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国王の毛玉

掲載日:2026/08/23

 中学校までは、自分が人見知りだという自覚すらなかった。


 地域の小学校からそのまま繰り上がった教室には、幼稚園の頃から同じ泥で遊んできた顔馴染みばかりが揃っていた。誰がどんな場面で怒り、どの駄菓子を好み、どんな冗談で笑うかを知り尽くした狭い世界の中では、河野はそれなりに口数の多い、社交的な少年の顔をして過ごすことができた。


 明確な歪みが生じたのは、自転車で三十分かかる県立高校へ進学してからだった。


 四月、新しい制服を着て踏み込んだ教室には、誰も自分を知らない四十人分の視線が落ちていた。自分がどんな人間かを一から証明しなければならないという膨大な作業を前にして、河野の喉は乾ききり、言葉は唇の裏側で固まった。


 人目を恐れた河野が選んだのは、目立つ浮いた存在になることではなく、徹底的に風景に溶け込むことだった。聞かれれば差し障りのない愛想笑いを返し、特定のグループに深く入ることもなく、クラスの平均値の影に隠れるようにして三年感をやり過ごした。誰の記憶にも残らない「透明な生徒」として、彼の高校生活は終わった。


 大学へ進み、地元の建設会社の総務課に就職してからも、その距離感は縮まるどころか、年々硬化していった。


 三十歳になり、久しぶりに顔を合わせた学生時代の仲間たちは、かつてクラスの隅で俯いていたはずの者も含め、手慣れた手つきでビールを注ぎ合い、仕事の愚痴や結婚生活についての「いかにも大人らしい雑談」を滑らかに乗りこなしていた。


 河野だけが違っていた。


 一見すると、彼は人当たりが良く見える。求められれば愛想笑いを浮かべ、失礼のない挨拶を返す技術だけは手に入れたからだ。しかし、四人以上の人間が集まる場に置かれた瞬間、河野の思考は完全に停止する。何か意見を求められても、「ああ、確かにそうですね」「みんなが良いならそれが一番ですね」といった、白紙のような言葉しか吐き出せなくなる。


 傷つかない位置まで後退し続けるうちに、彼は自分という人間の輪郭そのものを、部屋の隅に転がる埃の玉のように丸めてしまっていた。


 人はもう、変わらないのだろう。


 実家から車で十分ほどの古い木造アパートで一人暮らしをしながら、河野はそう思っていた。諦めというよりは、長年使い込んだ湿った畳の匂いに納得するような冷めた心地だった。


 三十歳の誕生日の帰り道、郊外のペットショップでジャンガリアンハムスターを一匹買った。指の第一関節ほどしかなく、触れれば潰れてしまいそうなその小さな毛玉に、河野は「カンタ」と名付けた。


 それから半年ほど、河野とカンタの静かな生活が続いた。


 仕事から帰り、ケージの前に座ってひまわりの種を渡すと、カンタは小さな両手でそれを受け取り、無心で頬張った。言葉を交わす必要もなく、自分の佇まいを品定めされることもない。深夜、暗闇の中でカンタが回し車を回すカラカラという音を聞きながら眠りにつく時間が、三十年間で初めて訪れた、誰の目も気にする必要のない平穏だった。


 出火したのは、そんな秋の夜だった。


 一階の住人が使っていた古いストーブからの火だった。黒い煙が床の隙間から立ち上り、部屋に充満したとき、河野は避難経路を探すよりも先に、ケージの中にいたカンタを両手で包み込んでいた。助けたいという崇高な意志があったわけではない。ただ、自分の佇まいを値踏みしない唯一の存在を失うことが怖かったのだ。


 湿った煙を吸い込み、畳の上に倒れ込んだとき、手のひらの中でトクトクと激しく打っていた小さな心臓の感触が、河野の意識に残った最後の現実だった。


---


 目を覚ますと、そこは高い天井と、巨大な大理石の柱が立ち並ぶ見知らぬ広間だった。


 自分が豪奢な玉座に腰掛けていることに気づき、河野は慌てて立ち上がろうとした。しかし、視線を足元へ落とした瞬間、彼の思考は再び凍りついた。


 玉座の階段の下から部屋の隅々に至るまで、足の踏み場もないほどに無数の毛玉がひしめき合っていた。


 ジャンガリアン、ゴールデン、ロボロフスキー。色も模様も様々なハムスターたちが、直立し、あるいは重なり合いながら、クリクリとした漆黒の瞳で一斉に河野を見上げていた。


