第百五十九話 肉体と精神
想像通りの軌跡を描き、短剣が空を裂いていく。
それに気づくリヴァイアサン。しかし、時は既に遅い。短剣は眼前まで飛来しており、なにかの行動を起こす前に、衝撃がリヴァイアサンへと襲い掛かっていく。
上手く制動の効かない力任せの投擲とは違い、神経と肉体、その両方の強化が施された一撃には無駄がない。出来うる限りの力を込めた、俺の渾身の一投だ。
『む』
短い言葉。そこには若干の驚きが混じっているように、俺には聞こえた。
しかし、それだけのことだった。結局のところ、短剣は突き刺さりはしたものの、大したダメージは与えられていないのか、痛みなどを感じている様子は微塵も見られなかった。
だが、当初の目的である、意識を反らすということだけはなんとか成功したといえるだろう。
「この機を逃すな! 一斉に進めっ!」
状況を瞬時に理解し、リタが叫ぶ。
リヴァイアサンの周囲には未だに進入を拒む魔術が存在していたが、そこは歴戦の戦士たち。後方から待ってましたとばかりに飛んでくる魔術の援護と共に、少しずつその懐へと飛び込んでいく。
『この力……やはりそうか』
そんな周りの様子を意にも介さず、リヴァイアサンは呟く。
『――お前か』
そして短い言葉と共に、俺は射抜かれた。それは視線などではない。言うなれば、感覚的な、意識の侵略――。
気がつけば、俺は沈んでいた。
不思議と息苦しくはなく、身体は海の深淵に優しく抱かれるかのようにフワフワと軽い。
「……なんだか、あの時と似ているような気がするな」
ぼーっとした俺の頭に、ふと過ぎる光景。それはシルヴィアと出会った時のことだった。生死の境を彷徨っていたときに見た意識の底。なんとなく、あの時の感覚と似たようなものを、俺は感じとっていた。
「……そういや、あの時から始まったんだよな」
今となれば、当時を懐かしむほどに時間が流れている。こうして思い返していくと、シルヴィアと契約をしてからというもの、実に様々なことがあった。
初めてのレベル5魔物コボルトリーダーとの遭遇。何年も停滞していた俺のレベル4、レベル5への昇格。魔物の巣や魔窟への挑戦。同じ契約者との対立や、マーナディアでの派閥争いの巻き添え。そして、今はさらなる高みを目指して新たな試験に――。
『それが、お前の歩んできた道か』
不意に、俺の思考を遮るように声が響いた。
俺はこの声を知っている。これは、ずっと頭の中に響いていた声だ。
「……リヴァイアサン」
『それはお前たちが勝手に付けた名。我々にはそのようなものは必要ない』
……どうも、俺は会話をしているようだった。あのリヴァイアサンと対面で語り合うというのはなんともおかしな気分である。もしかしてこれは夢じゃなかろうか。
『夢などではない。これは現実だ』
どうやら、思ったことまで通じてしまうようだ。なんとも不便で仕方ない。
『そう感じるのは、お前たち人間が表と裏を使い分けるからだろう』
伝説の魔物からありがたいお説教を食らってしまった。確かに人間関係というものは、他の存在から見たら煩わしいものなのかもしれない。しかし、本音でぶつかり合えば諍いの火種となってしまう場合も多いのが現実だ。
『そうだ。お前たちはいつも争っていた。同族同士で争いあっているかと思えば、今度は協力して他の存在の排除を始める。今のお前たちのようにな』
「……今回ばかりは、アンタが最初にふっかけてきた喧嘩だろうに」
魔物たちの襲撃がなければ、リヴァイアサンが動かなければ、こんな騒動にはならなかったはずだ。降りかかる火の粉を払うのは、ごく当然の行動といえる。
『否。その原因を作ったのもまた、お前たち自身』
「……またそれか。いったい俺たちが何をしたって言うんだよ」
俺は無意識にため息をついた。
確かに、俺たちは決して利口とはいえない。リヴァイアサンが語ったように、これまでに様々な争乱を引き起こしているし、これからもきっと……それらは起きてしまうことだろう。
『歪みだ。お前たちは、この世界の理を歪ませている』
それは抽象的な言葉だった。そのような説明では俺にはまったく分からない。もう少しかみ砕いてくれないだろうか。
『ならば、感じてみるがいい』
「感じる? どうやって?」
『私とお前が繋がっているこの場所。それは世界そのものだ』
「……いきなりそんなことを言われてもな」
この場所が『世界』だというのであれば、当然リヴァイアサンの言う『歪み』とやらも存在しているのだろう。
ぶつぶつと文句を言いながらも、俺は生体活性や風陣収縮を使うときと似たように、意識を集中していく。
しかし、残念ながら感じとるものに変化はなかった。世界と呼ばれたこの場所は、緩やかな流れの中で安定しているように思える。
「……別に問題はなにも感じないが?」
俺は訝しげにリヴァイアサンへと問いかける。
『もっと深く潜れ。その深淵にこそ、歪みは存在している』
色々と難題をふっかけてくれる。どうすれば、その場所に辿り着けるというのだろうか。……まあ、考えたところで答えはでない。ならば、色々と試みるしかない。
