第百六十一話 巫女と闇を裂くもの
リタが俺へと近づいてくる。
「おっ、おい! 大丈夫かっ!?」
しかしその足取りはおぼつかず、俺の前までやって来ると気が抜けたかのように倒れ込んでしまった。
俺は慌ててリタを支えていく。今のいままで、ほぼひとりで闇を抑えていた彼女だ。その消耗具合も半端ではないだろう。倒れるのも必然か。
「……すまないな。少し疲れただけだ。休めばまだまだ戦える」
少し恥ずかしげに、リタが口を開いた。強がる気力はまだ残っているようだ。
頷き、辺りを見回していく。船からの砲撃により、闇の増殖はなんとか押さえ込められているといった現状だ。休息するくらいの時間は取れそうだ。
「……だが、少しだけ甘く見過ぎていたのかもしれない」
気が緩んだのだろうか。リタにしては珍しく、ぽつりと弱気な言葉が口をついて出た。
「これまでの記録にはレヴィアタンが本気で戦ったと見られる記述はなかった……だから今回も諍い程度はあったとしても、最終的には退いてくれると……心のどこかで信じていたのだろう」
トンと、俺の胸部に小さな衝撃。そこに頭をつける形で顔を伏せたリタの表情は分からない。
「……いや、すまない。少し動揺しているようだ。しかし、どうであろうとやるべき事は変わらない」
「そうだな。こうなった以上は全力を尽くすしかないだろう」
「……そう、全力。考えつく全ての力、だ」
自分の中で何かを納得させたのだろう。リタはゆっくりと顔を上げると、真っ直ぐに俺を見る。そこに浮かぶのは、決意に満ちた表情だ。
「――イグニス、契約するぞ」
足元から巻き上げられる水滴。それを後方へと置き去りながら、俺は海面を疾走する。
前方には漆黒の闇が手ぐすねを引いて待ち構えていた。
走りながら瞼を閉じ、俺は意識を集中。深く、深く。身体の中にいるもうひとりの自分。あの場所に存在していた、俺の内なる精神に語りかける。
左右へと分かたれていく大気。波打つ海面。そのひとつひとつに、同じ世界の息吹を感じていく。
そんな、淀みない流れを塞き止めるものがひとつ。
眼を開ければ、闇はすぐそこまで近づいていた。歪な流れ。世界の乱れ。ありとあらゆる負の感情を呼び起こさせるようなそんなざわめきが、俺の心へと忍び込んでくる。
「……飲まれるなよ」
自らを律する。
「……応えてみせろ」
そして紡ぐ。誰に言うでもない、自分自身へと向けた言葉を。
それに応じるかのように、手に生まれるのは未知なる力。それが如何なる能力なのか俺は知らない。
――しかし、信じている。
これまで助けられてきたこの能力たち。それはどんな時でも、決して俺を裏切りはしなかった。
闇が俺を包み込み、視界が黒に染まっていく。
瞼を降ろした時よりも深い暗闇。煽り立つ不安。確かに、このまま長いことここにいれば理性など吹き飛んでしまうだろう。
「悪いが、付き合っている暇はない」
俺は眼の前を裂いた。揺さぶられる感情にあらがうように真っ直ぐに。
闇に刻まれた一条の光は、ゆっくりと外界へと広がっていく。
俺の手には、闇に抵抗する為の武器がある。それは俺が今まで長いこと使っていた鋼鉄の片手半剣。
しかし、物質だけでは眼の前の闇を斬ることが出来ないのは、これまでのことから分かっている。
ただの物体である片手半剣を保護するかのように周囲を覆うのは、透き通るように美しく、常に流動する水の膜。光を浴びたそれは、まるで邪なモノを払う聖水のように清らかな輝きを讃えていた。
その姿から軍用船が使っていた解術である、対魔水壁を思い起こす。それに倣うとすれば、これは対魔水剣とでも名付けるべきだろうか。
剣から感じる僅かな精霊の残滓。それは、どこかリヴァイアサンの精神を彷彿とさせる。
「ああ、いけそうだな」
何度も感触を確かめていくが、違和感は特にない。反動も今は気にしている場合ではないだろう。
だが、ふたたび一歩を踏み出そうとした俺を遮るものが居た。
「……まあ、当然そうなるよな」
小さく息を吐くと、剣を構え直す。立ち塞がったのは闇を纏った、意識は虚ろだが敵対の意志だけは明らかな冒険者。
「出来れば……戦いたくはないんだが、な」
空いている左手で腰から短剣を引き抜く。それは今まで投擲していたものではなく。人と戦うための武器。いや、どちらかというとその性質は防具に近い、受け流し用の短剣。
――対魔水剣!
