第百六十話 流れと歪み
「――どういうことだっ!?」
ハッと我に返ると、俺はリヴァイアサンに向けて大声で問いかけていく。肉体と精神が同時に存在しているなら、こちら側は無事なはずだ。
『お前たち人間が、自らの力で我を排除しただけのことだろう』
「いや、おかしいだろっ! 伝説に語られるほどの魔物が、あれくらいで倒されるはずがないっ!!」
『なにを言っている。それが、お前たちの宿願ではなかったのか?』
「いや……俺たちは話し合いを――」
『それが決裂となった暁には、敵対する心積もりだったのだろう』
心の内。人の裏などここでは無意味。それは、先ほど学んだばかりのことだった。
「……確かに、その通りだ。アンタが有無を言わさずに攻撃を仕掛けてきたときは、もはや倒すしか道はないだろうと思っていた。……だが、俺たちはこうして話し合いが出来ているじゃないか。それなら違う道も――」
『否』
俺の言葉を遮ったのは、否定のひと言。
『我自身にも、歪みに浸食された肉体を止める術はない』
「……どういうことだ?」
『我々はこの世界と近しい存在。歪みは当然、我にも牙を剥く』
リヴァイアサン自身が歪みの影響を受けている? ……という事は、これまでの行動は全て歪みの所為だったのか?
『それは正しくもあり、間違いでもある。既に肉体は暴走の兆しを見せていた。我は意識が正常なうちに、出来うる限りその原因を排除することを決めた』
「…………」
『……しかし、我とて全てを見通せるわけではない。事を起こすには些か遅すぎたようだ。我の制御ももはや届かない。……見よ。お前たちの行動の、その結末を』
同時に、異変が訪れた。
――ドクン、ドクン。
その音はリヴァイアサンの意識を通じ、俺の耳にも届く。
呆然としていた仲間たちが自らの勝利を認識し始めた頃、絶望は緩やかに鎌首をもたげた。頭部を無くしてはいるものの、未だ悠然と佇んでいる王者の亡骸。それが今、小さな鳴動を始めていく。
それを認識した仲間たちの小さなざわめき。それは次第に後方へと伝播していき、小さな勝利の余韻は、あっという間に霧散してしまった。
しかし、皆は動き出さない。混乱に次ぐ混乱。状況を正しく理解出来ている者など、俺たちの中にはひとりもいないだろう。
そして……闇が生まれた。
それはこの場所から感じる安らぎのようなものは欠片もなく、それは全てを飲み込み、存在そのものを消失させるような虚無を携えていた。
闇は、生き物の腕のようにリヴァイアサンの首もとから伸びると、呆然とそれを眺めていた周囲の仲間たちに向け、掴みかかっていく。迫り来る正体不明の代物に、慌てて手に持つ武器を振り回し抵抗を試みる仲間たちだったが、実体を持たないそれに対してはなんの意味も持たない。
闇は有無もいわさずに仲間を取り込むと、次の獲物を求め、海上を疾走していく。
「――なんなんだよ、あれはっ!?」
味方の誰もが思っているであろう言葉を、俺はリヴァイアサンにぶつけた。
『歪められた理の行き着く先。それは滅びに他ならない』
淡々と事実を述べていくようなリヴァイアサンの言葉。そこにあるのは、ある種の諦めなのだろうか。
しかし、諦めていない者も少なからず存在した。
侵略を始めた闇に対抗するのは、皆の足下を満たしている海水。それを操り、リタは闇に襲われそうになっている者の周囲を水膜で覆っていく。
物体を易々と通り抜ける闇も、その水分に含まれている特別な力には影響を受ける様で、丸く覆われた水の表面を舐めるように広がっていくだけに留まった。
「……今更だが、凄い能力だな」
感心と共に俺は呟く。その防衛力に加え、距離や応用性。通常の魔術では考えられないほどに、リタの能力は万能だった。
そう、それはまるでマルシアの――。
