クロスオーバー短編:大丈夫の残高 「その感謝は劇薬」×「キッチンコンロと左手のレフトさん」
——大丈夫。
今日もう三回言った。まだ朝なのに。
——いや別に、「今日の天気大丈夫かな」とか「洗濯大丈夫かな」とか、そういうの込みだけど。
十二月二十九日。仕事納めが昨日終わって、今日から年末休み。
六時に目が覚めた。休みなのに。身体がまだ出勤モードを覚えてる。
(よし! せっかくだし早起きの日を有効活用しよっと)
掛け布団を剥がしてベッドを整えて、顔を洗って、コーヒーを淹れた。
休みの日はハンドドリップ。お湯を細く注いで、粉がぷくっと膨らむのを見るのが好き。
——コーヒーカップを持ち上げたとき、手がかすかに震えた。
(寒っ。暖房つけよ)
リモコンを取って、エアコンをオン。カップを両手で包み直して一口。
うん、おいしい。今日のはよく淹れられた。
仕事納めの日、プロジェクトマネージャーに「天野さん、年末年始はゆっくり休んでね」と言われた。
「はい、大丈夫です!」
(ゆっくりかあ。ゆっくりって具体的に何すればいいんだろ。まあいいや、とりあえず動こう)
スマホでToDoリストを開いた。大掃除、年賀状、溜まった洗濯——やること全然あるじゃん。
あと今日おばさんの家に行けるなら、手土産も買わなきゃ。休みって言っても暇にはならないな。
◇ ◇ ◇
母からメッセージが来ていた。
『今日おばさん家、やっぱり来れそう? お父さんが車出すけど』
前から話には出ていた。二十九日に叔母の家に親戚で集まるって。
ただ仕事が年末ギリギリまで読めなかったから、「行けたら行く」とだけ返してあった。
(仕事納め終わったし、行ける行ける! 望にも会えるかな)
『行く! 何か手土産持ってった方がいい?』と返した。母から『なにかおすすめある?』と返信。
はいはい。じゃあ駅前の和菓子屋さんに寄ろう。あそこのきんつば、おばさん好きだったし。
クローゼットを開けて服を選んだ。白のニットに紺のスカート。うん、いい感じ。
テーブルにスタンドミラーを立てて、メイクを始めた。下地、ファンデ、コンシーラー。
目の下のクマを丁寧に消す。チークをいつもより気持ち多めに入れて、血色をよく見せた。
眉を整えて、マスカラを塗って、リップは明るめのコーラルピンク。
鏡の前でちょっとだけポーズを取った。
(うん。ちゃんとしてる。)
「大丈夫、今日のわたしいい感じ」
——四回目。
自分で自分を褒めるスタイル。これ大事。
◇ ◇ ◇
車の後部座席で、母と喋っていた。
「お母さん、おばさん家着いたら何手伝えばいい?」
「あんたねえ、着く前から張り切らなくていいのよ」
「だって何もしないで座ってるの苦手なんだもん」
「それは知ってるけど……」
母がチラッとこっちを見た。
「最近あんた、ちょっと痩せたんじゃないの」
「えー、そう? 嬉しい」
「褒めてないわよ。ちゃんと食べてるの」
「食べてるよー。昨日も納会でケータリング出て、いろいろつまんだし」
(……何食べたっけ。サンドイッチと、唐揚げと……あれ、あんまり覚えてないな。まあ、食べたのは食べた)
「食べてるよ、ちゃんと」
窓の外を見た。冬の空が高くて明るい。いい天気。ドライブ日和だ。
——ふいに、景色がぐらっと揺れた。
(……ん?)
