第百十六話 馬と牧場
柵から顔を出した馬が、シルヴィアの顔を舐めた。
「ひゃうっ!?」
いきなりの事にシルヴィアは驚き、コテンと後ろに倒れこんでしまった。尻をついた大地には馬の足跡が刻まれており、すぐ近くから多数の馬の鳴き声や大地を駆ける音が聞こえてくる。
周囲には馬小屋が立ち並び、柵で囲まれた中を、様々な毛並みの馬が放牧されていた。そのうちの一頭が、俺たちに興味が沸いたのか、じっと此方を見ている。
「……大丈夫か?」
俺はシルヴィアに手を差し伸べる。
「……ふぁい」
眼の前に居る馬をじっと見つめたまま固まっていたシルヴィアは、俺の言葉にはっと顔をこちらに向けると、申し訳なさそうにその手を掴んだ。
俺たちの後方には色々な大きさの馬車が並び、出陣の合図を待っていた。その更に奥にはオッドレストの門が見えている。相変わらず、人の行き来は活発だ。そんなに離れているわけでもないのに、俺たちが立っているこの場所と比べ、えらい違いである。
ここは街間馬車の受付から奥へと進んだところにある牧場である。
ギルドから受け取った報酬で、俺の手元には以前手に入れたのと同じような大きさの宝石が更に一つ増えていた。お陰で馬車を購入したとしても、金は十分に残りそうだった。
とりあえず、門から真っ直ぐに牧場へと歩いてきたのはいいが、出迎えたのは馬ばかり。
最初は一頭だけかと思っていたのだが、気付くと二頭、三頭と増えていた。お前らはいいから、従業員あたりを呼んできてほしいものだ。
「お客さんか? こんなところまでどうしたんだ、受付ならあっちだが」
そんな時、ちょうど通りかかった壮年の男が声を掛けてくると、俺たちの後ろを指差した。
「ああ、いや。馬車に乗る為に来たんじゃないんだ。専用の馬車が欲しくてな」
その人物からそこはかとなく漂ってくる馬の臭いと客という言葉から、多分従業員だろうと目星をつけた俺は、ここに訪れた用件を口にした。
「へー、専用馬車か。あんた、結構稼いでるんだな。見たところ……高レベルになったばかりの冒険者、といったところかい?」
俺の言葉に男は驚いたようだ。
専用馬車を持つのは高貴な身分の人間か商人、あとは冒険者ぐらいなものだろう。一言で纏めるのであれば、要は金を持っている奴だ。俺たちは何処からどう見ても貴族には思えないだろうし、商売人特有の愛想の良さもない……そこそこの冒険者だろうと読んだ男の考えは正しい。
「ああ、あんたの言うとおりだ。……それで、馬車を購入するにはどうすればいいんだ?」
「おっと、そうだな。それならこの道を真っ直ぐ行くと、左っ側に大きめの建物が見えんだろ? そこに行くといいぜ」
手でその建物を指しながら、男が説明をしてくれた。
「すまない、助かった。時間を取らせて悪かったな」
「なに、今の時間は暇だから気にすんな。馬たちもそっちの嬢ちゃんを気に入ったみたいだし、時間があるなら遊んでやってくれても構わないぜ」
はっはっはと笑う男。どうやら先程の事も見られていたようだ。シルヴィアが恥ずかしそうに俺の後ろへと隠れていく。その行動に再び男は笑うと、手を上げながら受付の方へと向かっていった。
教えられた建物の前へと俺たちはやってきた。
入り口に掛けられた板には「御用の際はこちらへ」と書かれていたが、他の建物と比べても多少大きいだけで、遠目からでは他の建物とあまり区別はつかない。多分、従業員に言われなければ気づかなかっただろう。
俺は扉に手をかけ、ゆっくりと開いていった。古めかしい木の扉がギィと軋みを上げる。どうやら外側と比べ、内装はしっかりとした作りらしい。
冒険者ギルドと比べるとさすがに狭いが、似たように受付が設けられていた。そこにはぽつんと一人、座っている人物がいた。
それは、先程の従業員とそんなに変わらないような年齢の女性だった。
「お客さんかい? いらっしゃい」
俺たちに気づいた女性が顔を上げ、こちらに向けて挨拶をする。
「ここで馬車の販売をしていると聞いたのだが……」
俺は辺りを見回しながら言った。壁には馬の絵や、馬車に関しての詳しい事柄が書かれた板がところ狭しと並んでいた。
「ああ、そうさねぇ。他にも色々とやっているけど……購入が目的かい?」
「とりあえず、種類とその値段を聞いてから決めようと思っているんだが」
「わかってるさ。安い買い物じゃないんだ、しっかりと納得のいくものを選んでおくれ」
