第百九話 余裕と実力
中空の人物は他の魔術師たちと同じローブを着こみ、まるで夜の世界を自らのものにするかのよう佇んでいた。
顔をフードで覆い、薄暗い月明かりの中ではその顔は確認できない。
「いやいや、見事な襲撃です。魔法陣にもまだまだ改良の余地がありますね。実に参考になります」
その者は他の魔術師たちと何処か違う雰囲気を纏い、悠然と言葉を発した。その姿はまるでこの現状を楽しんでいる節すら感じられる。
「まさか魔法陣を無効化して襲撃を仕掛けてくるとは、些か驚きましたよ」
ゆっくりと下降しながら魔術師は言う。その声色から男だと察しがつくが、分かるのはそれだけだ。
「リーゼロッテ! アンネローゼを連れて離れていろ!」
男から視線を逸らさずに俺は叫ぶ。その言葉に了承したのか、二人が離れていく気配を感じた。
「……お前は何者だ」
俺は魔術師をじっと睨みながら問う。こんな状況にも冷静なのは相応の実力があるのか、他に策を用意しているのか。どちらにしろ、油断していると痛い目を見ることになりそうだ。
「これは失礼。私は……そうですね、ラタとでもお呼びください」
自らをラタと称する魔術師は、言葉に合わせてゆっくりと一礼する。
「名前を聞いているのではない……お前がこの誘拐の主犯格か?」
「これはこれは、異なことをおっしゃりますね」
心外といった感じでラタが返す。
「私はあくまで裏方。一連の事件はこの国の魔術派、その一部が自ら進んで行った事に過ぎません」
「……自分はそうではないとでも言いたいのか?」
「ええ、私は貴族ではありませんし、バイルシュミット伯爵に師事していたわけでもありません。ただの協力者ですよ」
「協力? ……何を見返りにそんなことをする」
「そうですね。お金の為、とでも言えば信じてもらえますか?」
「……至極真っ当な理由だな。少なくとも魔術師だから偉いなどと言う理解し難い理由よりは余程、な」
しかし、それはあからさまに裏があるという態度に見える。
「なんにせよ、お前を捕まえればはっきりとすることだろう」
片手半剣の先端をラタに向かって突きつける。
「中々の自信ですが……果たして出来ますでしょうか、貴方に」
まるで挑発するかのようにラタは手を広げていった。
「どの道、ここで出てきたのであれば逃す気などないのだろう?」
「いえいえ、既にこの計画は潰えています。勝手に逃げるのであればお好きにどうぞ……と言いたいところなのですが、少しあなたに興味が湧いてしまいましてね。私と少し遊んで頂けませんか?」
そう言うと、ラタは何やら大きめの本を取り出す。それは手から離れ、ゆっくりと浮かび上がるとページがパラパラと捲れていった。
見た目こそ本と言う形を取っていたが、その中身は何も書かれていない真っ白なページで埋め尽くされていた。
「……何をしている?」
「ふふ、それは見てのお楽しみです」
その言葉と共に本が見開いた状態で停止する。
「それでは行きますよ」
次の瞬間、本が光り出すと空中に大きな文様が描かれた。そしてその中心から炎が生まれると、俺へと襲い掛かってくる。
「なんだとっ!?」
風陣収縮!