『当然だ。体外魔力とは世界そのもの。それを一部とはいえ操れるとなれば、あの程度のことは造作もない』
「……体外魔力を操る?」
リヴァイアサンの言葉に、以前シャンディから聞いたことが頭に浮かんだ。
魔術師というのは、基本的に体内にある魔力を放出することによって現象を生じさせている。そして、その例外がシャンディたちだ。体外魔力を扱う能力。それは……。
「まさか……巫女、なのか?」
俺は答えを求め、リヴァイアサンに意識を向ける。リタの正体を一瞬で見極めたと言っていた。ならば、その答えを知っているはず。
『問いの意味は分からぬ。しかし、お前たちがまだ繋がっていないことは把握している』
繋がり。それは俺たちで言うところの『契約』だろうか? いや、それはきっと正しい。俺は既にそうだと確信していた。どうしてリタが俺に興味を持ったのか。それは……巫女ならば簡単に説明がつく。
『――か』
リヴァイアサンの小さな呟きに、俺はハッと顔を上げた。その意味は聞き取れなかったが、事態が動いたことをなんとなく感覚で理解する。
視線を戻した先。そこには先ほどと変わらない闇と水の戦いがある。しかし、その拮抗は崩れていた。水を打ち破ったのは金属で出来た物質。闇の根本から生えるように伸びた片手剣が、水の膜を突き破り、そのまま中の兵士をも貫いていた。
「――なっ!?」
何度目の驚きの声だろうか。俺はふたたび、大声を上げてしまった。
しかし、それも仕方のないことだろう。
片手剣を持つ者。それは俺たちと同じ、冒険者だった。その人物には見覚えもある。リヴァイアサンに接近していた、数少ない冒険者のうちのひとり。
――つまりは、最初に闇に飲み込まれた人間に他ならない。
「無事だった……という訳ではないのか」
今まではリヴァイアサンに向けていた矛先を翻し、今度は俺たちに向けている。異常な状態というのは、誰がどう見ても明白だ。
それは闇本来の力か、それとも突然の事にリタの集中が乱れたからか、水膜はあっという間に消失してしまった。闇に捕らわれた冒険者は、兵士の身体から抜き取った片手剣を更に振り上げると、とどめを刺さんとばかりに振り下ろしていく。
皆は広く散開しており、その行動を止められる者は居ない。
「……くそったれっ!」
人が人に牙を剥く。
眼の前で繰り広げられている状況は、俺が知っている以前の出来事を彷彿とさせる。人格が不安定となり、自らの欲望を増幅させ、仲間に手をかけようとした人物がいた。そして、そうなってしまった原因というのは。
「まるで……呪いのようだ」
苦々しい感情と共に、吐き捨てる。
『人が作り上げた、自らを絡め取る呪縛か。なるほど、適した言葉だ』
あれが呪いだとしたら……世界の歪みがそれを作り上げている? いや、そもそもあの闇が呪いそのものなのか?
『お前たちに理を説いたところで到底理解は出来まい……それに、その時間もない。そろそろ我が精神も限界のようだ。肉体の暴走に引っ張られ、我の精神も既に歪みに浸食されている』
その言葉に、俺は先ほどまでは大きく、すぐ近くに感じていたリヴァイアサンの意識が、徐々に離れていくかのように小さくなっていることに気がついた。
「お、おいっ! 俺たちはどうすりゃいいんだっ!」
俺はみっともなくも慌ててしまった。いま突き放されては、この状況を収める術が見当たらない。
『それはお前たち自身が決めることだ。このまま滅ぶのも、かつての人間たちのように、抵抗を試みるのもな』
「俺にそんな大役が出来るかっ!」
それに、喩え俺がここでひとり抵抗を試みたとしても、いったいなにが出来るというのだろうか。
『当然だ。人ひとりで出来ることなど、たかが知れている』
「なら、どうしろってんだよっ!」
半ば八つ当たり。それは自分でも理解していた。しかし、だからといって他になにを言えばいい?
