閑話 レイティモ山の現状。 後編(森鬼視点)
朝も早くからレイティモ山に入り、ゴブリンの巣へ向かった。
スズコに言いつけていたので、みんな狩りには出ずに巣の周りで遊んでいる。
「おさ!」
真っ先に俺に気づいたのはシュキだった。
シュキの声で、他のゴブリンたちも気づき、あっという間に囲まれる。
「みんな揃っているか?」
スズコとトーキもいることを確認して、全員に告げる。
「群れを分けるつもりだ。この山の外に出たいものは前に出ろ」
「そとでたい。すみかない」
シュキが一歩前に出て、外に出ても住処がないと片言で訴えた。
「コボルトと一緒にはなるが、新しい住処はすでに用意している」
住処の心配はいらないと伝えれば、今度は俺も一緒に行くのかと聞かれた。移動の間だけならと返すと、シュキは俺を睨む。
「おさ、なぜもどって、こない!」
シュキは、俺を群れから引き離したのが主だと思っており、だから嫌っているのだろう。
主のことを知らないものが増えたとはいえ、群れの上位のほとんどが主を慕っているから居心地が悪いのかもな。
「主の側を離れるわけにはいかない。今回が特別なだけだ」
シュキは悔しさをにじませながら、なおも俺を睨みつける。
「おれとたたかえ!おれがかったら、おさ、おれといっしょにいる!」
俺に勝って、群れでの序列を逆転させるつもりか。面白い。
外へ出るならば、シュキの実力を見ておきたかったしちょうどいいな。
他のゴブリンたちを下げ、シュキと向かい合う。
「いつでもかかってこい」
シュキが手を出しやすいようにあえて隙を作り、軽く挑発した。
雄叫びを上げながら、俺の顔目がけて拳を繰り出す。
俺は足場をずらしながらそれを避け、シュキはすかさずもう片方の腕を横に振った。
シュキの攻撃を避けながら、奴の動きを観察し、攻撃の傾向を見極める。
下から来る拳を受け止め、お返しにと奴の腹に拳を叩き込んだ。シュキは少しよろめいただけで、俺の間合いに入ろうと一歩踏み出した。
俺はシュキの側面に回り込み、引いている足の膝を狙って蹴る。重心が崩れ、地面に手をついたシュキに今度は膝蹴りを食らわした。
しかし、シュキは地面を転がるように避けたので、さほど通っていないだろう。
全身を使って跳ね起きたシュキは、前のめりになって俺に飛びかかってきた。それを受け止めながら横に流し、体の位置を入れ替える。その勢いのまま、背後からシュキに抱きつくように腕を伸ばし、足を絡める。
軍部の獣人から教わった技だ。腕や足で首を絞めて落としたり、四肢の関節を曲がらない方へ力を加えたりと、技の種類がいくつもあった。
「ギ……ギィ……」
抜け出そうともがくシュキに、もがけばもがくほど激痛が襲う。
「ギギャァ!」
とどめとばかりに力を込めれば、濁った悲鳴を上げ、抵抗する力が弱くなった。
もういいだろうと技を解くと、シュキは涎を垂らしながら激しく咳き込んだ。そして、地面に這いつくばり、全身を震わせている。
四肢に力が入らず、立ち上がることもできないのだろう。シュキは拳を握るも、振り上げることはなかった。
シュキの様子に何かを察したスズコとトーキが、彼を励ますように肩を軽く叩いた。
「くやしい気持ち、わかる」
「お前はまだ強くなる。あきらめるな!」
トーキはまだ言葉がおぼつかないが、スズコはかなり上手くしゃべれるようになったな。
シュキとやり合ってみて、まだ強くなる素質を持っていると感じた。
スズコとトーキにはおよばないが、あいつらは主に名付けられた魔物だ。主の周りにいる魔物と同様に、変な影響が出ているのは間違いない。
普通のホブゴブリンとしてなら、シュキは十分強いと言える。
「なぜそんなに強くなりたいんだ?」
主の影響を受けている俺が名付けたから、シュキにも変な影響が出ているのだろうか?
