第百五十一話 水上靴と商売人
「ぬおっ!」
――ばしゃん。
俺の尻が水面に落ち、辺りに水飛沫が散っていく。
「――ひゃうっ!」
それをまともに受けたシルヴィアが小さな悲鳴を上げた。
「すまん。大丈夫か?」
「……はい」
ぐしぐしと手で大雑把に水分を払いのけながら、シルヴィアがこくりと頷く。
外から聞こえるのは雨の音。それと比べれば、部屋の中に飛んだ水の量は些細なものだろう。
俺はため息ひとつつくとおもむろに立ち上がり、水が張られた大きな桶からその身を出していく。しかし、ぺったりとくっつく吸い込んだ水分に衣服から逃れるすべはなく、不快感が常につきまとってくる。
別に水浴びがしたかったわけではない。なかなか衣服も乾きにくい時期だし、そもそも衣服を着たまま水に浸かる趣味もない。
「クククッ。まあ、簡単には慣れないだろうさ」
散々たる有り様の俺を見て、壁を背にしたままポーロが笑う。その隣のレイモンは「懐かしいな」と頷いていた。
先日、リタとの勝負に圧倒的敗北を喫した二人である。女性に負けて意気消沈するかと思っていたが、そんなことはなかった。むしろその逆で「あの一撃に惚れた」などと言い出す始末だ。本当にこいつらの思考は理解出来ん。まあ、そういう趣味だということにしておこう。
「ま、俺だって最初は失敗ばかりだったからな。使えなくても守備に回れば問題ないだろ」
「まあ……それはそうなんだが、何事も出来たほうがいいだろ」
「んじゃ、さっさと習得して返してくれよ。つーか、これから使うつもりがあるなら購入すればいいじゃねーか」
ポーロが肩を竦めつつ言った。その視線は、俺の足元に向かっている。
「明日にでも買いに行くさ。せっかく準備をしたんだ。お互い今日の仕事はもうないわけだし、ギリギリまで使わせてくれ」
そう口にしながら、俺はふたたび桶に脚を向けていく。その水面に靴底が触れた次の瞬間、沈むことを拒否するかのように浮力が生まれた。
「とっ――とっと」
しかし、それは不安定。まるで荒れ狂う海に翻弄される船のように、俺のバランスは安定しない。
「私たちから見ると楽しそうなのだけれどね」
必死の形相をする俺を見て、シャンディが一言。まあ俺も最初にそれを見た時には同じように思ったものだ。
俺は海面をまるで地面のように疾走するポーロとレイモンの姿を思い返す。普通に考えるのであれば、それは魔術でも使わなければ不可能な事である。それが魔術師以外でも出来るようになる代物と言えば、答えはひとつしかない。
魔石である。
通常よりも厚く作られている靴底。その土踏まず部分に仕込まれた魔石を起動させると、人ひとりが立てるだけの浮力が生じ、構造が特殊なのか、魔石により不安定な水面には奇っ怪な波紋が描かれる。まあ、魔導路のことなんて魔石師にでも任せておけばいいだろう。肝心なのは、それが有効に使えるか否かだ。
なんとか努力をしてみるが、現実は非情。ふたたび盛大な音を立てると、俺は水の中へと落ちてしまった。
「……ここまで来ると濡れることなんて気にならなくなるな」
ふたたび浸入してくる水分を感じ、俺は大きくため息をついた。
「さて、どれにするか」
あくる日、仕事明けにやって来たのは予定通りの魔石店。普段の生活で使うような一般魔石に冒険者たちが利用する戦闘魔石。そして、魔道具の類が並んでいる。その中でも眼につくのは、海辺ということで水に因んだ魔道具たちだ。先日、ポーロから試しに借りた『水上靴』もその中のひとつである。
とにかく、さっさと購入していざ練習だと思っていたのだが……。
「えらく種類があるな」
眼の前の水上靴コーナーを見回しての感想がそれだった。
性能はどれもほとんど同じ。違うのは外見だけである。
日常で使われるような一般靴から、全身鎧の鉄靴に仕込んだようなものまで。幅広い需要に対応出来る品揃えだ。
それほどまでに、こういった港街では広く普及しているものなのだろう。これまでこういった場所に長期間留まることがなかったので、見かける機会もなかったようだ。
「そうなると、革製だよな」
コボルト革で作られたブーツを手に取る。俺の足にはウーツ鋼の脛当てが着けられている。その下に履けるものとなると、自ずと範囲は狭まれてしまうだろう。
「イグニスさーん。こんなのとかどうですか。可愛いですよ」
そう言ってマルシアが見せてきたのは、動物を模した靴だった。どうみても男向けじゃない。
「そうだな。欲しいなら買えばいいんじゃないか。そんなに高くもないしな」
投げやりに答える。そんなのを俺がつけたら笑いものもいいところだ。
「うーん。でも私は近づく必要ありませんし……でも、可愛いから普通に使ってもいいかなあ。うん、買っちゃおう」
「……なんというか、魔石の無駄遣いだな」
「いざという時のために持っておくのもいいと思うわよ。まだまだここに居るのだし」
同じ様に水上靴を手にシャンディが口を開く。彼女は前衛も後衛もこなすオールラウンダー。確実に必要とは言えないが、使えるに越したことはない。そのことを自覚しているのだろう、マルシアが選んでいた見た目重視のものとは違い、質実剛健な冒険者らしいものを見繕っていた。
