花浮橋、霞込み
私は停止する。
何故なら突然、すっと冷たく身体が冷えていく瞬間がある。手足から重く鈍く冷たくなって肉体までもが固まる、何とも言い難い感覚――
熱いような冷たいような、何だかよくわからない感覚の中で朦朧と醒めて眠ってただ受け流す。明確なモノが怖くて、でもだからここにいる。
「よう、昼食」
ふっと現れた人間に差し出された袋にはいつものあんぱんが入っていてぱりっと開けてかじると、とりあえずその甘さを噛み締めて落ち着いた。舌先に広がる甘みにとろりと身体ごと溶けていく。
「――どうしてヒトは眠れるんだろう。眠っている間に何かが起きて二度と目覚めないかもしれないのに」
「寝ねぇと世の中心配する前に発狂して死ぬからだろ」
「ああ、それはそれで由々しき問題だね」
ごろりと寝そべったまま向きを変えて見れば、当然のようにカゴに洋服を入れて持っていた。歩きながら次々とごみを分別していくその姿に元気だなぁと思いながら、ネットを立ち上げる。
「毎度の事ながらよくもまあ俺が来なかった二週間でここまで散らせるな」
「みちたかが私を放って置くからだよ」
「ああ? ふざけんな、俺にテストで単位ぐらい取らせろ」
「だって寂しくて寂しくて死にそうだったんだよー」
「その割に今俺をそっちのけでネットやってる奴がいるけどな」
「うん、ごめんね、嘘だし」
ふと気がついて見ればあっという間に片付いた部屋になっていた。ぽすっベッドの端に座った理貴にされるがままに髪を梳かれる。てのひらの暖かさに心地好く眠気を覚えて微かにあくびをもらした。
「ちゃんと食事してたか」
「……してたよ?」
ある日突然、眠るのが怖くなった。それだけじゃない。食べる事も外に出る事も何もかもが怖くなった。何かをして、何かが起きて生きる上に苦痛が起きる事が怖くなった。何もしなければ何も得られないけれど、その代わり何も起こらない。それだけが安寧で、それだけが唯一の安心になった。
「考えても、特に未練なんて思い付かないんだけどね。本の続きが気になるな、とか、あ、まだゲーム途中だった、とか」
「……どこまで駄目になったら気が済むの、御前」
「えー、みちたかがいるからいいよ、大丈夫」
ちゃかすようにけらけらと笑えば、思いの外、真面目な表情をするから笑えなくなった。
「春」
「……なに」
「いつでも、どこでも、俺がいなくても――笑えよ?」
「……もちろん。何、思い上がってんのみちたか。みちたかがいなくても笑えるに決まってるでしょ」
不意に言われた事に思わず言いたい言葉を忘れていく。ほろほろとすり抜けて記憶から零れていく。
「ほんとに?」
「本当」
「ならいいけど」
ふい、とすぐに反らされた姿勢に何故だかひどく傷付いて首を傾げた。私のどこに傷付く権利があるんだか。
ああ、違う。理貴がいなきゃ笑えない。食べれない。立てない。寝れない。遊べない。息ができない。だから自分の言葉に傷付いた。ばかみたい。――ほんとは理貴がいなきゃ苦しいよ。
ずるずると立ち上がって理貴の腰にへばりつく。細くて、でもしっかりとした身体が羨ましくて、ぐりぐりと頭を押し付けた。
「春。重い」
「やだ」
「掃除できねぇだろ」
「みちたかに不可能はない」
「……嘘言うな」
大きなてのひらがゆっくりと頭を撫でて、指先でばらばらした髪を梳く。
「寂しかったか?」
「なんでよ」
「俺がいなくて」
「ふん。思い上がりも甚だしいよ、みちたか」
違う。きっとこれはちょっと人恋しいだけだ。春だから人肌の恋しい季節なんだ。
「可愛くねぇの」
「ぷん」
けど反抗したら頬をふにぃっと強くつままれた。持ち上げられた顔にこつんと額がくっついて視界がぼやける。
「どこにも行かないから安心しとけ」
軽々と抱き抱えられて、あったかくて心地好い。理貴の静かに響くとくとくした振動が好き。
「――……あの日、あの日さぁ、私が完全に一回壊れちゃった時――あの日にもっかいみちたかに会えなかったら、私は今も止まったまんまだったよ」
「感謝しろよな。ネット上に載ってたあの怪しい広告見つけてやったんだから」
「そんな物好きはみちたかだけだったねぇ」
「怪し過ぎるだろ。アルバイト月二十万、人間の世話とか」
「それで会社に面接来るなり、突然、『バイト代要らないから春をくれ』って言い切ったみちたかもどうかしてるよ」
「他に必要なもんないし」
理貴はいつでも優しい。全部全部、自分の為じゃない。
ああ、仕方ないな。たまにはご褒美をあげるよ。
「みちたか」
「んー」
知ってるもん、理貴の好きなモノ全部。だから胸元に縋り付きながら儚さげな眼差しでうるうると上を見上げて小さく呟く。
「……みちたか、すき」
微かにかすれた声で赤く色付いた頬で頼りなさげに続ける。
「さびしいのいや」
「知ってる」
僅かな本音とたくさんの嘘を込めれば理貴の苦笑した顔。触れるだけの柔らかさが唇に伝わって少しだけ離れると理貴は言った。
「俺、春に騙されんの好き」
「え、みちたか、マゾ?」
「はぁ?」