気になったので聞いてみると、なぜかスズコとトーキが答えた。主のために、と。
人の社会ではそれを忠誠と受け取るかもしれない。
だが、あいつらのは、ただ主が好きだからという単純なものだ。
主と出会ったときは、俺も群れのために何ができるのかと必死に考えていた。
パウルたちオスフェの使用人を見て、気づいたんだ。
誰かのために強くなるということは、その誰かのために死ぬことなんだと。
オスフェの使用人は、主とその家族を守るためなら、死すら躊躇わないだろう。
主が眠りについているとき、パウルに言われたことがある。
『ネマお嬢様にご覚悟が備わるまで、お前は死ぬ気でお嬢様を守り、けっして死ぬことは許されない』
パウルも、主の父にそう命じられたらしい。主が幸せに暮らせるように。
多くの生き物は、親が子を守る。
しかし、人とは不可解なもので、子の心まで守ろうとする。
外敵から襲われる心配のない生活をしているからこそ、そんな余裕があるのだろう。
ゴブリンにはそんなものはない。自分が生き残ることに全力を尽くさなければ、死ぬ。
スズコとトーキを黙らせ、シュキにもう一度問う。
「…………ギギィィ。ギギャ、ギーィィ?」
上手く言葉にできないのか、シュキは鳴き声で答えた。
『死にたくない。弱いままだと、他の魔物に殺されるだろう?』
シュキの答えを聞いて、自分の口元が綻んだのがわかった。
貪欲に、生きることに食らいつく。誰かのためでなく、己が生きるために強くなる。
生きるためには戦いだけでなく、食べられないものを覚えたり、食べられるものが好む場所を知ることが必要だ。
レイティモ山から出なければ、死ぬことはないだろう。その代わり、得られる経験は限られてしまう。
「ならば、自分の群れを作って、己の力で生きていけ」
シュキが求めるものは、レイティモ山にいては身につかない。
主が許すなら、外に出すべきだ。
「まだ確定ではないが、いつでも移動できるようにしておけ」
「おさ、ついてくるか?」
新しい巣までの移動中に、俺が教えられることは教えるべきか。
……主も俺に任せると言っていたし。
「いいだろう」
それから、ゴブリンも群れを分けることにしたと、主の兄に報告し、慌ただしく会議が行われた。
「間に合うようであれば、一度ライナス帝国に戻すから、シンキはここで待ってて」
主の兄は、ラースの契約者に呼ばれているらしく、会議が終わったらディー殿とともにシアナ特区から去っていった。
体が二つあればとぼやいていたので、呼び出されたのは不服だったのだろう。
後継者というのも大変なんだな。
俺は、群れのゴブリンたちの相手をしながら連絡を待った。
主の兄がシアナ特区を発って二日後。
ようやく連絡が来たと思ったら、こちらに戻れないと書かれていたらしい。
『ラルフからの手紙届いた?』
俺とヒールランの会話を聞いていた風の中位精霊が問う。
短く返事をすると、風の精霊は主の兄に頼まれたと言って話し始めた。
『ラルフは今、ワイズ領の隠れ家にいるんだけど、ヴィルの命令である遺跡にある古代魔法の文様を書き写す作業をしてる。だから、魔物の移動は愛し子の用事が終わるまで実行しないでって言ってた』
中位精霊は下位精霊よりまともに会話できるはずだが……。
「遺跡が隠れ家なのか?」
『違う違う。ラルフがいるのは情報部隊の隠れ家で、遺跡はワイズ領の端っこにあるやつね。光の聖獣様の力を使っているから、離れた場所のこともわかるんだ!』
ようは、主も主の兄も、今は手が離せないから待っていろってことだな。
主は問題なく過ごせているようだし、シュキたちを鍛える時間にするか。
「主の兄に伝えろ。俺はこのままシアナ特区にいて、移動についていくと」
『わかった。任せて!』
俺は精霊に伝えた通り、ゴブリンの巣に寝泊まりをし、シュキとシュキについていくことにしたゴブリンたちを鍛えていた。
「シンキ、聞きたいことがある」
ちょうどトーキを投げ飛ばしたときに、ヒールランが現れた。
声に出さず、なんだと視線で促す。
「ネマ様は群れを分けることをお許しになると思うか?」
「意図がわからないが、主なら、とりあえずやってみようと言うのではないか?」
