「娘を婚姻条件書で口説くな!」と父が怒っています
「娘を婚姻条件書で口説くな!」
お父様が、怒っている。
伯爵家の執務室。その大きな机の上には、一通の書類が広げられていた。正確には、これで四通目だ。
差出人はエルディオ侯爵家。そして、そのすべてが私――伯爵令嬢リディア・オルセンとの婚姻について記された、正式な婚姻条件書だった。
「……お父様。婚姻条件書とは、そもそも相手に選んでもらうためのものでは?」
「そうだ」
「でしたら、条件を良くすることに問題はないと思いますけれど」
「条件の話ならな!」
お父様が四通目を指で叩いた。
「三年前に一度うまいと言った菓子を毎年取り寄せることの、どこが婚姻条件だ!」
私は答えられなかった。
それについては、私も聞きたい。
◇
話は一か月ほど前に遡る。
私には現在、三件の縁談が来ている。
一人目は近隣の子爵家嫡男。二人目は王都で財務官を務める伯爵家嫡男。そして三人目が、エルディオ侯爵家当主、アーヴィン・エルディオ侯爵だった。
私は三人目の名前を聞いたとき、平静を装うのに少し苦労した。
アーヴィン様とは以前から面識がある。王都の夜会や茶会で会えば話をする程度だけれど、私は彼と話す時間が好きだった。
穏やかで、よく人の話を聞く方だ。
私が伯爵領で育てている薬草について話したときも、令嬢の暇潰しと笑わず、栽培方法や販路について真面目に質問してくれた。
そんな時間を重ねるうちに、いつからか私は彼を目で追うようになっていた。
だから、縁談の候補に彼の名前があったことは嬉しかった。
ただし。
「現状では、ベルトン子爵家が最も良いと思う」
お父様の判断に、私は素直に頷いた。
「私もそう思います」
結婚は私一人の問題ではない。オルセン伯爵家と相手の家を結ぶものだ。
アーヴィン様は侯爵。家格だけなら申し分ないが、領地は遠く、我が家との交易もほとんどない。持参金の負担も他の二家より大きかった。
一方、ベルトン子爵家は領地が隣接している。交易をさらに広げられるし、両家の行き来も容易だ。
「アーヴィン様は、残念ではあるけれど」
「好いているのか?」
「……多少は」
「多少、ねえ」
「お父様」
お父様は笑った。
「だからといって、お前に嫌な結婚をさせるつもりはない。ベルトン家との話も、もう少し詰めてからだ」
「はい」
少し残念ではある。けれど貴族として生まれた以上、すべてが望みどおりになるわけではない。
お父様は三家それぞれに検討内容を返書した。エルディオ侯爵家へは、領地間の距離と持参金の負担が懸念となっていることを伝えたという。
これでアーヴィン様との縁談は終わるのだろう。
私はそう思っていた。
◇
八日後。
エルディオ侯爵家から、二通目の婚姻条件書が届いた。
「……持参金を、半額?」
「ああ。それだけではない。我が領地の産品を、侯爵家が王都に所有する商館で取り扱うそうだ。販売手数料も優遇し、侯爵家の取引先にも販路を広げるとある」
侯爵家の商業網を利用できるなら、領地同士が離れている不利をかなり補える。
「こちらが懸念を伝えたら、その懸念をそのまま潰して返してきた」
お父様は少し楽しそうだった。
「なかなか強気な交渉をする」
それでも、まだベルトン子爵家がわずかに有利だった。領地が隣接している利点は大きい。
お父様はその旨を返書した。
すでに十分な好条件だ。これ以上の譲歩はないだろう。
◇
ところが九日後。
「……また?」
「まただ」
三通目が届いた。
今度は、オルセン領産品を侯爵家の取引商会へ紹介し、新たな取引が成立しても仲介料を取らないという。
さらに、弟エリックが希望すれば、成人後三年間、侯爵家で領地経営の実務を学ばせる。
侯爵家ほどの規模の領地経営を学べる機会など滅多にない。
そして、もう一つ。
「令嬢が現在オルセン領にて管理している薬草園について、婚姻後も共同管理者としての地位を維持する。また、同園で生産された薬草については、販路開拓を支援する」
私は、その一文を二度読んだ。
「……薬草園まで?」
「これは、お前が希望したのか?」
「いいえ」
家令も首を横に振る。
「今回の婚姻交渉では、先方へお伝えしておりません」
「では、なぜ知っている?」
「アーヴィン様には去年、二度ほどお話ししました」
「そうか」
お父様はそれ以上追及しなかった。
薬草園は領地の産業でもある。私が管理を続け、侯爵家が販路を広げるなら、オルセン家にも利益がある。
婚姻条件として、十分に説明がつく。
それでも私は、もう一度その一文を見た。
アーヴィン様は覚えていたのだ。