その表面に片手半剣と同様の清らかな水を纏わせると、近づいてきた片手剣の軌道をずらし、滑らせていく。
よくよく見れば、襲撃者の動きは精彩を欠いている。まあ、怒りにしろなんにしろ、感情のままに剣を振るえばそうなるのは当然だな。同様に、いままでの俺たちも冷静さを欠いていたといえる。故に驚異に思えた相手だったのだが、こうしてしっかりと腰を据えてみれば、俺でもなんとか対処出来る程度の相手だった。
それならばと俺は剣を交わせ、皆と同様に切り結ぶ。正体を見極めるには情報が不可欠。今は敵対している相手とはいえ、元は仲間。その行動は本来の意志ではない。助けられるのであれば助けたいところだが……。
「……いや、少し余裕を見せ過ぎだな」
自嘲し、同時に反対の考えを浮かべるのを忘れない。俺の手に余るのであれば、眼の前の相手を排除ことを厭わない。
「これもまた、表と裏かね」
俺の呟きに回答する者は居ない。代わりとばかりに襲い掛かってくるのは片手剣だ。それ単体ならばどうということはない。気をつけるべきは闇との同時攻撃。
「だが、それもこいつならなんとかなる」
俺は受け流し用の短剣で片手剣をいなすと、反対の手にある片手半剣で闇を払った。役割をはっきりとさせることにより、思考の無駄をなくし、自身を精錬していく。
闇は冒険者の背後から被さるように周囲を覆っていた。そこから一気に広がるように延び上がると、様々な方向から襲い掛かってくる。
更にその後方には、まるで冒険者を捕らえて離さないよう、ロープのように細い闇が伸びていた。それを辿っていくと、行き着く先は発生源。
「結局のところは……リヴァイアサンの亡骸か」
攻撃の合間に周囲を確認するが、どこも似たような状況だ。
そんな思考を遮るように、思いっきり振り下ろされる片手剣。それを跳ねるように相手脇へと避けると、次いで襲い掛かってくる闇を水平に構えた片手半剣で突き破り、後方へと回り込んでいく。
「――こいつでどうだっ!」
そしてそのままロープ状の細長い闇に向け、水飛沫と共に片手半剣を切り上げる。若干の抵抗の後、闇は押し上げられるようにして断裂していった。
振り返り、体勢を立て直した冒険者がふたたび襲い掛かってくる。しかし、振り下ろされた片手半剣は途中で止まった。
そのまま、まるで時が止まったかのように微動だにしない冒険者。
――バシャン。
やがて片手剣が冒険者の手から零れ落ちると、大きな飛沫と共に海中へと没していった。
戦意喪失……と見て良いのだろうか。正気を取り戻すとまではいかない様子だが、抵抗されないだけでも上々だ。これで時間と共に回復してくれるのであれば言うことはないのだが、それを悠長に観察している場合じゃない。
結局のところ、冒険者は動きはしないが、沈みもしなかった。ならば、しばらくこのままでも大丈夫だろう。
しかし、闇に呑まれた仲間の数は多い。今みたいにひとりひとり順繰りに相手にしていては、闇の増殖はいつまで経っても抑えられない。
「そうなると……元を断つしかないか」
それぞれ伸びる闇の中心には、必ずリヴァイアサンがいる。正確に言えば、その首元。そこを薙ぎ払うことが出来れば、あるいは。
「せっかく見えた好転の兆し……やるっきゃないよな、やっぱり」
そう呟くと同時に、俺はふたたび海上を駆け出していった。
果たして、闇自身に意識はあるのだろうか。
真っ黒いだけの存在を端から見ても、それは分からない。しかし、抵抗しながら接近する俺に対し、分散していたそれぞれの端末を纏めようとする闇を見るに、防衛本能は備えているように思える。
最初はスムーズに進んでいるように見えた俺の歩みだが、相手の支配する領域への進入となると、そう易々とは出来そうになかった。
闇の間隙を縫って横から迫る金属の武器。踏み込めば踏み込むほど、取り込まれた仲間たちが俺の足を止めに掛かってくる。
「くそったれ」