主のことだから、一応あれこれ考えると思うが……。やってみて、駄目だったら次の手を考える、くらいの軽い感覚だろう。
「そうか……そうだな」
ヒールランにも容易く想像できたのか、何やら一人で納得している。
「移住の準備をしておこうと思ってな。何か必要なものはあるか?」
「ゴブリンには何も用意しなくていい。すべてその場で調達させる」
俺がそう答えると、本当にいいのかと念押ししてくるヒールラン。
元は自給自足の洞窟暮らしなゴブリンたちだ。荷物がある方が負担になると言えば、ヒールランは折れてくれた。
「ネマ様から連絡が来たら、すぐに伝える」
「わかった」
久しぶりの洞窟暮らしは、昔に戻ったようで穏やかに過ごせた。
寝台で寝るより、地面に寝る方がいい。
人と似た姿になっても、ゴブリンであることを実感した。
◆◆◆
主から群れを分ける許しが下りた。
それとは別に、ヒールランには何か分厚い手紙が送られていたようだが。
主は群れを分けるにあたって、なるべく少数にするようにと条件が出されていた。
まずは環境を調べるためにも、一定期間過ごしてからにするべきだと。
主の意見はもっともだろう。
どの森も、季節が変われば、環境も変わる。
新しい住処は川が近いので、嵐が来れば増水するし、夏は干上がるかもしれない。
精霊たちによると、増水しても水が届かない洞穴がたくさんあるそうなので、大丈夫なはずだ。
それをシシリーに伝えると、彼女はわかっていたのか、すでに選出を終えていると言う。
聞けば、各氏の番と生活の氏を中心に集めた一陣、若手やもうすぐ成体の子たちを集めた二陣、年長を集めた三陣と、移動する群れの規模を調整できるようにしていた。
ゴブリンの方は、数が多いとシュキが面倒見きれないので、二十匹程度の群れだ。
夜、人が寝静まる時間に、音もなくレイティモ山の結界が解かれた。
「行くぞ!」
コボルトとゴブリンの群れが、ひっそりとジグ村の横を抜ける。
先頭を行くのは、草の氏の番。雄の方が氏長の二番目、セーゴとリクセーの兄だ。
コボルトの分かれた群れの長は、進化の兆しがある緑の氏長が率いている。
新しい住処までの経路はいくつかあるが、一番人目につかないものを選んだ。
しばらくは海沿いを行く。この海沿いは、崖や岩場が続いているので周囲に漁村がなく、足場は悪いが崖から距離があるので落ちる心配もない。
明るくなる前に、ミューガ領の北にある森に入れるだろう。
狩りや採取をしながら二日ほど森の中を進み、一つ目の難所に到着した。
オーイェン河だ。この河は幅が広く、両岸には町が続いているので、一度上流へ向かう。
「この先は畑が広がっている。夜に動けば大丈夫だと思うが、もう少し上流に行くか?」
セーゴたちの兄エトカが偵察から戻り、状況を告げる。
これ以上上流に行くと、大きな街があるので、ここら辺で渡らなければならない。
「対岸に公園と呼ばれる広場がある。その場所まで行きたいのだが……」
公園がわからず、ヒールランに聞いたところ、誰もが遊べる庭みたいなものらしい。
さすがに夜になっても庭で遊ぶ奴はいないと思い、渡る場所に決めたのだ。
「じゃあ、夜になったらもう一度見てくる」
「いや、俺が行ってこよう。お前は休んでおけ」
俺だけならば、獣人と誤魔化せるからな。
今日は夜間移動になるからと、魔物たちには寝るように言った。
それを聞いたゴブリンたちは、喜んで地面に転がる。
シュキの群れの半数以上がレイティモ山で生まれた若い個体だ。長時間の移動に慣れておらず疲れが溜まっているのだろう。
人がいないかを精霊に確認させてから、森を出た。エトカの言った通り、畑が広がっている。
時期的なものなのか、畑には何も生えていないのも都合がいい。
食べ物があればあいつらは盗るし、魔物に荒らされたとあればこの町の人々が騒ぐ。騎士団が派遣されると、移動どころではなくなる。
河岸には堤が設けられていて、その上に登ってみた。
少し先に桟橋が見える。畑で穫れたものを船で運搬しているようだ。下流には大きな街があるからな。
その桟橋に繋がれている質素な木船は使えそうだ。