一瞬だった。車が段差を越えただけかもしれない。
目を瞬きしたら、もう元通り。
(気のせいか)
母が手土産の話をしている。和菓子屋の営業時間が気になるらしい。
スマホで検索した。年末もやってる。よかった。
◇ ◇ ◇
叔母の家に着いた。
玄関を開けた瞬間、人の気配と食べ物の匂いと暖房の温度がぶわっと押し寄せてきた。
(わ、あったかい。いい匂い)
「あら、咲希ちゃん! 来てくれたの!」
叔母が笑顔で迎えてくれる。
「忙しいのにありがとうね、お仕事大変でしょう」
「いえいえ、全然大丈夫です! はい、これお土産。きんつば」
——五回目。
「まあ! 気が利くわねえ、ありがとう」
(嬉しい。やっぱり人に喜ばれるのが一番嬉しい)
靴を脱いで、廊下を歩いて、リビングに入った。叔父がテレビを見ている。祖母がこたつにいる。
そして、ソファの端に、望がいた。
◇ ◇ ◇
望は高校一年になっていた。最後にちゃんと会ったのは夏の盆だったと思う。
そのときより背が伸びていて、少し大人びた顔になっていた。
「あ、咲希姉」
「望! ひさしぶり! おっきくなったね。身長いくつになった?」
「……170くらい」
「えーすごい。わたしもう抜かれたじゃん」
望はちょっと困ったように目をそらした。褒められ慣れてない感じがかわいい。
この子はもともと喋るほうじゃない。必要なことだけ言って、あとは黙っている。
昔からそう。お盆や正月に会うたび、大人たちの会話に混ざらず隅っこで漫画を読んでいた。
でもわたしが隣に座ると、読んでるページをちょっとだけこっちに向けてくれたりする。口数は少ないけど、話しかければ目はちゃんとこっちを見てくれる。
(なついてくれてるんだなって思うと、なんかちょっと嬉しい)
「望、あとでゲームしようよ。二人で」
「……別にいいけど」
(お。乗ってきた)
こたつの端に座った。叔母がお茶を出してくれた。ほうじ茶。湯気が立っている。
「あったかーい。おいしい」
幸せ。あったかい部屋であったかいお茶。ただそれだけのことが幸せだ。
◇ ◇ ◇
おせちの準備を手伝うことになった。
正確には、叔母が「咲希ちゃん座ってていいのよ」と言うのを断って、自分から台所に立った。
「いえいえ、手伝わせてください! 料理好きなんです」
(嘘じゃない。手を動かしてるのが好き。何かの役に立ってる時間が好き)
栗きんとんの裏ごし。煮物の下ごしらえ。紅白なますの千切り。
手順を頭に並べて、てきぱきこなす。こういうの得意。仕事で複数タスクを回すのと同じだ。
「咲希ちゃん手際いいわねえ!」
「えへへ、ありがとうございます」
嬉しい。褒められると力が出る。もっと手伝いたくなる。
さつまいもの裏ごしに取りかかった。力がいる作業。ぐっと押し込んで、ヘラで——
——視界が、落ちた。
突然だった。目の前が暗転して、手から力が抜けた。ザルが傾いて、さつまいもがこぼれ——
(——っ!)
咄嗟に掴み直した。さつまいもが少しこぼれただけで済んだ。
「咲希ちゃん、大丈夫?」
「あっ、大丈夫です! 手が滑っちゃって。すみません、もったいない」
——六回目。
(なに今の。立ちくらみ? ——ずっと立ちっぱなしだったし。冬だし、血圧の問題。うん)
笑って、こぼれたさつまいもを拾った。
なんでもない。すぐ治った。ほら、もう平気。
(次、煮物。出汁の味見して——)
ふと振り返ると、台所の入り口に望が立っていた。
「……望? どうしたの、何か食べたい?」
「いや……なんでも」
何か言いかけて、やめた。そのまま戻っていった。
(なんだろ。まあ思春期だしね)
味見用のスプーンを取って、煮物の出汁をひと口。
うん、おいしい。叔母さんの出汁、やっぱり好きだなあ。
◇ ◇ ◇
夕方。鍋をみんなで囲んだ。
わたしの席は望の隣だった。大人チームがテーブルの上座を占めていて、子供チームがこたつ側に追いやられた形だ。
「わたし子供チーム? 二十九歳なんですけど」
「いいじゃない、若い方がいいわよ」
「はいはい」
笑って、鍋の具を取り分けた。まず祖母に。望にも。
「咲希姉、自分の取ったら」
「うん、今取る。——はい望、白菜多めね」
「……多い」
「食べ盛りでしょ」
わたしも自分の分を取った。白菜、豆腐、鶏肉。口に運ぶ。
——味がしない。
噛んで、飲み込んだ。
熱いのはわかる。食感もわかる。でも、なんか味が薄い。
(あれ? 薄いとこ取っちゃったかな。スープ偏ってた?)
もう一口。鶏肉。うーん、やっぱりぼんやりしてる。
(さっき台所で味見した時は普通だったのに。……あ、舌やけどしたのかも。猫舌なのに急いで食べるからだ)
お茶を一口飲んで、箸を動かし続けた。
「咲希ちゃん、もっと食べなさいよ。痩せたんじゃないの」
「えー、もう食べてますよ。見てくださいこの白菜の山」
箸で白菜を持ち上げて見せた。叔母が笑った。
母がチラッとこっちを見た。
何か言いたそうな顔をして、でも親戚の前だからか、何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
望が、変な目でわたしを見ていることに気づいたのは、そのあたりだった。
変な目、というのは正確じゃない。——見ているところがおかしい。
わたしの顔を見ているようで、視線が微妙に上にずれている。わたしの額のあたり、というか、頭の上あたりをじっと見ている。
(何? 髪に何かついてる? ……っていうか、男子高校生なんだからもうちょっと見るとこあるでしょ。見られても困るけど)
さりげなく前髪を手で整えてみた。望の視線は変わらない。
ぼんやりとした、焦点の合わない目。何かを見ているようにも、見えないものを追っているようにも見える。
「望、鍋もう一杯いる?」
「いい。……姉ちゃんは?」
「わたし? もうお腹いっぱい」
「……あんまり食べてないけど」
「え、食べたよ? 白菜めっちゃ食べた。見てなかったの?」
(食べた。食べたよ。——あんまり味しなかったけど、ちゃんと食べた)
望はうなずいた。でも目はまだわたしを見ていた。わたしの少し上を。
何かを必死に読み取ろうとしているみたいに。
(……何だろ。何見てるんだろ、この子)
◇ ◇ ◇
デザートのみかんを剥いていたとき、叔父が声をかけてきた。
「咲希、仕事のほうはどうだ。IT系だっけ? 忙しいんだろう」
「そうですね、おかげさまで! やりがいあって楽しいですよ」
(嘘じゃない。楽しいのは本当)
(毎日残業して、休日も対応して、「天野さんがいるから助かる」「天野さんなら大丈夫でしょ」って言われるたびに——嬉しい。本当に嬉しい)
(もっと「ありがとう」が欲しくて、また引き受けて、また感謝もらって。楽しい。……楽しいよ)
「お正月はゆっくりできるのか」
「はい! ちょっとだけ仕事入ってますけど、まあ大丈夫です」
「まあ、無理しないようにな。身体が資本だからね」
(お、叔父さんが優しいこと言ってる。珍しい)
「ありがとうございます! でもわたし体力だけは自信あるんで、バリバリいきますよ」
叔父が笑った。わたしも笑った。みかんの房を口に入れた。
酸っぱい。
(あ、酸っぱいのはちゃんとわかる。ほらね、さっきの鍋は猫舌のせいだったんだ。味覚は正常。問題なし!)
