最初の筋肉痛は酷かった。当時の事を思い返しながら、シルヴィアを見てしまう。その視線を受けて、不思議そうな表情を返してきた。
「まあ、やり過ぎなければ、どういうものなのか確認しておくのもいいんだが……」
どうせ動けなくなった所で、船は進んでいく。馬車の時もそうだったが、試すのであればこういう時が望ましいのかもしれないな。今回は敵襲の可能性も低いし、絶好の機会だ。
もちろん、海にも魔物はいる。ただ、広大な海の中で出会う可能性は低いし、わざわざ理由もなく人を襲う魔物は少ない。いざと言う時も、俺たち陸の冒険者より、海を主戦場とする船員たちのほうがよっぽど上手く立ち回れることだろう。
「なあ、風陣収縮って風の温度も操れるのか?」
船室を暖かく包んでいる暖魔石を見て、ふと思う。これも基本的な事は風魔石の応用らしいと、グラスに聞いて知っていた。
「え? えーと……そんな使い方をするなんて、少しも考えたこと無かったわ」
困惑するシャンディ。火に飲まれた時はその熱を遮断し、内部は常温だった。上手くすれば可能かも知れない。そう思い立つと、試さずにはいられなかった。
俺は再び部屋を抜けだし、甲板へと出る。その姿を見た船員が、またお前かと言うような視線でこちらを振り返ったような気がするが、そんな事に構っている暇はない。とりあえず船員に見られないようにと感覚強化を使い、人気のない場所へと移動する。
再び、何度も冷たい海風が俺の身を弄んだ。
風陣収縮|
それに対抗し、全身に風が纏わりつく。それは体全体からほんの少し離れたところに膜を作り、俺を完全に保護していった。
こうなると海風は全く気にならなくなる。ここまでは予想通りだ。更に内部の温度を上げようと試みていった。
……しかし、残念なことに温度の変化は見られなかった。
「さすがに無理だったか」
残念だが仕方がない。ついでに反動の確認もしておこう。しばらくの間腰に手を当て、俺は甲板の上にどっしりと構えていた。
端から見たら変な人扱いされそうである。人の居ないところを探しておいて、本当に良かった。
……などと元気だったのは、最初の一日だけだ。
次の日、ベッドから起きるとどうにも体が重い。動きたくない。吐きそうだ。目覚めたばかりの世界は、絶望に満ちていた。
テーブルの上には、昨日の夜に呑んだ酒瓶が転がっている。最初は調子に乗って呑み過ぎたのかと思った。暇つぶし代わりに呑んでいたので、いつも以上に酒が進んでいたのは自覚している。しかし、あの程度の酒量でこんな状態になったことはない。さすがに長年付き合った自分の身体。その限界はわきまえているつもりだ。
そして思い立ったのが、反動。この体の怠さは反動に寄るものなのだろうか、もしくは酒と反動のダブルパンチなのか。
しかしこの状態、いつぞやに味わったことがある気がする。
俺は天井を見上げながら、記憶の糸をゆっくりと手繰り寄せていった。確か、似た様な状況だったはずだ。海に来て、テンションが上って……それで。
「ああ……そうか、船酔いか」
そこまで考えて結論が出た。忘れてかけていたのも無理はない、遥か昔の記憶だ。初めての船旅の時も、二日目には同じような状況に陥っていたのだ。
今回はそれに輪をかけて重い気がする。きっと反動の所為だろう。
「イグニス。大丈夫なの?」
俺の顔色に気づいてか、シャンディが心配そうに声をかけてきた。
「ちょっとまってて。水持ってくるから」
そう言うと、テーブルの上にある水差しと器を取り、俺の前へと持ってくる。
「すまない……しかし、シャンディがまるで女神のようだ」
体を起こして器を受け取り、シャンディに礼を述べる。体調の悪い時に優しくされると、ころっといってしまいそうになる。人間はなんて単純なのだろうか。
「そういう事は、普段の状態で言ってくれると嬉しいのだけれど」
注がれた水をゆっくりと飲み干して少し落ち着いた俺は、再びベッドに横になった。とにかく、今は最悪の事態を回避したい。
シルヴィアが心配そうな顔をしてベッド脇に立つ。そして俺の胸に手を乗せると、そのまま光が発生する。
回復貸出。
そのまま光が収まっても、やはり俺の中にある気持ち悪さは消えなかった。どうやらシルヴィアの能力では無理そうである。少し期待しただけに、その反動もなかなかに大きい。
効果が無いとわかり、項垂れたシルヴィアの頭を撫でる。
「少しは楽になった気がする。ありがとうな」
俺の言葉にシルヴィアがコクリと頷いた。
やはり、この状態を治療するには浄化でもなければ駄目なのだろうか。今の状態ならば、神官に寄付金を吹っ掛けられても二つ返事で支払ってしまいそうだ。そこから信仰も始まるかもしれない。
「……早く陸地につかないものか」
「まだ出港して二日目ですよ」
マルシアはやや呆れ気味だ。しかし、三人共揃って普段通りにしている。精霊族は船酔いに強い性質でもあるのだろうか。だとしたら羨ましい限りだ。
この状態が数日も続くと考えると滅入ってくる。話に聞いたことしかないが、もし嵐に巻き込まれでもしたら俺はどうなってしまうのだろうか。
……いかん、どうも考え方が悲観的になってきた。これも全て船酔いが悪い。
その後も、ベッドにしがみつきながら俺は耐えた。
この苦難を何とか乗り切り、水平線の彼方に陸地が見えてくる。
甲板から見えるマーナディアの大地は、俺の眼にはまるで楽園のように映ったのだった。