おそらく、ゴブリンのほとんどが泳げない。というか、泳いだことがない。
レイティモ山の川は浅いし、オンセンでは泳ぐことが禁止されているからな。
船も漕げないだろうから、縄で引っ張るか……。
『シンキ、あそこが公園だよ!』
『子供が遊んでる!』
精霊が指差す先は対岸。
あちら側にも堤はあるが、河に降りられるようになっているみたいだ。
これなら、なんとか渡れるだろう。そう判断して、俺は森へと戻った。
夜――。
闇夜に紛れて、魔物たちが動き出す。
桟橋と船のことは伝えてあるので、コボルトが先行して船に縄をつける。その縄を持ったまま、数匹が泳いで対岸まで行く。その間、全員の荷物を船に載せた。
準備ができたと合図を送ると、対岸に渡ったコボルトたちが縄を引いて、船を対岸につける。そして荷物を下ろしたら、今度はこちら側が縄を引いた。
船の前後に縄をつけて引っ張り合うことで、漕く必要はなくなる。
だが、途中で転覆するおそれがあるため、コボルトが船と一緒に泳いで渡ることになった。
ゴブリンに比べて身体能力の高いコボルトだが、音を立てずに泳ぐ姿がセーゴとリクセーと同じなのに少し笑ってしまう。
俺は最後まで残り、船を元の場所に戻してから、静かに河へ入った。
主の側にいるならと、オルファンに湖でひたすら泳がされた記憶が蘇る。
対岸に到着すると、ゴブリンたちが頭を振っていた。
「……何をしているんだ?」
「たぶん、あれを真似てるんだと思う」
エトカが示す先には、体を震わせて、毛についた水を飛ばしているコボルトがいた。
お前たちが頭を振っても、体に毛がないから水は飛ばないぞ?
小さな問題を起こしつつも、移動は順調に進んだ。
ともに生活することで、コボルトの意外な一面も知れた。
コボルトは集団での狩りが得意だと思っていたが、なぜか連携はほとんどできていなかったのだ。
狩りは同じ氏同士で行うので、異なる武器を使う氏とは間合いが取りづらく、遠慮がちになってしまうらしい。
武の氏や盾の氏は前に出がちだし、賢者の氏は一定の距離を保っての魔法攻撃だ。慣れていないのであれば、確かに同士討ちもあり得るな。
とは言え、俺が連携を教えられるわけもなく、大きな獲物は手こずりながらも狩っていった。
そして、ようやく二つ目の難所までたどり着く。
ここは城塞となっていて、防衛戦の要だとヒールランに教えてもらった。主のお供で行った、ライナス帝国の軍本部みたいなもののようだ。
国境沿いの砦に物資や人員を送る役割があるため、河が流れるこの地に建てられた。それから人々が住み始め、大きな街道が通り、今に至る。
王国騎士団の重要施設ということもあり、常時見張りがされているし、獣騎隊も常駐して、城塞の周囲に獣舎の獣を放っているとのこと。
迂回することも考えたが、そうすると日数がかなりかかることもあって、ここを強行突破することにした。
「ここから先はどんな猛獣がいるかわからない。獣が襲いかかってきたら、戦わずに逃げるんだ。南に大きな一枚岩がある。落ち着いたらそこを目指せ。けっして、城塞の方には逃げるなよ」
獣舎の獣に追われて城塞の方へ逃げてしまうと、今度は騎士たちに追われることになる。
城塞の灯りが届かない、かつ、獣がいないであろう場所を抜けなければならない。木々はまばらにしか生えておらず、草も身を隠せるほどの丈がないため、ゴブリンには厳しいだろう。
今回だけは俺が群れの先頭に立つことにした。
獣騎隊の獣は魔物を恐れないが、なぜか俺のことは恐れる。なので、すぐに襲ってはこないはずだ。
怯えすぎて、担当騎士のもとへ逃げる可能性もあるが……。
「シンキ、ワイルドベアーのにおいがする。あと、においが薄くて判別つかないものも」
「コボルトの鼻でもわからないのか?」
俺の後ろにいるエトカと、小さな声でやり取りをする。
数種類は連れてきているだろうと思っていたが、ワイルドベアーはさすがに面倒だな。
以前、主がワイルドベアーがどんな生き物なのかを自慢げに教えてくれたことがあった。
