第百六十二話 片手半剣と水の加護
眼の前にあるリヴァイアサンの亡骸は、未だ生前のまま佇んでいる。どう考えてもただの跳躍では、その首元までは届かない距離。それを埋めるべく、俺は片手半剣に纏う水気を払った。
――生体活性・脚!
同時に自身の脚を強化すると、一気に飛び上がる。
「ふたたび集えっ!」
――対魔水剣!
俺を止めようと上空から迫る闇を、呼び戻した水の片手半剣を真っ直ぐに構え、突き破っていく。
跳躍の限界。それは、ちょうどリヴァイアサンの頭部の高さ。
「喰らえっ!」
そのまま身体を強引に旋回させると、俺は薙ぎ払うように片手半剣をリヴァイアサンを覆う闇へと叩きつけていった。
闇が斬り裂かれる。剣の軌跡は根と幹を分かつように、綺麗に横一文字を描いた。それを確認するのと、俺の落下が始まるのはほぼ同時。
バシャンという着水音と共に辺りに飛び散る水飛沫。それらを無視し、俺は落ちてきた上空を見上げる。根本にダメージを与えた為か、先ほどまでと同じように闇が襲い掛かってくるような気配はない。
「お、やったか?」
駆け寄ってくるポーロとレイモン。二人が引きつけていた相手も、皆揃って立ち止まったようだ。
「…………」
俺はそれに応えない。想像通りに上手くいったとはいえ、あまりに簡単すぎる気がしたからだ。
黙ったまま、注意深く状況を確認していく。闇は膨大な量。いきなり霧散するようなことはなく、その場に停滞し続けている。
「――駄目みたいだな」
俺の呟きに、二人も上空を見上げていく。
闇は切り裂かれたところから幾つもの小さな触手を伸ばすと、残留していたもう片方の闇とふたたび繋がっていく。それに伴い、ゆっくりと活動を再開する敵対者たち。
「ちっ、なんだか上手くいきそうだったんだけどな」
ポーロがぼやいた。しかし、やはりその顔に悲壮感はない。
「仕方がない。次の手を考えるとしよう」
レイモンが盾を構えながら呟く。こちらもいつも通りだ。
「……次の手、か」
たとえ一瞬だろうと、闇を斬る術は手に入れた。あとはその根本を封じる方法が必要だろう。手にある片手半剣では、裂くことは出来ても抑えることは出来なかった。そうなると……。
チラリと横目でレイモンを見る。正確にはその手に持つ盾。その表面に対魔水剣を纏わせるのはどうかと考えてみたが、盾程度の大きさではリヴァイアサンの面積には到底及ばない。
もっと広範囲を封じられるものが必要だ。
眼の前には闇が迫ってくる。それを対魔水剣で払おうとしたところ――。
バシャン!
それよりも大きな水の壁が、闇と俺たちを分かつように海面からそそり立った。そのような能力が使えるのは、この場において唯ひとりしかいない。
「……もう動いても大丈夫なのか?」
後方を振り返りながら俺は口を開いた。そこには予想通り、リタが立っている。
「悠長に休んでいる場合ではあるまい。少しは休めた。上に立つ者は率先して動かねばならないのだ」
「その心意気は素晴らしいのひと言だ……が、さすがにあの姿を見たら心配くらいするのは当たり前だ。自分の身体も少しは労ってやれよ」
「む? そ、そうか。その心遣いはありがたく受け取っておこう」
俺から視線を外しながら、リタが礼を言った。まあ、こいつの性格からして、あのフラフラな状態をあまり人には見せたくないだろう。
「……これはあてつけなのか? あてつけだよな?」
「……敵がこのようなところにも潜んでいようとは、迂闊なり」
隣の二人がなにやらぶつくさと呟いているが、リタの言葉通り、今は悠長に語り合っている暇はない。
「それで、策は? あるんだろ」
皆の司令塔にして、この戦闘の要が最前線にまで出張ってきたということは、そういう事だろう。
「うむ。主砲の準備が出来次第、全力を以て撃ち込む。これまでのことから、闇を抑制すれば周囲も大人しくなるのは確認している。それに乗じて一気に封じ込めにかかるぞ」
「了解した」
俺は頷き返す。考えつくことを全部やると言っていたリタだ。俺の辿り着いた答えぐらい既に頭にあるだろう。ならば、後は実行に移すまで。
「やれやれ、残念ながらどこまでいっても俺は主役になれなさそうだ」
肩を竦め、自嘲の笑みを浮かべると、俺はポーロとレイモンを見やる。
「ハハッ! まっ、麗しき乙女の方が絵になるからな。それはそれでいいじゃないか」
「うむ、まったくもって異論はないな」
ややあって、後方からの光の信号が上がる。それを確認し、皆は頷き合った。
「それじゃ、いっちょやりますかね」
軍用船から真横に伸びる一条の光。
閃光はふたたび暗闇を取り込んでいく。混沌が生まれ、やがて消失。その後に残るのは、小さな余韻のみ。
それらを肌で感じながら、俺は空中を舞っていた。
――対魔水剣!
