第百四十三話 英雄と魔王
――ガタッ!
理解するや否や、俺は勢い良く立ち上がった。
蹴り飛ばされた椅子が、音を立てて転がっていく。静かな世界に突如生まれた大きな音。
とっさに腰に手を伸ばしたが、そこには何も存在しない。いつもであればそこにあるはずの片手半剣は宿の中に置いてきていた。
……しまった。
街中で刃傷沙汰などもっての外であるし、そもそも武器など無くても有事の際は契約能力で十分と思い、油断していた事もある。
いや、例え武器があったとしても、焼け石に水だろう。目の前の相手には全く刃が立たなかった事を思い出し、俺は次策を練る。
逃走。頭に浮かんだのはその言葉。
俺は眼球だけを動かし、外へと続く扉を見る。出口までは生体活性・脚で一瞬に到達できる距離だ。
このまま闘っては、確実に周囲を巻き込む事態になるだろう。ここの客全員が冒険者であれば、いけなくもないかもしれないが、例えそうだとしても俺と同様、武器を携帯している可能性は低い。それに事情にも通じていない。こちらから仕掛ければ俺が元凶であると認識しそうだ。
故に、まずはこの場を切り抜けなければ。
俺は脚に意識を集中していく。予備動作に気付かれないよう、慎重に。
「――少しは落ち着いたらどうです? 周りの方々が驚いていますよ」
力を爆発させようとした瞬間。悠然と席に佇みながらこちらを見ていたラタが、俺の考えを見透かしたかのように口を開いた。
その一言で我に返ると、辺りに意識を飛ばす。気づけば、周囲の視線が俺に突き刺さっているではないか。
無言の重圧。それが、俺の背中にどっと伸し掛かる。
「貴方をどうにかしようとするのであれば、既に仕掛けております。私の力は貴方自身が一番ご存知かと思いますが」
確かに、奴の言うとおりだ。先ほど入り口からこちらに向かってくる際、無防備な俺の背中に一発叩き込めばそれで済んだ事だろう。いや、わざわざ中に入ってくる必要も無いはずだ。周囲を丸ごと巻き込んで叩き潰すぐらいのことは簡単に仕出かしそうである。
警戒はそのまま、俺は床に転がった椅子を立てなおし、ゆっくりと腰を下ろした。
しばらくの間。
魔術師は何事もなかったかのように店主に酒を注文していく。その光景さえも、なんだか腹立たしい。
「……確かラタ、とか言ったな」
周囲の視線から解放された事を確認すると息を整え、俺は話を切り出した。まずはコイツの目的の確認だ。
「おや? これはこれは。名前もキチンと覚えていてくださったのですね、光栄です」
ラタがこちらを向いて、一礼する。
「……何をしにきた」
「お酒を頂きに」
「――ふざけるなっ!」
思わず声を荒らげてしまい、しまったとばかりに慌てて口を閉じる。
――カタン。
俺とラタの間に、酒の入った器が置かれた。その勢いはやや強い。これ以上騒ぐなら出て行け、と言う店主の意思表示だろう。
「……すまない」
店主に向けて一言謝ると、自分の酒を煽る。
それを見て、ラタがふっと笑う。誰のせいでこうなってると思ってんだ、こら。
「正直に申しますと、特に御用はありません。貴方をお見かけしたのでご挨拶にと思った次第で」
「……王都じゃなく、こんな中継都市で見掛けたなど偶然としては出来過ぎだろ」
「思っていた以上にクラインハインツ家の動きが早かったもので、しばらくはオッドレストには戻れないのですよ。そのため、この辺りをブラブラしていると言う訳でして……いやはや、流石です。なかなかの情報網をお持ちのようですね。まあ、私も少々目立ち過ぎたわけですが」
ラタはカウンターに向き直ると静かに器を傾け、酒を味わう。
「ふむ、懐かしいですね。この味は」
「……お前の話を俺が素直に信じるとでも本当に思っているのか?」
俺と同じような感想を吐かれ、若干の苛立ちが混じる。こっちは気を張り続けているため、酒を嗜む余裕なんてありゃしないのに。くそっ、平和な時間を返しやがれ。
「事実は事実。貴方が信じようと信じまいと、それは変わりません。無駄な問答は時間を浪費するだけですよ」
「……ならば何故、挨拶などしに来た? まだ襲撃に来た方が理解しやすいぞ。俺たちの所為でお前たちの計画は潰れたんだからな」
ラタはため息をつき、器を置いた。
「やはり勘違いをしていらっしゃいますね。あの時も申した通り、私はただの協力者。対価分の働きをしたに過ぎません。言うなれば、貴方たち冒険者が依頼を受けたようなもの。その結果に興味がなかった……とは申しませんが、それよりも興味を惹くものを見つけてしまった現在、その事に関しては最早どうでも良いことなのです」