「……お父様」
「なんだ」
「これは」
「言うな。私も分かっている」
お父様が額を押さえた。
「勝ちに来ている」
「何にです?」
「お前の争奪戦にだ」
そんな言い方をされると困る。
だが実際、エルディオ侯爵家は最有力候補になっていた。
家格。商業上の利益。弟の将来。そして私が取り組んできたことまで続けられる。
胸の奥が少しだけ温かくなった。
けれど、まだ決めつけてはいけない。薬草園も領地経営の一部として評価しただけかもしれない。
婚姻は家同士のもの。
アーヴィン様が私個人を望んでいるとは限らない。
お父様は、条件として申し分なく、正式な候補として検討していると返書した。
今度こそ、条件交渉は終わったと思った。
少なくとも私は。
◇
さらに八日後。
四通目が届いた。
「……また来たぞ」
「今度は何でしょう」
「さあな。三通目で十分だと思うのだが」
私もそう思う。
お父様が封を切った。この場にいるのは、お父様と私、それに家令の三人だけだ。
「令嬢付き侍女五名について、婚姻後も全員を継続雇用する」
「それはありがたいですね」
「個人所有の財産についても、本人の管理権を保証する。侯爵夫人となった後は、領内の慈善事業について一定額の予算裁量権を認める」
お父様が頷く。
「ここまでは非常によく考えられた条件だ。侯爵夫人としてのお前の立場を、婚姻前に明文化している」
次は帰省だった。
「年二回、一か月以内。両親が病気などで娘を必要とする場合には、回数も期間も制限しない」
「……そこまで?」
「私としては嬉しいがな。まあ、まだ分かる」
まだ。
このときのお父様は、そう言った。
「令嬢が現在個人で行っている孤児院への寄付については、婚姻後も同額以上を侯爵家予算より支出する」
「……」
「これも話したのか?」
「一度だけ。一年半ほど前に」
「一度」
「はい」
お父様の声が少し低くなる。
三通目までは、オルセン伯爵家に何を与えられるかが書かれていた。
四通目は、私が何を失わずに済むかが、書かれている。
「次。所有する書籍はすべて持ち込みを認め、東棟の一室を保管場所として改装する」
「……全部?」
「何冊ある」
「二百冊くらいでしょうか」
「なぜ侯爵閣下は知っている?」
「二年ほど前、置き場所がなくて困っていると話しました」
「それを覚えていたのか……」
家令が咳払いをした。笑ったのを誤魔化した気がする。
「まだある。私室と寝室には、暖炉に加えて温水式の暖房設備を整備する」
「……」
「お前、寒がりだったな」
「二年前に一度、侯爵領は寒いと聞いて『私は住めそうにありませんね』と冗談を」
「二年前の冗談を拾って屋敷を改修するな……」
その言葉には、私も少し同意した。
でも。
嬉しい。
困るくらい、嬉しい。
「……まだある」
「まだあるんですか?」
「私に聞くな。侯爵に聞け」
次の項目を読み、お父様が完全に無言になった。
「お父様?」
「……お前、王都のラメール菓子店の蜂蜜菓子が好きなのか?」
「好きですけれど」
「侯爵閣下は?」
「三年前の茶会で、美味しいと言ったことがあります」
「それだけか?」
「それだけです」
お父様が条件書を机に置いた。
「毎年取り寄せるそうだ」
「……なぜ婚姻条件書に?」
「私が聞きたい!」
家令が横を向いた。
「『春季限定蜂蜜菓子については、販売期間中、月二回を目安として侯爵邸へ取り寄せるものとする』」
「……」
「伯爵家に何の利益がある?」
「ありません」
「侯爵家には?」
「たぶん、ありません」
「ではなぜ書いてある!」
「私に聞かないでください!」
とうとう家令が吹き出した。
私だって笑いたい。でも、それ以上に顔が熱い。
三年前に一度、美味しいと言っただけ。
それを覚えていた。
「……次が最後だ」
お父様が言った。
「令嬢所有の馬一頭について、婚姻成立後も適切な飼育環境を保証する。高齢によって長距離移送が困難な場合には、オルセン伯爵家で継続飼育し、その費用を侯爵家が負担する」
笑いが消えた。
私の愛馬ミントは十九歳になる。幼い頃から一緒にいる栗毛の牝馬だ。
嫁ぐときは、ここに残すつもりだった。
「ミントのことは?」
「二年前に一度だけ。子供の頃から一緒にいる、大切な馬だと」
「……覚えていたのか」
私は何も言えなかった。
孤児院。二百冊の本。寒いのが苦手なこと。春の蜂蜜菓子。そしてミント。
私自身が話したことを忘れかけていたものまで、あの方は覚えていた。
最後には、こうある。
『以上、リディア・オルセン個人に関する各条件については、婚姻成立後も本人の同意なく変更しないものとする』