そう結論づけると、俺は水中と同じように身体を動かし、足下へと向かって泳ぎだしていく。
どうやらその考えは正しかったらしく、身体を覆う不可思議な感覚もまた、徐々に強まっていった。
それからどれほど進んだだろうか。
「うおっ!?」
穏やかなはずの海底に変化が訪れる。突如生まれた、雑音のような潮の流れ。それは俺の身体を弄び、やがて通り過ぎていった。
そして、ふたたび訪れる平穏。
「……なんだったんだ、いまのは」
辺りを見回して見るが、その流れを視覚で確認することは出来なかった。そもそも、ここで受ける感覚は現実と乖離している。なにが正しくて、なにが間違っているのか、そんな当たり前のことですら、俺はきちんと理解出来ていない。
更に進むにつれ、それが訪れる頻度は上がっていった。
「これが……歪みなのか?」
その流れに翻弄されつつも、なんとなく理解し始めた俺はリヴァイアサンに向けて問いかける。
『そうだ』
短い肯定の返事。
『一定の流れを刻む中で生まれる、歪な流れ。それは確実に、世界の調和を乱していく』
「この原因を作ったのは人だと言っていたな……それは結局のところ、どういうことなんだ?」
『それは――』
不意に、リヴァイアサンの声が乱れた。明確な言葉は俺に伝わらず、その欠片だけが耳元を通り過ぎていく。
「……どうした?」
俺はリヴァイアサンにふたたび問いかける。
『…………』
しかし、その返答はなかった。
静寂の中、ただただ時間だけが流れていく。
そんな状況の中、次第に不安が俺を包み込んでいった。そもそも、どうやってここから出ればいいのだろうか。気づいたときには俺は既にここにいたわけで、当然出口などを知る由もない。連れてきたのは先ほどから会話を交わしていたリヴァイアサンだろう。しかし、その相手がなぜ俺なのか。交渉をするのであれば、既に代表を名乗ったリタが居るわけだし、周りの奴らと比べてもその中に埋没する自信のある俺だ。
ひとつ考えられることといえば、二重強化による投擲がリヴァイアサンの怒りを買ったというところだろうか? いや、それにしては友好的すぎるのもおかしい。そもそも、俺たちは対立していたはずだ。どの角度から見ても、疑問ばかりが生まれてきてしまう。
他にすることもなく、延々と思考のループ。
「――なんだっ!?」
それを止めたのは、不意に開けた視界だった。
襲いかかる光に眼を細めつつも、俺はその詳細を確認していく。すると、海底のようなこの世界から垣間見えたのは、先ほどまで俺が立っていた海上だった。
そこには当然の如く、リヴァイアサンと兵士や冒険者たちが対峙していた。それならば、俺と会話をしていた奴はいったい何者なんだ?
『――我は我。肉体と精神。そのふたつが同時に存在しているだけのこと』
ふたたび生まれた、リヴァイアサンの意志。それを感じ、俺は少しだけホッとしてしまった。孤独というのは、どうにも人を不安にさせる。
しかし、当然の様に説明されてもな。人には絶対理解出来ないだろ、それ。
『それはお前たちが愚かだからだ。以前の人間であれば、この程度のことは理解していて当然だ』
「……今の俺たちは愚か、ね」
呟きながら、俺は戦場へと視線を投げていく。
投擲が功をそうしたのかは定かではないが、仲間たちの内の何人かは王者への接近に成功していた。その中でも活躍著しいのは、やはりというかリタである。リヴァイアサンほどとはいえないが、似たように周囲の海水を巧みに操り、皆の援護に回っていた。
なにやら色々と令を下している様子だが、その音はここまで届かない。しかし、その意味するところは、なんとなく理解出来る。
前方に向けて手を掲げつつ、リタがひときわ大きく叫んでいく。
それと同時に、光が迸った。それは俺たちの持つ最大の攻撃。軍用船に乗せられた主砲の砲撃。
主砲の名にふさわしいほどの膨大な光の爆発。生じたのは遙か後方からではあったが、それは一瞬のうちに海上を伸び、光の橋を作り上げていく。
『本当に、度し難い愚かさだ』
俺の側でリヴァイアサンが呟いた。そこには焦りも、嘲笑もない。ただただ、眼の前で起こっている事実を述べただけのようだ。
光は海上のリヴァイアサンへと到達すると、その首元に喰らいつく。それは徐々に内部へと進入を果たし、やがて後方へと通り抜けていった。
「――なっ!?」
その様子を黙って眺めていた俺は、眼の前で起こったことに大きな声を上げてしまった。これまでの会話の様子から、如何に主砲といえど、リヴァイアサンにそこまでの影響はないものだと勝手に思い込んでいた。
いや、あの場所にいる誰もが、効果のほどはともかくとして、これが決定打になるとは思っていなかっただろう。
しかし、現実は違った。
もぎ取られた頭部が大きな音を立て、海中に没していったのだ。魔力を伴って辺りに浮かんでいた水塊も、主人を追って力なく落ちていく。
やがて訪れたのは静寂。
未だ信じられず、俺を含めた全員が、呆然とそれを眺め続けていた。