『ワイルドベアーはすごくかしこくて、鼻もいいの。体力もあって、力も強い。お肉だけじゃなく、くだものとか甘いものも大好きなのよ。そして、とぉぉってもしゅうねん深いから、気をつけてね。ぼうけん者がワイルドベアーに丸一日追いかけられたことだってあるんだから』
あのときは、自分もワイルドベアーに遭遇したことがあったが、運がよかったんだなくらいにしか思わなかった。
だが今は、ここを抜けたい俺たちにとって最大の障害だ。
気配を殺して、静かに闇に紛れる。
暗闇にいると明るい場所はよく見えるが、明るい場所からは暗闇は見づらい。
そして、暗闇からも浮かないようにしながら、慎重に進む。
『あーあ、見つかっちゃった』
『まったくかくれんぼになってないもん』
『かくれんぼ、する?』
先ほどまで、口に指を当てる仕草をしながらケラケラ笑っていた精霊たちが、突然騒がしくなった。
どうやら、俺たちに気づいた獣が近くにいるようだが……。
「見つかった。エトカ、どこにいるかわかるか?」
『あの子の方がかくれんぼ上手だね』
『ぼくたちは教えてあげないよー』
煩わしい虫は相手にせず、周囲を警戒する。
「上だ!」
声がした次の瞬間、何かがぶつかる音と金属を引っ掻く音がした。
その音にコボルトたちは顔を顰め、ゴブリンたちは耳を塞ぐ。
『ぎゃー!ぼくあの音きらい!!』
『うへぇ……気持ち悪くなった……』
俺の耳元で騒ぎ、頭に乗る虫がうるさすぎて集中できない。
そんな虫どもを捕まえて、そこら辺に放り投げた。
「シンキ、ヤーグルだ!」
盾の氏が木の上から飛びかかってきたヤーグルを防ぎ、武の氏が投げ飛ばしたようだ。
ヤーグルは空中で体勢を整え、音もなく着地すると、こちらを見据えて低く唸る。
身構えている盾の氏の横に立つと、ヤーグルは唸るのをやめて少し後退った。
さらに一歩前に出ると、ヤーグルは動揺を見せ、ついには身を翻す。近くの木の上に逃げたヤーグルだが、それでもこちらを窺っている。
俺が離れた瞬間を狙うつもりか?
「全員、ゆっくりと先に進め。俺が足止めしておく」
離れすぎると他の獣に狙われるかもしれないので、少しずつ距離を取ることにする。
ヤーグルが木から降りたと思ったら、すぐさま別の木に登った。
隙をついて気絶させるか?
ヤーグルから視線を外し、聞こえてくる音に集中する。
地表へ降りる気配を感じたら、即座に間合いを詰めた。
奴の後頭部を狙って一撃を放つ。
ふらついてから、ゆっくり倒れるヤーグル。
完全に意識を失ってはいないようで、力なくもがいている。やはり力の加減が難しい。
ラースの契約者がやっていたように、呼吸をできなくする方が簡単なのだが……。
精霊たちから、移動中は力を貸さないと宣言されたので、その方法は使えなかった。
創造神の意志に反するか、世界の理に触れるのだろう。いまだに、その基準がなんなのか理解できない。
ヤーグルをその場に放置して群れに追いつくと、なぜか皆の足が止まっていた。
前方から殺気を感じ、様子を窺うと、大きな影があった。
ワイルドベアーか――。
しかも、三頭もいる。……いや、四頭だ。後ろから、ヤーグルではない殺気がある。
これでは、一斉に逃げても誰かしら犠牲になってしまう。
ワイルドベアーを刺激しないように前へ出ると、正面の個体が他の三頭に比べて大きいのがわかった。
『あ、ベイだ!』
精霊が大きなワイルドベアーの名を呼んだ。
「知っているのか?」
『愛し子が気に入ってる子だよー』
『よく背中に乗ってた!』
それを聞いて、朧げながら思い出す。
主が気に入っているとなれば、先ほどのように強引な手段は取りづらい。
どうするかと考えながら、主の言葉を反芻した。
『ワイルドベアーはすごくかしこくて、鼻もいいの』
……効果があるかわからないが、やってみる価値はある。
「ナノ、主の匂いをここまで運べるか?」
『愛し子の匂い!?』
『できるけど……それでベイを大人しくさせるのなら、力は貸せないよ?』
「俺に主の匂いをつける。それなら問題ないだろう?」
『シンキに!?』
『え、変態ってやつ??』
『セイヘキの方じゃない?』
『愛し子が言ってたセイヘキは、匂いをクンカクンカかぐんだよ!』
……主、精霊の姿が見えないはずなのに、いつの間に変なことを教え込んだんだ?