光に依り消失せし闇の腕。その修復にまごついている隙を狙い、俺はリヴァイアサンの首もとに向けて片手半剣を振るっていく。ふたたび、その軌跡に切り取られた闇の断面は、まるで波のない海のように滑らかだ。
「――リタっ!」
落下しつつ、俺は叫ぶ。
「任せとけっ!」
肩にリタの脚が乗る。俺を踏み台にすると、リヴァイアサンのはるか上空へとリタが飛び上がっていく。
その後を追うように落ちゆく俺の横を通り過ぎる、複数からなる水の柱。それらはリタが天へと掲げている腕の中へと集っていった。
やがて極大の水球となったそれは、次に重力に押しつぶされるように平たく変化を遂げる。
大きな、とても大きな水の盾。それはまるで、船を守った対魔水壁のようだ。
出来上がった水の盾を闇の断面へと向けるリタ。そして、そのまま上から蓋をするように、リヴァイアサンの首元へと押し付けていった。
闇の抵抗か、リヴァイアサンの体躯が大きく波を打つ。
片や、本体の状況を知ってか、周囲に停滞していた残りの闇もそれに呼応して暴れ始めた。
だが、それも彼女の予想通りなのだろう。対するのは、援護とばかりに軍用船から生まれる魔力の波だ。先ほどから続いていた無差別な広範囲攻撃ではなく、残った闇に狙いを定めた精密射撃。次々とやってくる波状攻撃を受けては、外側に残った闇では大した行動はとれず、やがて魔力と共に消失していった。
「……いけたか?」
静寂が訪れ、今度は俺がぽつりとひと言。
「今のところは、な」
それに応じたのは、浮力を失い、水上へと降りてきたリタだった。余裕がなくなったのか、その表情にはふたたび疲労の色が見え隠れしたが、それを指摘するのも躊躇われる。
元より、誰にも余裕はないだろう。それは軍用船に乗っている魔術師たちも然り。
「なに、心配するな。成すべきことを成すために、他を気にしている余裕がないだけだ」
視線を察したのか、こちらをいっさい見ずにリタが答えた。言葉は自体は力強い。ならば、これ以上追求するのはやめておこう。リタは未だに能力を使い続けているのだ。
「しかし、現状はいいとしても……だ」
呟きながら、俺は周囲を見回す。
現状を盤石にするには、リタが限界に達したときのことも考えておかねばならない。ここは戦場だ。どんな時も、油断してはいけない。
とはいったものの、俺の頭には何も浮かばなかった。いや、漠然とした思考を纏めようにも、それを阻害するものがある所為だ。
「頑張れ、リタちゃん! 俺たちがついているぞっ!」
それはポーロとレイモンの応援。先ほどは力となった楽観的な言葉だが、こうなってくると正直うざい。中々身勝手だとは思うが、だいたいの人間はこの状況ならばそう思うはずだ。たぶん。……確証はないが。
「気が散るだろ、やめとけ」
俺は二人を諫める。
「なに言ってんだよ。気持ちを伝えるのは大事だぜ。信頼しあっている仲間同士、心をつなげば苦痛も少しは和らぐってもんだろ?」
「それなら、俺の気持ちも少しは汲み取ってもらいたいものなんだが……な?」
ふと、あることが俺の頭をかすめた。
「心を繋ぐ、か」
ポーロの言葉を反芻する。それは本人からしてみれば、いつもの軽口のひとつだっただろう。だがごく最近、俺はそれと似たような状況に陥っていた。
それは、ここではない場所で感じたこと。
「……やるだけ、やってみるか」
そう呟くと、終わることのない声援を送っている二人に向かい、俺は言葉をかけた。
俺は意識を集中する。
もう一度あの場所に戻るかのように、俺は意識を深く深く、沈み込ませていく。
今ではあの小うるさい二人組が近くにいない為、辺りは静か。漣の奏でるささやかな音や、ときおり吹く風の通り抜ける音だけが耳に届く。それらは流れを連想させ、俺を更に深く引きずり込んでいった。
しかし、それでもその深淵までは届かない。かといって、行為そのものが無駄というわけでもなかった。かろうじて感じる、世界の流れに留まるもの。それがこの場所にはいくつも存在していた。
ひとつはとても大きく、とても歪だった。その他は大小数あれど、それに比べればとても小さなものだ。しかし、そんな小さなものの中でも、大きな存在。それが今、ここに集おうとしていた。
「きたわ」
最初に聞こえたのはシャンディの声。それを耳にし、俺はゆっくりと瞼を開いていく。
「突然呼び出してすまないな。皆は大丈夫か?」
