第百四十四話 ぽんぽこ娘とあやしい薬
次の日の朝方には、雨は上がっていた。
しかし、快晴とまでは行かない。陽は雲に隠れ、どんよりと湿った空気が俺の頬を撫でていく。
「まあ、降らないだけマシか」
そんな空を見上げ、俺は呟いた。
「雲の流れからいって、このまま晴れそうですよー」
隣のペコがそれに応じる。
「……で、なんでお前まで居るんだ?」
俺たちの旅馬車の隣には、大型の荷馬車が停まっていた。その持ち主はもちろん、件の狸娘に他ならない。
中継都市でやる事はほとんどない。余裕があるなら、ギルドにでも寄って美味しそうな依頼をいただくのも有りだろうが、さすがに俺たちにそんな余裕はなかった。
そのため、さっさと街を出る予定だったのだが、どうやらペコも同じ考えだったようだ。時間は金と等しいと言うし、商人らしいといえばらしい。
「旅は道連れって言うじゃないですかー。どうせ、目的地は同じですしー」
「……初耳なんだが」
「ちゃんと言いましたよー。釣れない魚には興味がないんですねー。ひどい人ですー」
「……俺が悪かった。謝るから、そういうのはホント勘弁してくれ」
また変な噂を広げられてはかなわない。扱いは慎重にしないと酷い事になりそうだ。
……もう手遅れかもしれんが。
ペコの護衛たちと視線が合い、互いに苦笑い。手で軽く挨拶を交わし、出立しようと馬車に手を掛ける。
「あ、待ってくださいー」
御者台に飛び乗ろうとしたところに、ペコが制止をかけてきた。
「ん、何かあるのか? 面倒事や、回り道には応じんぞ。こっちは試験があるんでな」
「それはわかってますよー。はい、これどうぞー」
ペコは腰の荷物入れをガサゴソを探ると、紙に包まれた何かを取り出した。
「なんだ、これ?」
「昨夜は呑み過ぎたでしょうー。酔いに効く薬ですよー」
「……なんでそんな事知ってんだ」
「情報は大切に、ですー」
ペコは口元に指を当てると、片目を閉じて見せる。
昨夜は、俺が部屋に戻る頃には三人とも床についていた。朝に軽く話を聞いてみると、どうやら色々と騒いでいたらしい。そんな女子会の中には、眼の前の狸娘も混じっていたはずだ。その後に情報収集をしたとでもいうのだろうか。
「……お前は酒が得意じゃないのか?」
まあ、素面ならそれも可能だろう。
「えー? 大好きですよー。特にタダだったら大歓迎ですー」
下戸で呑んでいないのかと思ったが、どうやらその逆らしい。確かに、いくら呑んでも酔わない奴はいた。特にドワーフ族なんかは人知を超えているレベルだ。酒で酔わないのも何か悲しい気がするけどな。
「商人らしいお言葉だな。いくらだ?」
「私とイグニスさんの仲じゃないですかー。タダでいいですよー。戦闘の出来ない冒険者なんてお荷物でしか無いですしー」
なんか、さらっと毒を吐かれた気がする。しかし、そんな親密になった気は毛頭しないんだが……商人の考える事はよくわからん。タダというのも妙に怪しい気がする。
「まあ、ありがたく頂いておくか。それじゃ、先に行くぞ」
「はいー。お供いたしますー」
ここで突っ立っていても、無駄に時間を浪費するだけだ。考えるだけなら馬車の上で出来る。
「何だか、考え方が商人らしいな」
俺はぼやきながら手綱を取り、ユニコルニスに指示を出していった。
ペコの見立てはあっていた。
今の俺は、頭が少し重い。どう考えても、原因は昨夜の深酒に他ならなかった。
戦闘に支障はない。朝方に少し身体を動かしてみたが、集中すれば何の問題もなさそうだ。だからと言って、馬車に乗ってのんびりと過ごすには若干障る。
しかし、ふたたびラタと出会ってから俺のペースは狂いまくりだ。あいつはいったい何がしたかったのだろうか。冷静に考えてみると、本当に挨拶をしに来ただけにも思えてくるから恐ろしい。
……おまけにあいつ、金払わずに出ていきやがった。もしかしたら嫌がらせなのか?
「まあ、とりあえず飲んでみるか」
手にある紙の包みを開くと、中から出てきたのは粉末状にすり潰された何かの粉だった。それを口に含み、水魔石を使って流し込んでいく。
……苦い。薬というものは総じてこんなものだと思うが、出来ればお世話になりたくないものだ。
「なにを飲んでいるのかしら?」
そんな俺の姿を見かけたシャンディが声を掛けてくる。
「ん、宿酔に効く薬だそうだ」
ひらひらと残り紙を振りながら答える。
「あら、そんなにお酒が残っていたの? いつもと変わらないから気づかなかったわよ」
「わざわざ表に出す必要もないだろ」
「まったくもう。相変わらず強がるわね」
やれやれと笑みを向けるシャンディ。
「それじゃ、甘えさせてくれるのか?」
「ふふ、お望みのままに」
そう言うと、シャンディは背中から手を回し、俺の頭を抱えた。次にやって来たのは柔らかい感触。どうやら、自らの胸に導いたようだ。
「どう?」
「ああ、ずいぶんと楽になったよ」
「それは薬の所為じゃなくて?」
「さて、どうだかな」
ユニコルニスが不満気にこっちを睨んだ気がするが、たぶん気の所為だろう。
眼の前にはゴブリン。一体ではなく、数えるのも面倒な数だ。
突きつけられる鈍色の武器。それは殺意を伴い、俺へと襲い掛かってくる。
しかしそんなもの、いままで相手にしてきた敵と比べれば、まるで歩いているような速度だ。遅い、思わずあくびが出るぞ。
――ハハハッ!
