第百十三話 黒竜と冒険王
目の前には黒い竜。
その姿は他に類を見ない程に大きく、黒い鱗が陽光を浴びてきらきらと輝いていた。その一枚一枚はウーツ鋼よりも固く、見るもの全てを焼きつくすような真紅の灼眼は、体内に炎を宿らせている証である。
人など簡単に丸呑み出来るであろう口腔を開き、辺りに咆哮が響き渡った。伝説に語られる武器の一つ、竜牙刀の材料にもなっている牙が、その存在を誇示するかのように俺たちに向けられていた。
圧倒的な存在感と恐怖。空気の震えが俺の身体を揺さぶっていく。
もし、この場に俺が居たとしたら、即座に逃走を計っていることだろう。
俺はわかっている。そう、コレは――夢だ。
いつもであれば、夢はそんなに見るほうじゃない。見たとしても忘れていることも多いが、偶にこれは夢だと実感することがあった。
夢の中で現実感を語るというのは愚かなことかもしれないが、微妙な差異に気づいてしまった時、俺はそれを認識する。
そんな中、俺の脇を抜け、黒竜に向かって疾走する人物が居た。全身を無骨な鎧で固めているが、その身のこなしは軽い。黒竜の咆哮をものともせず、尋常じゃない速度で走り寄っていった。
それは精悍な顔つきの青年。長年培った経験がにじみ出てくるようなその雰囲気は、歴戦の冒険者といった感じだ。
しかし、その青年の顔はどこかで見たような気がする。
霞がかった様に鈍化した思考を巡らせていると、黒竜は威嚇のような咆哮を止める。そして、顔を空に向けて大きく息を吸い込み、再び正面へと戻す勢いと共に火炎の息を吐き出した。周囲の大地が焼きつき、黒く焦げていく中、青年は盾を構えてじっと耐える。その猛火を正面から受け止めても盾に変化は見られなかった。余程の業物なのだろうか。
一方的な展開に横槍が入る。
飛んできたのは白く光る矢のようなもの。それは黒竜の鱗を易々と貫き、内部へと突き刺さった。
その攻撃に、黒竜は怒りを表現するかのように、大きな体躯を旋回させていく。
これには青年も後退せざるを得ず、離れた場所にて一旦態勢を立て直していった。
青年を補佐するように、その近くに居るのは彼の仲間たちだろうか。魔法銀装備で全身を固めた若い女性の剣士と、似たような歳頃の清らかな白のローブを纏う女性神官。老獪そうな黒衣の魔術師に、フードで顔を隠している人物と総勢五名のパーティだった。
そこまで来て、俺はようやく彼らが何者だか理解した。
青年は――若き冒険王ベリアント。かつて、王都ギルドで見た石像はもっと年を重ねた姿だったが、その面影はみてとれる。
そして傍らの女性剣士はシャロワ・マギ・オッドレスト。肖像画で見た絵姿そのまま、その眼差しは一直線に黒竜へと向けられていた。その他にも老魔導師ローランドや聖女アルターシャの姿もある。
……しかし、あのフードの人物だけはわからなかった。様々な冒険譚を持つベリアントである。その中に出てくる人物なのだろうか。もしくは、俺の夢がでっち上げた架空の人物なのかもしれない。
かつて、冒険王の竜討伐に憧れ、その場に居たいと思っていたガキの妄想。そう思うと、なんだか途端に恥ずかしくなってきた。その人物のことは一先ず置いておいて、伝説に語られる勇士たちと黒竜の戦闘を見物させてもらうとしよう。
結果など既に後世の歴史が伝えているが、言葉ひとつで説明されるのは味気ない。俺の想像力がどこまでのものかも楽しみである。
再び、戦闘が開始する。
先陣を切ったのは、先程の白い光の矢と、それに対を成すような黒い光の矢。二つの矢が同時に黒竜へと襲い掛かる。
黒竜は再び咆哮。それと同時に背中から生えている翼を大きく広げ、一気に羽ばたかせた。そこから生み出された突風は、矢の侵入を拒むかのように、その軌道をずらしていった。
猛る風に辺りの木々が根本から吹き飛び、その中へと巻き込まれていく。一帯には抗い難い暴風と、恐ろしい勢いで襲い掛かる木々の暴力が混在し、侵入者を拒むかのように踊っていた。
そこに突撃する二人の姿。その先頭を駆けるのはシャロワ・マギ・オッドレスト。魔術による障壁でも張っているのか、風の影響は全く見られない。その後ろには若き冒険王が続いていく。
黒竜から少し離れた位置でシャロワが足を止め、そのまま前へと剣を突き出した。すると、まるで空間を裂いていくかのように、吹き荒れる風が左右に別れていく。
眼の前のシャロワを飛び越えるようにベリアントが跳躍。飛び上がった高度は常人の比ではなく、俺が生体活性を使ったとしても到達出来ない程の高さだった。
ベリアントが何かを叫ぶ。その声は確かに俺の耳に届いている筈なのに、何故だかその意味は理解出来なかった。
その言葉を聞いて、フードの人物が動いた。
外套から両手を付き出し、左右へと広げる。その全身が白く光り輝き始めたかと思った次の瞬間――俺は目が覚めた。
窓から光が差し込んでいる。