シャンディの後ろには、黒騎士に乗ったシルヴィアとマルシアが続く。ポーロとレイモンの二人に呼び出してもらったのは、俺の仲間たちだ。現状では応援しか出来ないことを自覚していたのだろう、二人は俺の言葉を聞くと素直に船へと引き返してくれた。
「ええ、大丈夫。他の魔術師たちと比べたら、体外魔力も使える私たちには余裕があるわ」
俺は小さく頷く。
「そうか、それはなによりだ。その体外魔力のお陰で、現状はなんとかなっている」
「……やっぱり彼女は、そうなのね」
薄々察していたのか、シャンディは得心いったように頷いた。後ろの二人には通じなかったようで、揃って小さく首を傾げていた。
「細かいことは後で話そう。今は現状の維持が優先だ」
「えっと、その……危ないんですか?」
恐る恐るといった感じでマルシアが問う。平穏が訪れている現在、誰もそれが薄氷の上に成り立っているという事実を聞きたくはないだろう。しかし、現実を見なければ解決策も見い出せない。
「正直、分からん。だから出来ることをする。……いや、確信はないが試したいことがあるんだ」
「それが私たちを呼び出した訳ね」
「ああ。少しおかしいことを言うと思うが、その通りにして欲しい」
俺の言葉に皆は頷いた。黙って信じてくれる、信頼できる仲間たちとはありがたいことだ。
「リタ。集中しているところすまないが、少しいいだろうか?」
「契約を交わせたという事は、互いに信頼しているという事だ。ならば、何をされようが構わないぞ」
「いや、さすがにそれはどうかと思うが……」
リタの口から零れた『契約』という言葉に、シルヴィアとマルシアが反応を示していたが、今は説明している場合ではない。後々凄い勢いで問いつめられそうだが、今を乗りきれるならそれも歓迎するとしよう。
「皆は、俺の背中に触れていて欲しい」
「……? それだけですか?」
不思議そうに確認するマルシア。
「ああ、取りあえずはそれだけでいい。まあ、上手くいけば儲けものだ」
俺は皆に背を向けると、リタの背後に立ち、同じ様に手をかける。リタからは小さな反応が返ってくるが、その程度で集中が切れるほどやわな奴でもない。
俺は瞼を閉じると、深く深く、精神の底へと沈んでいった。
背に触れる三人の手。それを通じ、皆の存在を感じとっていく。
リヴァイアサンの意識と繋がったとき、俺は流れの一部となった。身体の中をも通り抜けていく世界の流れ。それが体外魔力と似たようなものだとしたら、俺という触媒を通じ、皆の力を分け合えるのではないだろうか。
そんな希望のような想像。しかし、それが正しいとすれば。
「――っ!?」
皆の息をのむ音が聞こえたような気がする。
大いなる者に対抗する俺たちの武器。あの時リヴァイアサンが語ったそれは、今確かに、俺たちの手の中にあるようだ。
個別の存在はひとつとなり、更に大きな光を形成していく。
後方から流れる力を、俺は前方へと送り届けていく。
「はははっ」
リタが笑った。それは強敵と出会ったときに浮かべるものでも、兵士たちに向けた上に立つ者の余裕でもない。子どものような、純粋な笑い声だ。
「やはり、私の眼に狂いはなかったようだ」
闇が沈黙してからどれだけの時間が流れたのだろうか。
陽は水平線に手をかけようとしており、橙色の光が俺たちを照らし出している。
海上には俺たちだけ。闇に飲まれた犠牲者も、それと対峙していた仲間たちの姿もない。動かなくなった犠牲者たちの回収を終えると、皆、しばしの休息へと入っていた。
水の上にただ突っ立っているのであれば、そこまでの疲れはない。しかし、常に集中し続けなければならない状態を長時間続けるのは、かなりの疲労を伴う。だからといって、ここで気を抜くわけにはいかない。俺たちよりも更に長いこと集中し続けているリタが音を上げていない。ここは男として、意地を張る場面だろう。
「お陰でだいぶ楽になっている。まだまだいけそうだぞ」
半分は本音。半分は挑発といったところだろうか。リヴァイアサンの時と同様、繋がっていることにより、無意識で俺の考えも流れ込んでいるのかも知れない。
やれやれ、そうなると下手なことも考えられないな。
そんな俺たちとシャンディはともかくとして、新米二人組であるシルヴィアとマルシアの疲労は、眼に見えて分かりやすかった。
二人も十分に頑張っている。それは俺が保証しよう。しかし、そろそろ交代で休ませるべきだろうか。
そう考え始めたとき、俺の視界の端に小さな船らしきものが映った。