更にもうひとつ。逆方向からも襲い掛かる片手剣をギリギリで避けると、俺は悪態をついた。このままゾロゾロと集まってこられると、最終的には身動きがとれなくなってしまう。
一対一であれば、冷静に状況を把握出来る俺に分があるだろう。しかし、複数人での力押しをされるとなると厳しいと言わざるを得ない。
周囲を見回せば、徐々に狭まってくる包囲網。軍用船からの援護で闇の増殖を抑えているとはいえど、完璧というわけでもない。少しずつではあるが、気がつけば幾人か新たに闇に飲まれている。
「……いったん退くか?」
多勢に無勢。このままでは俺もやられてしまいそうだ。
しかし、ここで歩みを止めたところで状況が徐々に悪化していくのは明白。今の主戦力となっている軍用船の魔石や、船上の魔術師たちの魔力もいずれは限界が訪れる。
「――いやいや、ここは一気にいく場面だろっ、と!」
ふたたび俺に向かって振り下ろされようとしていた片手剣が、不意に聞こえた言葉と共に跳ね上げられた。
「――ここで退いては男が廃る、ぞ!」
もう一方から襲いかかる剣も、突如として現れた盾に防がれる。
「……お前ら、無事だったのか」
俺の左右を守るように現れたのは、少々縁のある二人組の冒険者。ポーロとレイモンだ。
「いやいや、心配するのはこっちの役割だろ。レベル的に考えて」
「いや、心配してくれたことにはきちんと礼を言うべきではないか」
ポーロの言葉に続くレイモン。しかし、奴の言葉ももっともか。まかりなりにもこいつらはレベル6の冒険者。レベル5が心配するのは筋違いだな。
「まあ、なんにせよ。助太刀にきてくれたことには礼を言うよ」
「おうよっ! こんな美味しい場面に立ち会わなきゃ冒険者じゃないぜっ!」
「好機は逃さず、全力を以て当たるものだ」
頷き、言葉を返す二人。
「この黒いイヤな感じのなんともいえない奴にゃ、流石の俺たちでも苦戦していたが……やれるんだろ? そいつなら」
クイっと顎を動かし、ポーロは俺の片手半剣を示した。
「ああ。ぶっつけ本番で試したんだが、どうやらいけそうだ」
「ハハッ! いいね、いいね。絶望からの逆転劇。久々に熱くなるってモンだぜ!」
レイモンも、ポーロに同意するようにニヤリと笑みを作る。二人を見るに、少しも絶望などという感情は見受けられないが……まあ、こいつなりに励ましているんだろう。
英雄の所持していた光の片手半剣。そこまでの代物とはいかないが、こいつは今まで付き合ってきた信頼の置ける相棒だ。
「それじゃ、援護を頼むぞ」
「おうよっ!」
声を上げると、ポーロたちはそれぞれの武器を構え直し、眼の前の相手へと向けていく。
「ああ、そうだ! もしかしたらそいつらも助けられるかも知れない! 出来る限り殺さないでやってくれ! お前たちなら余裕だろっ!」
「あいよっ! ちょっくら面倒だけど、それを聞いちゃ斬るわけにはいかないなっと!」
ポーロは自身の片手剣で相手の武器を弾くと、勢いのまま回転し、相手の側面に向けて蹴りを放つ。その膂力たるや凄まじいもので、木々を根っこから引き抜くように相手を遠くへと吹き飛ばす。片やレイモンも負けてはおらず、相手の懐に瞬時に踏み込むと、一気に力を解放して弾き飛ばした。
「黒いイヤな奴の捌き方は、これまでに嫌というほど学んだからな。イグっちは真っ直ぐに進んでけ。露払いはこちらの役目っつーことで――いくぜ、レイモンっ!」
「応っ!」
その声と共に、二人は眼にも留まらぬ速さで駆け出した。俺はそれについて行くのがやっとだ。迫り来る新手の対処をしつつ、同じ速度で駆け抜けられる時点で、やはり二人との差を実感してしまう。
「能力を得たからといって慢心していては駄目だな――っと、こいつは俺がやるっ!」
手を開くかのように俺たち三人の行く手を遮る闇に対し、片手半剣で穴を開けていく。そして、切り開いた先にポーロとレイモンが突っ込み、待ち受ける敵を吹き飛ばす。
その繰り返しの作業を続け、俺たちは目的の場所へと辿り着いた。