俺の言葉に「当然さね」と、女性は大きく頷いた。
「まあでも、お金が余ってるってんなら、一番高いのを買ってくれりゃこっちは助かるけどね」
そして笑いながら、更に言葉を付け足していく。
「さすがに……それは俺たちの身なりから察して貰いたい」
俺は頭を掻く。
「まあ、どんなものだって損はさせないさ。価格はこっちに書いてあるのを参考にしな」
そう言って、女性の手から渡されたのは値段表。馬の良し悪しは分からないので、そこは後で従業員の話を聞くしかないが、誰だって馬車の形くらいはわかる。一般的な街間馬車を中型だとすると、商人が使うような、荷物の運搬を主とする大型車。一番小さいのとなると、二人がけの席に小さな荷物を置くスペースが空いている程度のものもある。
もちろん、大きくなればなるほど高価になるわけだが、馬車自体の材質や乗り心地などに関する内装など、かなり細かく値段が設定されていた。
「……これは全て好み通りに出来るのか?」
あまりの細かさに迷ってしまいそうになる。
「好みのものを作るならオーダーメイドさね。そうなると時間が掛かるよ」
「……なるほど。それじゃ、この基本的なものなら直ぐにでも使えるようになるんだな」
細かいオプションは省くとして、基本と書いてある中に個人、小型、中型、大型と、四つの種類の馬車があった。
「ああ、そうさね。人気なのは大型。まあ、これは商売人がよく購入するから当たり前だけどさ。冒険者が購入していくのは小型が多いね」
「なるほど、それじゃ小型にするか」
皆が購入していると言う事は、冒険者の用途に合っていると言う事だ。変に凝るよりは実用的なのが一番だろう。
「えー。こっちの凄いのにしないんですか?」
マルシアが横から覗きこんでくる。そして、言葉と共に指を差したのはクラインハインツ家が使用していたような、豪華な作りの馬車だった。
「……値段を考えろ」
その馬車の値段は、基本的な小型車の十倍以上である。
俺の呆れ声が建物の中に響いていった。
「ぶるるっ!」
とりあえず馬車を決めた俺たちは、それを引く馬を選ぶことになる。
女性に先導され、再び外へと戻ってくる。すると、先ほどシルヴィアを舐めた馬がまた近づいてきた。
「なんだい、アンタたち。既に馬は決めていたのかい?」
その姿を見て女性が呟いた。
「そんな事はないが……何故、そう思ったんだ?」
「何故って、アンタ。そこの子がそう言ってるんだよ」
その言葉を不思議に思った俺は、辺りを見回した。しかし、近くには誰も居ない。そうなると考えついた結論は一つしかなかった。
「馬の言葉がわかるのか……それは祝福か何かか?」
「そんな大層なもんじゃないよ。ずっとこんな仕事してりゃ、気持ちの一つや二つ、見ればわかるもんさね」
馬のたてがみを撫でながら女性が言う。動物と会話が出来る祝福の話は聞いた事があるが、眼の前の女性は後天的にそれを身につけたと言うのだろうか。
「連れてって欲しいそうだよ。どうだい、この子を購入しないかい?」
「……それは本当にそいつの気持ちなのか?」
若干、訝しげに女性を見ていく。
体格はしっかりとしていて問題は無さそうだ。しかし、その馬は白毛に青目。記憶が確かならば、先ほどの表にはかなり高い値段が記入されていた筈である。
「確かに値段はそこそこするけどさ。反抗的な馬を掴まされるよりは、ちゃんと自分たちを好いとくれてる馬の方が良いんじゃないかい?」
「まあ……確かにそれはそうだが」
俺は顎に手を当て、悩んだ。
「いいじゃないですか。可愛いですよ、この子」
マルシアが差し出した手に、馬は顔を擦り付けてきた。
「そうね。毛並みも綺麗だし、元気そうでいいじゃないかしら」
シャンディも同意すると馬に近づき、身体を撫でていく。確かに見た目は中々のものだ。
そんな二人を見て、シルヴィアもゆっくりと近づいていった。すると馬は小さく嘶き、頭を下げた。
「撫でて欲しいそうだよ」
女性の言葉に、シルヴィアは恐る恐る馬の頭を撫でていった。最初はぎこちない手つきだったが、気持ち良さそうにしている馬に安心したのか、次第にそれも解けていった。
……まあ、確かに人畜無害そうである。三人とも気に入っている様子だし、こいつにするか。
俺も三人に習い、親睦を深めようと手を伸ばす。
それに気づいた馬は、顔をこちらに向けると――俺の手を思いっきり噛んだ。