その全てを躱しきると、俺は笑いながら剣を振るっていく。
高揚感。
一撃は血風を巻き起こし、敵を無慈悲に屠っていく。その剣閃を避けるすべはなく、ゴブリンたちは次々と大地にひれ伏していった。
いくつもの断末魔の叫びが生まれ、やがて静寂が世界を覆う。
赤に染まる大地に一人、俺は立っていた。血に濡れそぼる片手半剣が陽光を浴び、怪しく煌めく。
そのまま、ひとしきり笑い声を上げると、不意に空の青さが眼に入った。
そこで正気を取り戻す。
「……何をやっているんだ、俺は」
呟く俺の髪を、緩やかな風が揺らしていった。
「やっぱり、副作用が出ましたかー」
遠く離れた小さな呟きを、俺の耳は聞き逃さなかった。我ながら感覚強化も使わずによく聞き取れたものだ。
俺はギギギと、まるで滑りの悪くなった扉を開けるような動きで、声の主へと振り返る。その視線の先には、あっけらかんとしたぽんぽこ娘の姿があった。
それを認識するや否や、生体活性もかくやという勢いで走り寄ると、高みから射抜くような視線を落とす。
「どうしましたー?」
小首を傾げ、いけしゃあしゃあとペコが言う。
「……お前、俺に何を渡した」
「え、お薬ですよー?」
「……今、副作用がどうとか言ってたよな」
「意外と耳が良いんですねー」
感心したように呟くペコ。いや、少しは悪びれろよ。
「商人のタダは裏があるって、常識じゃないですかー」
「お前たちの常識を一般人に押し付けるな!」
「でも、思っていたよりは軽かったみたいですし、後遺症の心配はないですよー」
「あったら困るわっ!」
俺は脱力してしまう。キリがないぞ、この会話。
これ以上話すのは無駄だと判断し、俺は踵を返していく。背後からペコが「もっと良いのが有りますよー」などとほざいているが、一切無視だ。
そのまま自分の馬車へと戻ると、中から三人娘がこちらを覗き見ている事に気づいた。皆それぞれ、心配をしているような表情を浮かべている。
「悪いが、魔石の回収を頼めるか?」
そんな彼女たちに、俺は声を掛けた。
「それは良いのだけれど、大丈夫? なんだか、様子がおかしかったように見えたわよ」
「そうですよ! なんかこう、自分の世界に浸っていたっていうか……」
シャンディの言葉にマルシアが続き、シルヴィアが同意するように小さく頷いた。
「ああ、もう大丈夫だ。特に心配をするような事じゃない。がめつい商人の実験に付き合わされただけだからな。……それはともかくとして、この装備を洗わない事には馬車にも入れやしない」
手を広げ、自らの身体を示す。
武器だけではなく、俺の全身はゴブリンの血に塗れていた。いつもであればこんな事はあまりないのだが、今回ばかりは相手の殲滅しか頭になかったため、今までで一番酷い状態だった。やはり、あの薬は危ない。原材料はいったい何なんだ。
「あら、刺激的なお姿ね」
魔石の回収を終えて戻ってくるなり、俺を見たシャンディが口を開いた。
ウーツ鋼装備に付着した血痕を濡らした布で拭き取り、中の服を取り替えていた最中。つまり、今の俺は上半身裸だった。
「…………」
珍しく、無言のマルシア。明後日の方向に身体を反らし、チラチラとこちらを窺っていた。
「……なにしてんだ?」
当然、俺は問う。
「いきなり裸になっていれば当然の反応ですよ! こっちが恥ずかしくなってくるじゃないですかっ!」
「今更なに言ってんだ。既に見慣れているだろうに」
「それはそれ、これはこれ、です!」
マルシアが大きな声を上げる。いったい何が違うのかがよくわからん。
「しかし、参ったな。中も酷いものだ」
ウーツ鋼装備とズボンは辛うじて問題ないのだが、中の服は完全に洗わないとダメだ。幸い、馬車を手に入れてからは荷物の運搬も楽になった。替えの服もいくつかは積み込まれていたのだが。
「私はそのままでも一向に構わないわよ」
「……私も、です」
シルヴィアとシャンディは特に俺の状態を気にしている様子はない。やはり、異質なのはマルシアの方で結論がついた。
氷天の季節ならともかく、芽吹きの季節も中ほどを過ぎた今では、この状態でも凍えるような事はない。むしろ、ちょうどいいくらいだ。
「まあ。街じゃないんだし、問題もないか」
それじゃ、言葉に甘えるとしよう。マルシアの反応も面白いしな。何かあっても感覚強化で予め知っておけば準備も容易い。
俺は馬車の中に戻ると、出っ張りに水魔石で洗った服を引っ掛けていく。
「でも、男の人はいいわよね。そうやって簡単に脱げるんですもの」
外からシャンディの声が届く。それを聞き、俺は幌から顔を出した。
「ならお前たちも遠慮せずに――って悪かった。謝るから止まれっ」
その言葉を聞いたシルヴィアが服に手をかけ始めたので、慌てて制止をかける。今のは冗談にしても笑えなかったな、反省しよう。
「……はい」
服から手を離すと、シルヴィアは残念そうに了承した。
……なぜ、そんな表情をする。