第百四十話 第二試験と誘惑の朝
小鳥の鳴き声が俺の意識を浮上させる。
「ああ、朝か……」
ゆっくりとまぶたを開いていくと、飛び込んできたのはやわらかい光。ぼやける視界を辺りに彷徨わせつつ、俺は身体を起こしていく。
次の瞬間、違和感を覚えた。
いつもと違い、何故か体が重い。その原因を確かめようと首を回し、全身を確認していく。
身体は特に問題がない。
では何故かと言うと、今日の朝はいつもより肌寒い。ぬくもりを求めてのことか、いつの間にか俺の上にシルヴィアが覆いかぶさっていた。
頭を俺の胸の上に置き、スースーと寝息をたてている。
ほのぼのとしたその寝顔になんだか起こすのも躊躇われ、しばらくの間、動くに動けない俺がいた。
そんなシルヴィアの頭を撫でる。サラサラと流れる銀髪が手をくすぐっていく。
「相変わらず仲がよろしいわね」
そんな姿を見て、シャンディが声をかけてくる。
そう言えば、ベッドの上には俺とシルヴィアしか居なかった。既に起きて風呂でも入っていたのだろう。マルシアが見当たらないところを見るとシャンディが先に入っていたのか、それともこれから入るのだろうか。
「単に動けないだけ、だけどな」
「ふふ、そこで動かないからよ」
シャンディは微笑む。どうやら何を言っても無駄なようだ。
「……ん」
ようやくお目覚めか、シルヴィアが俺の上で身動ぎをする。
「おはよう」
「……ふぁい」
気の抜けた様な返答。こういう時のシルヴィアは、だいたい寝ぼけていると見て間違いない。
起き上がるシルヴィアに合わせ、俺も上体を起こしていく。
シルヴィアの動作は緩慢だ。頭も安定しておらず、風に揺れる葉のようにフラフラとしている。そして、そのまま俺の胸に倒れこむと幸せそうな顔で二度寝。なんだか、だんだんと駄目度が上がっている気がする。
「やっぱりイグニスの側が一番なのね」
フォローするようにシャンディが言う。
「……お陰でまた動けなくなったけどな」
この調子では、覚醒に至るまでにだいぶ掛かるだろう。
眠気覚ましに首を回しながら辺りの様子を確認していると、何とも言えない甘い香りが鼻をついた。この匂い……どこかで嗅いだことがあるような気がするんだが。
「これは香水か?」
シャンディに視線を向けて問う。
「あら、気づいた? その通り、昨日買ったものの一つよ。男をその気にさせる香水だって」
ああ、なるほど。そりゃ嗅いだことがあるわけだ。一年くらい前までは馴染みの匂いだったからな。
「そんなもん昨夜はつけてなかっただろ。つーか、なんで朝っぱらからそんな匂いを纏わせているんだ」
「同時に使っちゃったらどっちの効果かわからないじゃない。順番よ、順番。どう、その気になった?」
今度は含みのある笑みを向け、俺に近づいてくるシャンディ。新たな重みにベッドがギシッと音を立てる。
「……一日の始まりに体力を使わせようとするな」
呆れたように呟くや否や、抱きしめられた。シャンディ――ではなく、シルヴィアに。
いつの間にやら背に回されていた手に、ぎゅっと力が込められる。
「……んー」
「あらら、これじゃ私は撤退するしか無さそうね」
その言葉にホッとした気持ちと、少しだけ残念な気持ちが交じるのは……多分、正常なことだと思う。
「……シーサーペント、か」
俺は書類を見ながら呟いた。
眼の前には冒険者ギルドの受付カウンター。そこに座るギルド職員が、俺と同じように書類を手にしている。
口にしたのは、昇級試験の獲物の名。それが示す通り、海の大蛇だ。
船に乗ったことがある者なら、誰でも一度はその名を聞いたことがあるだろうという程に有名な魔物である。
マーナディアまでの航海を思い出して、俺の表情は歪む。
「海上戦闘は自信がないのだが……」
思わず、そんな言葉が口から漏れてしまう。
シーサーペント自体はそこまで強敵じゃない。では何故、それがレベル6となっているのか……その答えは場所が問題だからだ。
一部の例外を除いて、基本的な冒険者の活動領域は陸である。しっかりとした大地の上での戦い。その経験ならば腐るほど積んでいる。しかし……海となれば別だ。揺れる船上、安定しない足場。こみ上げる嘔吐感……想像しただけでも色々とやばい。
……風陣収縮あたりで頑張って浮き続けられないものだろうか。この際、誰に見られようとも構わない。あの苦しみと比べれば、他のことは些事である。
「あ、そろそろ雨期ですので、海上戦闘はないと思われますよ」
思考が暴走を始めた俺を見てある程度の事を察したのか、職員が説明を加えてくる。