慌てて風膜を纏う。一瞬遅れ、炎が俺を包み込んでいった。
……どういう事だ。詠唱なく魔術が発動しただと。
「手荒い挨拶だな。ならば遠慮はせんぞ」
内心の動揺を悟られないように声を張ると、一気に駆け出した。疾駆する俺が生み出す風に炎が踊っていく。
そのまま炎を掻き分けると、ラタに向けて突きを放つ。片手半剣が身体に吸い込まれていく様に見えた瞬間、まるで侵入を拒むように剣先が止まってしまう。
「なにっ!?」
俺は目を見張った。
再び、本を中心として空中に円形の文様が描かれ、今度は俺の風陣収縮と似たような防壁が展開されていた。
弾かれたように俺は後退する。あれの正体を確かめないことには迂闊に飛び込めない。
「あの程度の炎では止められませんか。なるほど、これは厄介ですね」
「攻撃に加え、防御もだと……一体、それはなんなんだ」
「何を言っているのですか。ただの魔法陣ですよ」
そもそも魔法陣が見えるだなんて初めて聞いた。俺の知っているのはよくわからん魔力溜まりのような空間だということだけだ。
「なるほど。どうやら、可視化されるほどの魔法陣は見たことがないようですね。なに、簡単な事です。魔法陣とは決められた流れに沿って魔力を流すもの。それに必要な魔力が高ければ高いほど、目に見える光もまた強くなるのですよ」
俺の狼狽振りを見て、ラタが得心いったように頷く。
なるほど、どうやらご自慢の技らしい。懇切丁寧に解説してもらって助かる。詠唱がないのもその所為か。
後はそれを破る方法だ。魔法陣も魔力を消耗するはず……ならば、魔力切れを狙うのが確実だろうか。
「なるほど、状況を鑑みて待ちを選択しますか。実に賢明です。それでは、再びこちらから行かせてもらう事にしましょう」
動かず様子を窺っている俺を見ると、ラタは呟き、再び本が捲れ始める。
今度は上空に向かって魔法陣を展開。闇夜に煌く魔法陣は認識できるが、朧な月明かりの上空では何が起こっているのか視認できない。
やがて、天空から何かが降り注いでくる。
――氷の雨か!
それは広範囲に渡る突然の驟雨。確認できるようになった時点で既に避けようがなく、俺は再び風塵収縮でその身を守っていくしかなかった。
氷の一つ一つはそれほど大きくはないが、かといって無視できるほどの小ささでもなく、躱すほどの隙間も少ない。
くそっ、厄介な魔術だ。
「氷が触れそうになると弾かれる……なるほど、風の技ですか。それは祝福でしょうか? 珍しいものをお持ちのようですね」
ラタは冷静に俺の能力を観察しているようだった。マズいな、この分だと使用できる魔術の種類も多そうだ。
「ならば、これはどうでしょうか?」
本が下向きにパラパラと捲られていく。すると今度は地面にラタを中心とした魔法陣が展開されていく。
しまった、地上からの攻撃か!?
以前、岩槍に苦戦した経験を思い出す。俺は慌ててその場を引こうとするが、それを許す時間はなかった。
周囲がミシミシという音を立て、何かが俺に覆い被さってきた。いきなりの事に、地面に膝をついてしまう。まるで何者かが俺の背中を押さえつけているかのようだった。動き出そうにも、この状態では満足に立つことすら儘ならない。
「ふむ、これならば風ごと圧し潰せると。なるほど、直接的な攻撃をしなければ問題はないみたいですね」
状況はどう見ても劣勢。ラタが何故か観察に徹しているから助かっているものの、相手は明らかに格が違った。
……道理で遊びなどと宣うわけだ。しかし、このまま黙ってる気など毛頭ない。
生体活性・脚!
俺は強化した脚で強引に立ち上がっていく。これならば、なんとかこの魔術に対抗できそうだ。
「……これは驚きました。この魔術の中で立ち上がるとは」
しかし、ラタに動揺した様子は見られない。
魔術の所為で普段より何倍も重い片手半剣を地面に引きずるようにしながら、俺はラタへと駆ける。まずはなんとかこの魔術を解除させなければならない。
「それは肉体強化の魔術ですか? しかし、詠唱した素振りは全くみられない」
未だに何やら観察しているラタに向かい、なんとか片手半剣を地面から切り上げる。
それは当然の如く遮られるが、俺の身体を覆っていた重りからは解放された。どうやら、魔法陣は二つ同時には展開出来ないようだ。
離れているとまたあの魔術の餌食になりかねない。俺は付かず離れずの距離を保ちつつ、ラタに剣を向ける。
「実に貴方は興味深いですね」
必死な俺に対し、ラタはどこまでも楽しそうだった。