「……」
俺は半信半疑で黙り込む。とりあえず、現時点で攻撃を仕掛けてくる気がないのは確かなようだ。油断はできないが。
「色々と調べさせていただきました。貴方の経歴などを、ね」
「俺のことを調べた、だと?」
冒険者のレベルや基本的な能力程度なら、ギルドにいけば情報は幾らでも手に入るだろう。依頼をする上で必要だからだ。しかし、コイツがその程度で満足するとは思えない。
「……どこまで調べた?」
ラタは俺の能力に興味を持っている。それは直接闘った際のやりとりで理解している。他の事ならともかく、精霊契約について知られていたとしたら厄介な事になりかねない。
とにかく、探りを入れてみるしかない。
「勝手に調べたことについては謝罪いたします。しかし、貴方は実に面白い。三年目までは普通の冒険者と変わらず、特出すべきものは見当たりません。そしてその後、膨大な時間の伸び悩み。ここまで来れば、誰もが興味を失う事でしょう」
ラタは一度話を切り、酒で喉を潤した。
「――しかし。ここ最近、まるで別人のような成長を遂げています。この一年間で二つのランクを駆け上がり、更には昇格試験の最中だとか」
実に楽しそうに言葉を紡いでいく。まるで魔石師が魔石について語るかのように。
「もちろん、今までにもそういった方々は何人もいらっしゃいます。ですが、その能力と言い、突如開花した才能と言い……ここ一年。貴方の身に何が起こったのか、実に興味が尽きません」
「……素直にしゃべるわけがないだろう」
俺はラタを睨む。しかし、さらりと受け流す相手の前では、そのような抵抗も無駄でしかなかった。
「ええ、わかっております。知識は財産。簡単に得られるものなど、たかが知れています。その答には、いずれ自ら辿り着きましょう。さらに言うのであれば、能力だけではなく、貴方自身にも興味はあるのですけどね」
「……残念だが俺は全く興味がない。遠慮願おう」
にべもない返答に、ラタは肩を竦ませる。
「つれないお言葉ですね。私に興味はなくとも、英雄や冒険王には興味がお有りになるのでは?」
「お前と何の関係がある?」
意外な言葉に眉をしかめる。コイツが英雄だの冒険王だのを語るような奴には見えなかったからだ。語るとするのであれば、大魔導師あたりが相応な気がする。
「英雄には魔王。冒険王には黒竜。あれらの伝説は、相応の相手が居たからこそ成り立った、とは思いませんか? どんなに大きな力があろうとも、それを示す目的がなければただ腐っていくだけです」
「……お前は魔王にでもなる気か?」
「そうですね。貴方が英雄を望み、その資格があるのであれば」
俺はこめかみを押さえる。眼の前の相手が賢才なのか馬鹿なのかわからなくなってきた。
コイツの言いたいことはなんとなくわかった。つまり、自分に見合うだけの実力を持った相手を探しているわけだ。なんだそれ、ただの戦闘狂じゃねーか。とばっちりもいいところだ。力試しなら最高ランクの魔物にでも挑んでくればいいものを。
「とんだ買いかぶりだな。そんな話がしたいのであれば、現在の最高位冒険者にでも当たってみたらどうだ」
ランクの最高位はレベル10。しかしこれは、冒険王のためのランクであり、誰にも辿り着けない境地でもある。
狭い世界で生きてきた俺にとっては、今の高ランク冒険者などほとんど知らない。しかし、少なくとも俺なんかより上はまだまだたくさん居るだろう。現に、レベル6冒険者には既に知り合っているのだ。
「確かに。実力で言えば、貴方などまだまだ芽を出したばかり。しかし、そこらにいる高位冒険者など、私から見ればこの先枯れることがわかりきっている花でしかありません」
器の中身を飲み干し、ラタは席を立った。たった一杯。酒を呑みに来たなどとは言えない量だ。
「故に。期待しているのですよ、貴方には」
そう言い残し、後方へと遠ざかる足音。このまま追いかけたところで返り討ちにあうだけだ。実力が足りない。それこそ、アイツの言う相応の相手ぐらいの力がなければ。
とりあえず、後でクラインハインツ家に言付けておこう。俺に接触した時点でこの街に留まる気はなさそうだが。
手元の器に視線を落とす。
酒の表面に浮かぶは、自らの虚像。その姿は一介の冒険者にほかならない。
「……英雄ね」
中身の酒を一気に煽り、俺は自嘲の笑みを浮かべた。