そういえばと、ディー殿やラースの匂いをよく嗅いでいた主の姿を思い出す。
セーゴやリクセーも、肉球の匂い!と足を嗅がれる被害に遭っていたな。
これは……パウルに報告した方がいいのだろうか?
思考があらぬ方向に行きかけたが、ワイルドベアーの唸り声で我に返る。
「それで、できるのか、できないのかはっきりしろ」
いまだに変態だなんだと騒いでいる精霊たちに投げかければ、渋っていたのが嘘のように力を貸してくれた。
『どーお?』
『愛し子の匂い、いっぱい持ってきたよ!』
風が体にまとわりつくと、嗅ぎ慣れた匂いを感じた。
主が眠っていた期間を除けば、これだけ長く離れたのは初めてで……懐かしいと思う自分に笑いがこぼれる。
主の匂いをまとい、ワイルドベアーに近づく。
奴らも匂いの変化に気づいたのか、鼻を鳴らしたりと落ち着きがなくなった。
「ベイ。俺たちは害を与えるつもりはない。ただ、行かせて欲しいだけだ」
俺はベイに向かって話しかける。
「獣は言葉がわからないだろ?」
エトカは困惑しているが、獣舎の動物はただの獣ではない。生まれてからずっと、獣騎士の手によって育てられた獣だ。
主によると、特殊な訓練を施され、言葉も理解すると言う。
「主……ネフェルティマ様のためにも、ここは引いてくれないか?」
主の名前を出すと、ベイは俺のことをじっと見つめた。殺気も弱まっているようだ。
一歩、二歩と近づけば、ベイも同じだけ下がる。
そうやって隙間を作り、エトカに進むよう指示を出した。
走ると追いかけてくるので、ゆっくりと、少ない数でワイルドベアーの間を通る。
コボルトたちが無事に抜け、ゴブリンが通ろうとしたときだった。
突然、一頭のワイルドベアーが後脚で立ち上がり、咆哮とともにゴブリン目がけて前脚を振り下ろす。
「シュキ!」
助けにいくのは間に合わず、シュキの方が先に動いた。
ワイルドベアーの前に立ったシュキは、交差させた腕で前脚の攻撃を受ける。
鈍い音がして、微かに血のにおいが漂った。
一頭が興奮したことで、残りの三頭も俺たちを攻撃しようと低く唸り声をあげる。
「すまん」
ベイに謝り、その巨体を地面に転がす。そして、背中から押さえつけて、身動きが取れないようにした。
「走れ!」
どうしていいのかわからず、身を寄せ合っていたゴブリンたちに叫ぶと、こちらを見向きもせずに逃げていく。
そのあとを追おうとするワイルドベアー。
「シュキ、飲み込まれるなよ!」
シュキに一声かけて、俺はそれを放つ。
――ヴアォォン……。
――ヴゥゥゥ。
ワイルドベアーは今までとは違う弱々しい声で鳴き、許しを乞うように地面に伏せた。
俺が押さえているベイも、恐怖からか小刻みに震えている。
少し可哀想ではあるが、怪我をするよりいいだろう。
ベイの頭を一撫でしてから解放する。自由になってもベイは動かず……いや、ここにいるものはすべて地に伏して動けないでいた。
「飲み込まれるなって言っただろ」
四つん這いの状態で震えているシュキを立たせる。
シュキの腕に触れたとき、微かだが短く悲鳴が聞こえた。
シュキには効き過ぎたか?