その流れで隣のシルヴィアも見る。やはりマルシアと似たように、可愛らしい意匠の物に眼がいっているようだ。
「欲しいものがあったらちゃんと言えよ?」
ポンと頭に手を置きながらそう言うと、シルヴィアはこちらをチラリと見上げ、嬉しそうに頷いた。
まだ時間に余裕があったため、気になっていた受け流し用の短剣を見に武具店に向かう俺たち。
「あ、どうもー」
その途中、運悪くぽんぽこ娘のペコに出会ってしまった。
一応、宿は同じなのだが、仕入れだの搬入だのと朝も早くから精力的に活動しているらしく、なかなか顔を合わす機会もなかった。特にアクアラングの兵士たちがやって来てからというもの、商機と見たのか、さらに遭遇率は減少。なんとなくホッとしていたのだが……。
「買い物ですかー?」
俺たちが担ぐ皮袋が気になっているのだろう、ペコは興味津々に口を開いた。
「ああ。水上靴を、な」
「水上靴ですかー。残念ですー。さすがに魔石は資格が無いと扱えないので範疇外ですねー」
「そうだな、実に残念だ」
以前の薬の件もある。こいつからはなにを売りつけられるか分かったもんじゃないし、先に買い物しておいて本当によかったと思う。
「それで、これからどこに向かう予定だったんですか-?」
「うっ!」
思わず唸ってしまった。次の目的地を口に出したら、眼の前の商人は途端に攻勢に入りそうだ。なんとか適当に誤魔化して――。
「これからイグニスさんの武器を見に行くんですよ」
脇から出てきたマルシアが代わりに答えやがった。
「それはいいタイミングですねー。何をご所望なんですか-?」
ペコの瞳の奥が怪しく光ったように見えたのはきっと気のせいだ。もしくは獣人族の特技だろう。そんなの聞いたこともないが。
「えーと、なんでしたっけ。ね、イグニスさん?」
「……受け流し用の短剣だ」
しぶしぶと俺は答える。最早、隠しようもない。
「それなら運びやすいですし、幾つかあったと思いますー。宜しければお友達価格でご奉仕しますよー」
グイグイと押してくるペコ。いつ友達になったんだ、いつ。それに友達は奉仕するもんじゃねえ。
「まあ、とりあえず武具店をまわってからな。……いいのが見つかるかもしれないし」
「そうですねー。それじゃ早速向かいましょうー」
そう言うや否や、俺たち一行にするりと入ってくるペコ。
「……なんでお前もついてくるんだよ」
俺のぼやきは聞こえなかったのか、はたまた聞こえていてなお無視したのか。ペコは取り合う素振りも見せず、率先して歩き出した。
結局のところ、いくつかの武具店を回ってみたものの、どうにもしっくり来るものはなかった。
そもそも俺にとっての短剣とは、投擲したり、魔物から戦利品を奪うときに使うものという認識だ。しかし、受け流し用の短剣となると話は変わってしまう。実際に使ってみないと分からない点が多く、いまいち決め手にかけてしまうのだ。そのため、とりあえず試しに安いものでも購入しようとしたのだが「そんなのを買うくらいなら、まずは私の商品を見て下さいよー」と耳元で何度も言われてしまい、結局なにも買わずに帰ってきてしまった。
「時間の無駄だったというか、なんというか……」
部屋に戻るなり、俺はため息をつく。これなら最初からペコの商品を見ていたほうが良かったのではなかろうか。
まあ、本来の目的である水上靴は手に入れているのだ、それで良しとしておこう。考えるだけ、余計に疲れる。
「とーいうわけでー、早速やってまいりましたー」
元気な声でペコがやってくる。その背に、身長の倍はあるだろう皮袋を背負って。
「……おい、どう考えても短剣だけじゃすまないだろ、その中身」
「はい、まずはこれですよー」
相変わらず聞く耳もたず、ペコはガサゴソと皮袋をあさり始める。逆に皮袋に食べられているように見えるのが滑稽だった。
「じゃじゃーん。受け流し用の短剣ですー」
「いや、それは分かっている」
床に次々と並べられていく短剣たち。しかし、武具店で学んだ通り、それらの良さは使ってみなければわからない。
「基本的に持ちやすく、落としにくいのがいいですねー。これなんかイグニスさんの手に馴染むかと思いますー」
そう言って薦められた短剣を、実際に手に取って見る。それは俺がよく使うような使い捨ての短剣に似ていた。逆に、武具店で見てきた代物は装飾に凝っているものが多かった。
「確かに、使いやすそうだな」
軽く振り回して具合を確かめた俺は、意外にもペコの言葉通りだったことに驚く。
「素材はウーツ鋼で、お値段は金貨一枚ですー」
「ウーツ鋼を使っていてその値段は安いな。……そんな価格で販売して、本当にいいのか?」
「ええ、もちろんですー。お友達です-」
思いの外、良心的で更に驚いてしまった。いったい何なんだ、この違和感は。
「それで、次の商品なんですがー」
続く言葉を聞いて俺は理解した。
ああ、これは――在庫処分だと。