お父様はしばらく黙っていた。
「……リディア」
「はい」
「お前、この男にどれだけ自分の話をした?」
「そんなには……」
「二百冊の本も、寒がりなのも、好きな菓子も、十九歳の馬も知っているぞ」
「……私にも、どうしてそこまで覚えているのか」
お父様が条件書を指差した。
「薬草園までは分かる。孤児院も、本も、暖房も百歩譲ろう。だが菓子は何だ!」
「私も分かりません!」
「三年前に一度うまいと言った菓子を毎年取り寄せることの、どこが婚姻条件だ!」
私は答えられなかった。
それについては、私も聞きたい。
そして、お父様はとうとう机を叩いた。
「娘を婚姻条件書で口説くな!」
私の顔は、たぶん真っ赤だった。
◇
お父様は、その日のうちに返書を書いた。
『婚姻条件について直接協議したい』
六日後、アーヴィン様が我が家へやってきた。
応接室には、お父様と私、そしてアーヴィン様。
「四通目の条件は、すべて侯爵閣下ご自身がお決めになったのですか?」
「はい。細部は家令や法務官に確認させましたが、条件はすべて私が指定しました」
「……蜂蜜菓子も?」
「はい」
即答だった。
お父様が一瞬だけ目を閉じる。
「左様ですか」
家ではあれほど騒いでいたのに、侯爵本人を前にすれば、当然ながらお父様も伯爵としての礼節を崩さない。
「では、一つ伺いたい。なぜ、ここまでなさるのです?」
「オルセン伯爵家にとって、私との婚姻を最良の選択にするためです」
あまりにも真っ当な答えだった。
「商館も、エリックの件も、薬草園も理解できます。四通目についても、侍女や財産の保証までは分かります」
「はい」
「ですが、蜂蜜菓子まで婚姻条件に必要でしょうか?」
初めて、アーヴィン様が黙った。
「……必要では、ありません」
「でしょうな」
「ですが」
アーヴィン様が私を見る。
「喜ばれるかと」
私は両手で顔を覆った。
お父様は小さく息を吐いてから、さらに尋ねる。
「では、十九歳になる娘の馬。その老後まで保証なさる理由は?」
また沈黙。
やがてアーヴィン様が、私をまっすぐ見た。
「……ここから先は、婚姻条件書には書けません」
心臓が大きく鳴った。
「私は、オルセン伯爵家との婚姻を望んでいるのではありません。リディア嬢との婚姻を望んでいます」
息をするのを忘れた。
「あなたが大切にしているものを、私との結婚を理由に失わせたくありません」
「だから、全部覚えていたのですか?」
「はい」
「三年前の蜂蜜菓子まで?」
「美味しいと三回おっしゃいました」
「三回?」
「一つ召し上がる間に」
そんなところまで覚えているの、この方。
お父様が片手で顔を覆った。
アーヴィン様は、それでも真面目な顔を崩さない。
「ですが、私は侯爵です。あなたも伯爵令嬢だ。私があなたを望んでいるというだけで、伯爵閣下に娘を嫁がせていただくわけにはいきません」
彼はお父様へ向き直った。
「ですから、オルセン伯爵家にとっても、リディア嬢にとっても、私を選ぶことが最良になる条件を提示しました」
「それで、三度も条件書を改められたと」
「はい」
お父様がため息をついた。
「……なるほど。ようやく腑に落ちました」
私は笑ってしまった。
私が好きだった人は、私が思っていたよりずっと前から、私を見ていてくれた。
「アーヴィン様。一つだけ、私からも条件があります」
「伺います」
「次からは、条件書を書き直す前に私に直接お話しください」
アーヴィン様が固まった。
「……努力します」
「努力なのですか?」
「こういうことを直接伝えるのは、得意ではありません」
「知っています」
だから私は笑った。
「では、練習しましょう。時間なら、これからたくさんありますから」
アーヴィン様も、ようやく笑った。
◇
それから一か月後。
私とアーヴィン様の婚約が正式に成立した。
薬草園も続けられる。二百冊の本のため、本当に東棟の一室を改装しているらしい。ミントは高齢を考慮して実家に残り、春になれば、あの蜂蜜菓子も届く。
婚約成立から十日ほど後、アーヴィン様から一通の手紙が届いた。
便箋三枚。
商館の準備。侯爵領の近況。薬草の販路。
相変わらず真面目な内容ばかり。
けれど最後に、たった一行。
『あなたを妻に迎えられる日を、心から楽しみにしています』
私はその一行を三度読んだ。
それから手紙を胸に抱えているところを、お父様に見つかった。
「今度は手紙で口説いているのか」
「これはいいんです」
「そうか」
「はい」
条件書には書けない言葉。
今度はちゃんと、私に届いた。