シュキを背負うようにして、集合場所である一枚岩を目指す。
あいつらはちゃんとコボルトと合流できているだろうか?
「おさ。さっきの……なんだ?」
「竜の咆哮と同じようなものだ」
生き物の本能に作用する、絶対的強者の威圧。
ようするに、捕食者に捕まったときのような恐怖感を与えて動けなくする力と言ったところか。
俺がそれに気づいたのは、ライナス帝国の軍部の獣人たちと戦ったときだった。
強い獣人には手加減などしていられないと、敵意とも殺気ともつかない何かを発したら、獣人たちが怯えたのだ。
竜種と遭遇したときのような悪寒を感じると、彼らは言っていた。
創造神とやらが植えつけた知識にはなかったが、おそらく愛し子の騎士の能力だと思われる。
そして、この能力は精霊や聖獣にも有効だ。
精霊や聖獣は純粋なゆえに残酷な面を持ち、よかれと思ってやったことが愛し子の害になることもある。
その暴走を抑えるために、与えられた能力なのだろう。
現に、それを発したとたん、あれほどうるさかった精霊たちは姿を消した。
まぁ、今は戻っていて、酷いだの怖かっただの文句を言ってうるさいが。
「ギィーーー!!」
一枚岩が見えると、その周りに座り込んでいる魔物たちがこちらに気づいた。
ゴブリンたちは、俺とシュキの無事を喜び、足元にまとわりつく。
「歩きづらいからやめろ」
そう注意してもやめる気配はなく、遅々として進まない歩みにため息を吐いた。
「シンキ、無事だったか!」
エトカも駆けつけてくれたが、シュキの怪我を見て顔を顰める。
すぐに癒やしの氏と賢者の氏を呼び、癒やしの氏が治癒魔法を、賢者の氏が血や獣臭さを魔法で綺麗にしてくれて、ようやく一息つけた。
「先ほどの騒ぎで、獣騎士が気づいた可能性がある」
普段の獣騎士の様子からみても、彼らは常に獣たちのことを気にかけている。
わずかな時間でも、獣を愛でにきていてもおかしくない。
そして、ワイルドベアーをあんな状態にした奴は誰だと、血眼になって探すだろう。
「におい消しを使おう。そうすれば、においの痕跡をたどることが難しくなる」
「におい消しとは?」
「これだよ」
エトカがどこからか取り出したのは、短い紐がついた玉だった。
「これに火をつけると煙が出るようになっている。その煙は、最初……まぁ酷い臭いがするが、すぐに拡散して気にならなくなる」
その煙が拡散し、広範囲に広がる際に、周囲のあらゆるにおいを混ぜてしまうらしい。
なぜにおいが混ざるのかは、極秘だからと教えてくれなかった。
フィカが罠作りを得意とするなら、エトカはこういった小道具を作るのが得意だ。
道中では、魔生植物や見るからに怪しい植物を採取していた。
……それらがにおい消しの材料だったりしないよな?
「みんな準備はいいか?火をつけるぞ!」
コボルトたちが皆、口元を布で覆ったのを確認してから、賢者の氏が作った文様符でにおい消しに火をつける。
短い紐が燃え、玉の部分まで達すると勢いよく煙が立ち上がった。
「うっ……」
吐き気を催すほどの悪臭がしたと思ったら、風が吹いて臭いが消えた。
悪臭対策をしていたコボルトですら、一瞬の臭いでふらついている。
ゴブリンに至っては、あまりの臭さに倒れたものも出ていた。
「風魔法でさらに広げてもらったから、しばらくは大丈夫だと思う」
倒れたゴブリンを叩き起こして先を急ぐ。
においを消しても、もたもたしていたら追いつかれてしまうからな。
途中、念のためにと何度かにおい消しを使用したが、何度嗅いでも慣れる臭いではなかった。
「もう少しだ」
ようやく最後の山を越え、あとは下るだけ。
新しい住処に着いても、やることはたくさんあるが。
そういえば、俺はシアナ特区に戻った方がいいのかを聞くの忘れていたな。
……何かあれば精霊が伝えるだろうし、それまではこいつらを手伝っておけばいいか。
ネマのせいで変な言葉を覚えてしまう精霊たち……。