それは先程の夢で見たような輝きとは打って変わり、黒竜の炎を思い出すかのような赤に染まっていた。
陽はだいぶ傾き、既に夕刻の様だ。前日から夜が明けるまで騒ぎ、更には酒がかなり入っていた。その為、どうやら熟睡していたようだ。
ゆっくりと身体を起こすと、体の調子を確かめる為に腕を回していく。よく寝たからか、調子は悪くなさそうだ。
「おはようございます」
そんな俺に、隣でちょこんと座っているシルヴィアが声を掛けてきた。その様子から俺が起きるのをじっと待っていたのだろうか、なんとも物好きなものである。
「ああ、おはよう」
「遅いお目覚めね。今年初めての夢はどうだったかしら?」
シルヴィアの声で俺が起きた事に気づいたのか、テーブルで本を読んでいたシャンディが俺の方を向く。
「ん、そうだな……なんとなく目標の再確認が出来た、かな」
「あら、目標って何かしら。少なくとも私は聞いたことがないのだけれど」
興味深そうにシャンディは問うてきた。
「……いや、口に出すほどの事じゃないさ。それに、口に出した所で達成出来るようなものでもないしな」
「どうやら壮大な目標みたいね。身の丈を考えるのもいいけれど……」
そう言ってシャンディは俺をじっと見つめてきた。
「大きな目標に向って邁進する男の人も素敵よ。ね、シルヴィアちゃん」
「はい」
シルヴィアも同じように俺を見つめ、こくりと頷く。
何となくその頭を撫でてみる。そんな姿を見てシャンディは「ふふっ」と笑みをこぼした。
「何を笑っているんだ?」
「二人を見ていたら和んじゃって、ね」
俺がシルヴィアの頭を撫でるのは、そんなに可笑しい事なのだろうか?
シルヴィアの頭から手を離し、俺は大きく欠伸をした。どうやら、まだ眠気が残っているようだ。
「なんだかまだ眠そうね。お風呂にでも入って眼を覚ましてきたら、どう?」
「……そうだな。とりあえず、さっぱりしてくるとするか」
ゆっくりとベッドから降りると、風呂に向かいながら肌に纏わりついている衣服を脱いでいく。今まで夢の中だったので、俺の服装は薄い上下の寝間着だ。部屋にはもちろん暖魔石もあるが、ベッドの毛布も上質で厚く、こんな姿でも寒さは感じない。
シャンディは「いってらっしゃい」と言うと、再び本に眼を落としていった。
さっさと全てを脱ぎ去り、俺は風呂の扉を開く。その中から押し出されるように湯気と。
「きゃーっ!」
絹を裂くような声が聞こえてきた。
そして、俺に向かって飛び掛かってくる桶。俺はそれを正面からまともに食らってしまった。桶は額に見事に命中した後、コーンという音を浴室に響かせて足元に転がっていく。
その軽い痛みに、俺は顔を手で覆った。
やがて湯気が減少し、周りが確認出来るようになると、そこに居たのはマルシア。驚きのあまりか、わざわざ湯船から立ち上がり、両手を交差させて胸を隠していた。
「なっ、なっ、なっ! なにをいきなり全力で扉開けているんですか!」
「……すまんな。お前が入っているとは思わなかった」
とりあえず中を確認せず、いきなり扉を開けたことは詫びておく。
「しかし、なにをそんなに慌てているんだ。……以前はお前の方から男湯に入ってきたじゃないか」
俺は頭を掻く。マルシアが慌てている理由がよくわからなかった。
「それはそれ、これはこれですよ! 心の準備というものがあるじゃないですかっ!」
「……今更、見慣れているだろうに」
まあ、見慣れたと言っても、男であれば女性の体に見飽きるという事はないだろう、多分。その確認も含め、マルシアの身体をなんとなしに見つめていく。
「とにかくっ! 出て行ってください!」
二つ目の桶に手をかけるマルシアに見ると、俺は扉を閉め、急いで撤退した。
……一体何だと言うんだ。
「あら、お早いおかえりね。眼は醒めた?」
シャンディは微妙な表情を浮かべている俺を見て取ると、可笑しそうに笑った。
「お陰様ではっきりと、な……いらない痛みも貰ってしまったが」
額をさする仕草をして、シャンディに無言の抗議をする。
「ごめんなさいね。面白そうだったから、つい。お詫びに、私が背中を流そうかしら?」
シャンディは謝罪の言葉と共にウインク一つ。
「ありがたい提案だが、既に上がった後だろ?」
ほとんどの場合、俺たちの中で一番早く起きるのはシャンディである。その結果、風呂に入るのが一番早いのもシャンディだった。
「あの……私、まだです」
そこにシルヴィアが口を挟んできた。
「ふふ、どうやらご指名の様ね」
シャンディが再び俺に笑いかける。
「そうだな。まあ、ついでだし、一緒に入るか」
小柄なシルヴィアなら、そこまで邪魔にはならない。
その後、マルシアが浴室から出てくるのを待った俺は、シルヴィアと二人、ゆっくりと風呂に浸かっていった。
マルシアはむうっと顔を膨らませていたが、食事をとった後にはその険もとれていた。
よくはわからないが、平和なのは良いことだと思っておくことにしよう。