「いや、だって」
「どっちかって言うと支配してる方が好きだけど、御前は別」
「……やっぱマゾ?」
「バイト、辞めるかな」
「え、やだ、みちたか、いや」
「嘘だよ」
悪戯に細められた目元を見て、ぷくっと膨れて顎にこつんと頭突きする。
「うおっ」
――――きっと、
多かれ少なかれ私達は演技して利用して傷付けて、でも離れないようにしながら騙してる。
そんな世界は怖くて辛くて嫌になるけど、でもそれしかなくてまた嫌んなって、どこかで救われる。
「ねぇ、みちたか。みちたかならずっと騙し続けてくれる?」
お金なんて要らない。愛情なんて要らない。現実なんて要らない。だからずっと甘ったるい嘘で包んでいて。なんにも見せないで。
「いいよ、いくらでも。めちゃくちゃに甘やかして全部、見えないようにしてやるから――俺だけのオヒメサマ?」
******************
何もなかった。
小さい頃の俺は、いや今も何もできなくてただ何も感じなかった。いつも小さな病室の中で僕じゃない泣き啜る声だけが響いていた。最初は何を思っていたのだろうか、ついには何も感じない。
「泣かないで」煩いから。
「……理貴、優しい子。ごめんなさい。私たちにはもう何もしてあげられないの」
知ってるよ、そんな事、とっくに。
自分以外のモノをすべて置き去りにして、病室の外に出る。後、どれぐらい動けるのだろう。動けなくなるまでに何がしたかったっけ。何も思い出せないけど。
「ねぇ君?」
「え?」
「私さぁ、ここどこだかわかんないんだけど、ここどこ?」
「……病院だけど」
「見ればわかるよ、そんなの」
「……………」
「んー、あれ、君、入院してるの? よかったね、退院できるよ。私に出会ったから」
理解できない。治療で痩せ細った自分よりもさらに小さな女の子は僕を見上げて微笑んだ。
「信じない?」
「当然」
「いいよー、別に。信じなくても治るから」
「はあ」
勝手に話を進めて背伸びしながら僕の頭を撫でる。にこにことくったくなく笑う顔に毒気を抜かれてされるがまま茫然と見下ろしていた。
「だから私を友達にして」
「やだ」
「……がーん!」
「口で言うな」
ちっとも残念じゃなさそうにへらへらと笑う。思わず出た否定の言葉はこれ以上何も欲しくないから、何も失いたくないという怯えの感情の表れで、震える腕で自分を抱き込み相手から目を逸らした。
「じゃー、まあ友達じゃなくてもいいからさ、明日もまたここで同じ時間に来てよ。約束、ね?」
そう言った途端、黒服の男達が角からダッと駆け寄ってきた。まるでボディーガードのような。さっと身を翻して当然のように彼らに囲まれながら彼女は歩き出す。ふと小さく振り返って、唇だけがまたね、と告げる彼女を何故だか羨ましいと思った。
自分がよくわからなくなる瞬間なんてたくさんある。突然、今までしていた事が何の為にしているのかわからなくなってふと手を止めても、やっぱりわからなくて。ただ理由を思い出そうとしたところで、そもそも思い出した理由に意味なんて感じなくなっていて。
「……あ、よかった、来てた」
だからそんな言葉に振り返ってみても、何で出て来る時、こんな選択したんだか理解できない。
「で?」
「うん?」
「何で呼び出したの?」
「遊びたかったから?だから来てくれて嬉しいよ」
最後はやけに大人びた口調で僕の手を取る。弱く、でも確かな力で、手を引かれ、僕らは歩き出した。
「ねぇ、みちたか。私ね、魔法使いなの」
「……は?」
会う事を了解して文句を言うつもりはないけれど、ただ最初から気になる事として彼女は言動がおかしいとは思う。
「信じなくてもいいけどね。私の思った事、全部本当になるの。まあ想像できない事はできないんだけど。だからみちたかは元気になって、私の代わりに楽しく生きるの」
けれど、その後話した何か他愛もない事も何もかも引っくるめて全部、今でも覚えてる。どんな表情で彼女が生きてるかなんて鮮やか過ぎて言い切れない。
僕の身体が段々と普通に近付くのに引き換えて、彼女は次第に普通から外れていく。そんな当然の事が僕らの関係の全てで、必然の帰結だった。
「あのね、私は利用される為に生まれてきたの」
そんな訳ない。ちょっと未来を見通す事が出来るぐらいで調子にのるな。そんなんでヒトを幸せに出来ると思ったら大間違いだ。
なぁ、何度でも春が望むなら、俺はそうしよう。春をいくらでも否定し続けてやる。どんなに春が凄くても認めない。春の望むように幸せになんてなってやらない。御前の望む未来を全部、消してやる。何にも凄い事なんてない。春はただの小さなお姫様。夢見て、焦がれて、現実を知る。だからいつかその日まで、そしてこころが崩れ去った後もずっと、春に俺の幸せを叶えさせてなんかやらない。
その代わり、春はいくらでも幸せにしてやる。もう嫌ってぐらい、他人の手で御前を幸せにしてやるよ。
「みちたか、離れないで」
「離れないよ」
――――不幸のどん底と幸せの絶頂しか知らないお姫様に俺からの幸せを。