「ああ、そうか! それならば……!」
雨期。アクアリザードしかり、水に関する魔物の活動が活発になる時期である。活動範囲が地上にまで及ぶ魔物も多数おり、その最たる例がシーサーペントだろう。
活動期のため、魔物自体の能力も上がってはいるのだが……船上で戦う事を考えれば、むしろありがたいとさえ言える。……実際に被害にあう街にとっては悪夢でしかないだろうが。
書類の一番上にある魔物の名を見て固まってしまったが、次の項を読んでみれば『街の警備』と記してあった。
「書類には警備と書いてあるんだが……これでは俺たちが単独で戦う事が出来ないんじゃないか?」
試験は指定された魔物の討伐。つまり、倒さなきゃならない。
「……それがですね。最近、雨期にもなっていないのにシーサーペントの活動が活発になっておりまして……既に幾つもの船が襲われています」
職員は受付の上に散らばる書類の中から一つを取り出し、俺に渡す。
その内容は襲われた船の数や被害状況。魔物の状態などの詳細が載っていた。
「現状ではアクアラングと協力体制を取り、周囲の警戒を行っているのでそこまで大規模な被害は出ていないのですが……これからは雨期に入ります。配備されている戦力では万が一の事態に対応出来ない可能性があります。そこで冒険者の皆様にも協力を仰いでいると言う訳でして」
アクアラング小国連合。それはマーナディアの南東に位置する、複数の島からなる国家群。ベリアント王国からも近く、長年友好国として付近の海域の警備に当たるなど、協力体制をとっていることで有名だ。海の事件なら当然出張ってくるか。
「となると、これは依頼……なのか? 試験ではなく」
「事態が事態なので、特例措置として試験という形にさせていただきました。もちろん強制ではありません。通常の試験を望まれるのであれば、それに合わせた形にさせていただきます」
「なるほど。それで、参加した場合のメリットは?」
書類を受付に戻し、俺は問う。
「第一に、通常の依頼と同様に報酬が出ます。そしてもちろん、イグニス様が倒した魔物の戦利品はご自身の物となります」
金額にもよるが、ただ狩りに行くよりは儲かると言う事か。
「第二に、魔物との直接的な戦闘にならずとも、相応の活躍が認められた場合は昇格を認められます。詳しい判断基準は現場のギルドにてお聞き下さい」
相応の活躍、か。まあ、襲撃があった際に共に戦えば問題ない程度だろう。多分。
「最後に、実力を示す機会が訪れなかった場合。もちろん、報酬は支払われますが、試験としてはこれで合格……と言う訳にはまいりません。誠に申し訳ないのですがこの場合、通常の試験に移行という形になります」
まあ、そりゃそうだ。ただ警備していただけで昇格です、などとなれば他の冒険者がいい顔するわけがない。
「少し、パーティの仲間たちと相談したいのだが……」
選択の余地がある以上、パーティとして相談しておかねばなるまい。試験と言うことで討伐対象を聞くだけで済むものだと考えていたのだ。
「状況が状況ですので、出来る限り早くに返答をいただけるとこちらとしても助かります」
「ああ、わかった」
俺は頷き、待ち合い席で談笑している仲間たちの元へと戻っていった。
「……と、言う訳なんだが」
海と聞いて、真っ先に顔がほころんだのがシルヴィアだった。
それに「雨期が過ぎれば炎天の季節ですからねー。ちょうどいいかもっ!」と同意するマルシア。既に遊ぶ気まんまんな様子だ。まだ雨期にも入ってないのにな。
まあ、その気持ちも分からないではない。マーナディアに来る際に海は見てきたが、季節は氷天。凍れる寒空の下では、どんなに綺麗な海だろうと遠慮願いたいものだ。
「私も異論はないわ。急ぐこともないわけだし、どうせなら炎天の海を満喫したいもの。それに……」
そこで言葉を切ると、シャンディは俺に近づき。
「イグニスだって、私たちの水着姿に興味あるでしょ?」
耳元で囁く。
水着。一般的なのは、雨具代わりにも利用されるアクアリザードの皮をつかった、水遊び用の衣類だ。……いや、衣類と言っても面積は少なく、ともすれば下着と何ら変わりのないような意匠の物まである。
当然、男たちの鼻の下も伸びわけで。
「そりゃ、健全な男なら誰だってそうだろ」
俺は素直に肯定する。否定する理由が見つからないからだ。
「こんな事もあろうかと、昨日の買い物で水着を選んでいた甲斐があったわね」
「……冒険者として、用意周到で何よりだな」
そんな訳で、俺たちのこれからが決まった。