『我に挑む為、お前たちはどう動いた?』
返ってきたのは問いかけだった。
リヴァイアサンとの対話に失敗した際の対抗策として、俺たちがしてきたことは。
「……仲間を集めた?」
『そうだ。それこそがお前たち人間の強み。かつてより、我々に対抗してきた術』
不意に、リヴァイアサンに挑む冒険王の姿が浮かぶ。その周囲には魔法剣士シャロワを始めとした仲間たちの姿。この世界に軌跡を残した様々な勇士たちもまた、ひとりではない。その傍らには、常に共に戦う仲間たちが居た。
『その身に潜むものが偶然でないとするのならば、先はまだ分からぬ。分からぬからこそ、この世界は常に留まらず、流れ続けている』
「……先は分からない、か」
『なれば、いま一度見せてみよ。お前たちの力を。かつてこの世界を歩んだ、古の人間たちのように――』
リヴァイアサンの言葉を背に、俺の身体はゆっくりと浮上していく。そして、世界の深淵から押し出されると、俺の意識は自らの肉体へと吸い込まれていった。
「――ご主人様っ!」
覚醒と同時に、シルヴィアの言葉が突き刺さる。
「……支えていてくれたんだな。すまない、助かった」
俺を腕に抱え、黒騎士が海上に立っていた。あのまま沈んでいたとしたら、今頃溺れていたかもしれないな。いや、笑い事じゃないが。
「良かった、です。いきなり倒れたときは……びっくりしました」
硬質な黒騎士の頭部を軽く撫でると、俺は水上靴を使い、しっかりと海面に足をつけていく。靴底から受ける確かな感触に、俺は改めて戻ってきたことを実感した。
「……えっと。それで、その……」
状況を説明しようとしているのだろう。シルヴィアが必死に言葉を探している。しかし、全体をきちんと見ていた俺でさえ上手く表現出来ないのだ。彼女の言葉が要領を得ないのは仕方のない事だ。
「大丈夫だ。見ていた」
「……えっ?」
突然そんなことを言われても理解出来ないのだろう。シルヴィアは黒騎士の頭部を小さく傾げると、不思議そうな声を出した。
しかし、説明している暇はない。俺は周囲を注意深く観察していく。幸いなことに皆より後方に位置していた俺たち。闇の侵略はここまでは届いていないようだ。
闇に対するは水。なんとか持ち直したリタの水撃が、現状を支えていた。無論、それだけでは追従する闇を纏った襲撃者の対処は出来ない。
人に対するは人。正気を保っている味方たちが悲壮の面もちで、かつての仲間を止めに入っていた。
状況は未だ、均衡を保っているように思える。
……しかし、あくまでも現状は、だ。
リヴァイアサンの亡骸から生み出されていく漆黒は、徐々にその量を増やしている。片や、それに対抗出来ているのはリタのみ。このままでは、いつかは押し切られてしまうのは明白だ。
どう動くべきかと思案していると、後方から小さな光が上空に向けて放たれた。それは意識の海を漂っていた際にも見た、行動を移すときの合図。
「全員中央をあけ、退避っ!」
それを確認したリタは手を掲げ、前方のリヴァイアサンへと向けていく。同時に、切り結んでいた仲間たちも回避を優先し、左右に散開していった。
「主砲、発射っ!」
ふたたび生まれる、光の架け橋。実際に近くで見るそれは直視出来ないほどに眩しく、全てを照らし出すかのようにリヴァイアサンを覆う闇へと襲いかかっていった。
闇は光を受け、混じり合う。
一撃目はリヴァイアサンを通り抜け、彼方へと消え去った光。しかし、今回は闇の中心で、まるで陽の光のように留まり続けていた。
昼と夜が同じ場所に存在しているかのような不思議な光景。俺はその行く末を、固唾を飲んで見守っていく。
時間をかけ、それは消滅した。闇は光を、光は闇を互いに飲み込んで。
「……それでも、決定打にはならないか」
ふたたび肥大化していく闇を見て、俺は呟いた。
闇が消えたといってもそれはほんの一部。リヴァイアサンの巨大な体内から生まれいずる闇には限界が見えない。いったい、どれほどの光で照らし出せばいいのだろうか。
しかし、光も完全に潰えたわけではない。
後方へと下がっていた軍用船。それが俺たちの合間を縫い、リヴァイアサンへと接近していた。発射に準備のいる主砲は簡単に連射することは出来ない。だが、軍用船に積まれている武器は主砲だけではない。
「砲門を全て開けっ! 出し惜しみは無しだ!」
生まれる光の雨。それに追従するように魔術師たちが練り上げた魔力もまた、闇へと襲いかかっていった。