「王様がお目覚めになられたぞー!」


 先頭にいた、体長三十センチほどのゴールデンハムスターが、甲高い声で叫んだ。


「おめでとうございます!」「王様、お体は大丈夫ですか!」「ひまわりの種をお召し上がりになりますか!」


 地鳴りのような歓声を上げながら、数百匹のハムスターたちが一斉に玉座の階段を駆け上ってきた。巨木のような河野の足元に群がり、ズボンの裾を引っ張り、靴の上に登り、鼻先をひくひくと動かして彼の匂いを嗅ぎ始める。


「あ、いや……あの……」


 河野の喉がヒリつき、声が上擦った。自分が人間の姿のまま、巨大な異物としてこの場所に座っているのだと気づく。


「ここは、ハムハム共和国であります!」


 膝の上に飛び乗ってきたゴールデンハムスターが、遠慮というものを一切知らない距離感で顔を覗き込んできた。


「我らは、火災の煙から同胞をかばって命を落とされた貴方様の高潔な魂に敬意を表し、我が国の第一代国王としてお迎えいたしました! さあ、王様! 命令をくだされ!」


 もふもふとした毛並みが指や首筋に触れる。温かく、ほんのりと乾いた風の匂いが鼻を突く。彼らは愛くるしく、過剰なほどになれなれしかった。


「ええと……」


 数百の円く黒い瞳が、期待に満ちて自分に注がれている。焦燥感から、河野はあの不毛なまでに「当たり障りのない」言葉を口にした。


「みんな……その、元気に過ごしてくれれば、それで……」


「素晴らしい!」「なんという寛大な御心!」「元気に過ごせばいいのだ!」「うおー! ひまわりの種を食べまくるぞー!」


 ハムスターたちは大歓声を上げ、玉座の周りをぐるぐると走り回り始めた。


 †


 朝、起きて「あ……おはよう」と言えば、「王様が朝の光を祝福された!」と群衆が沸き立った。昼、何をすればいいか分からず「ちょっと……休みたいかも」と呟けば、「王様が休息という深遠な哲理を示された!」と臣下たちが深々と頭を垂れた。


 彼の曖昧さは「深謀遠慮」と呼ばれ、彼の口数の少なさは「沈黙の威厳」と解釈された。


 ある午後のことだった。大理石の広場に集まった数百匹のハムスターを前に、河野はポツリと言った。


「今日は……誰とも話したくないんだ」


 膝の上のゴールデンハムスターが、瞬時に眼を見開いた。


「王様が『静寂』をご所望だー! 全員、息を潜めよ!」


 次の瞬間、広場から一切の音が消えた。


 数百匹のハムスターたちがその場に立ち尽くし、ピタリと動きを止めた。彼らは巨大な河野から正確に三メートルほどの距離を保ち、幾重もの円陣を作って取り囲んでいた。一匹として喋らず、一匹として近寄らない。


 ただ、光の差さない無数の小さな黒い瞳だけが、まばたき一つせずに河野を見つめ続けていた。


 風すら止まったような広場の中心で、河野は息を詰めた。人間世界でずっと欲していたはずの、完璧な孤独だった。周囲を埋め尽くす数百の視線は、ただ「王の命令」という枠組みを機械的に満たしているだけだった。


 河野はポケットの中で、指の関節が白くなるまで拳を握りしめた。


「もう……いいよ」


「王様がお許しになったぞー!」


 一瞬にして地鳴りのような歓声が復活し、毛玉たちが再び河野の足元へ押し寄せてきた。温かい体温が靴を覆い、ぬるい鼻先が脛を擦る。


 河野はゆっくりと歩き出した。足元を埋め尽くす毛並みを避けるように、慎重に足を運ぶ。


 どこへ行っても大歓声が巻き起こっていた。


 河野は立ち止まり、自分の大きな手のひらを見つめた。半年間、毎晩のように触れていたカンタの体温が、皮膚の奥にうっすらと残っている気がした。


「王様、次はどこへ行かれますか!」


 膝の上のゴールデンが、ヒゲをピンと張って尋ねてくる。


 河野は答えず、静かにしゃがみ込んだ。


 靴の脇で、一匹の小さなジャンガリアンが鼻先を擦り寄せていた。河野は両手を伸ばし、潰してしまわないよう注意しながら、その体を掌で包み込んだ。


 トクトクと、小さな心臓が打っていた。


「……カンタ」


 河野が呟いた。


「王様が何かおっしゃったぞ!」「カンタとは何だ!」「新しい法律か!」「ひまわりの種のことか!」


 周りのハムスターたちが、いっせいに騒ぎ立てた。手のひらの中の毛玉は、人間の言葉の意味など何一つ理解していない顔で、ただ河野の指先を小さく舐めた。


 河野は立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。無数の歓声の真ん中を、手の中の温もりだけを感じながら、どこへ向かうでもなく歩いていった。

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