◇ ◇ ◇
八時頃、わたしはキッチンで洗い物をしていた。
「洗い物わたしやりますね!」と自分から手を挙げた。
(だって食べた分は働かないと。それにみんなが寛いでるの見てると幸せだよね。わたしが裏方やって、みんなが笑ってる。最高じゃん)
皿を洗う。スポンジで擦る。すすぐ。水切りに置く。次の皿。
冬の水道水が冷たい。指先が痺れるくらい冷たい。
(うわ、つめた。でも目が覚める感じで嫌いじゃない)
——ふいに、手が止まった。
止めようと思って止めたんじゃない。
勝手に止まった。
スポンジを握ったまま、水が流れているのをぼうっと見ている。
何秒か、何十秒か。時間の感覚がなくなって、頭の中が——
——何も、ない。
何も考えてない。何も感じない。水が流れている。ただ水が流れている。わたしの手が止まっている。動かし方がわから——
「姉ちゃん、手伝う」
——ッ。
はっと我に返った。
「あ、望! いいよいいよ、もうすぐ終わるし!」
(——え? 今わたし何してた? どのくらい止まってた?)
振り返ったら、望がタオルを持って立っていた。
「いい。拭く」
「そう? じゃあお願い、助かる!」
(大丈夫。ちょっとぼーっとしただけ。疲れてるんだ、年末だし)
横に並んで、わたしが洗った皿を望が受け取って、黙って拭いていく。
しばらく無言だった。
不思議と心地よい。水の音と、タオルが食器に触れる音だけがある。
(……なんだろ。落ち着くな。何でもない時間なのに)
——あれ。目の奥が、ちょっとだけ熱い。
なんで。何もないのに。望が隣にいるだけなのに。何がそんなに——
(やだ。なに。疲れ目だ。パソコンの見すぎ)
ぱちぱちと瞬きした。治った。うん、大丈夫。
「……姉ちゃん」
「ん?」
「大丈夫?」
ぽつっと、短い言葉だった。重くもなく、軽くもなく。ただ聞いてみた、くらいの温度。
「大丈夫だよ。なに、心配してくれてるの?」
「……別に」
「えー、心配してよ。お姉ちゃんだよ?」
冗談っぽく笑ったら、望は何も答えなかった。
ただ、手が一瞬止まったのが、視界の端で見えた。
(あ、今——何か言いたかったのかな)
でも望はそれ以上何も言わなかった。
皿を拭く手を再開して、黙ったまま最後まで付き合ってくれた。
◇ ◇ ◇
叔母の家を出るとき、望が玄関まで見送りに来ていた。
「咲希姉」
「ん?」
望が口を開いた。何か言おうとして——止まった。
唇が動いて、息が漏れて、でも言葉にならなかった。
数秒の沈黙。
「……また」
また。
それだけだった。「また会おうね」でも「またね」でもなく、「また」で止まった。
続きを飲み込んだみたいな、中途半端な言葉。
「うん、また! お正月も来るかもよ」
笑って手を振った。
車のドアを閉める直前、望の顔を見た。
玄関の明かりに照らされた、十五歳の男の子。
何かを必死に堪えている顔をしていた。
(何を?)
わからない。わたしには何も見えない。
この子が何を見て、何を感じて、何を言いたくて言えなかったのか、わからない。
でもあの目は——わたしの顔じゃなく、わたしの少し上を見ていた。最後まで。
(変わった子だなあ。……でもいい子だ、ほんとに)
ドアが閉まった。
◇ ◇ ◇
帰りの車の中で、後部座席に座って窓の外を見ていた。
街灯が等間隔に流れていく。信号が赤から青に変わる。
年末の道は空いていて、父の運転は穏やかで、母はもう助手席でうとうとしている。
(今日、楽しかったな)
おばさんの手料理おいしかったし、おばあちゃん元気だったし、望と皿洗いしたのも楽しかった。
(……あ、ゲームする時間なかったな。まあ、次会ったときでいいか)
目を閉じた。
帰ったらシャワー浴びて寝よう。明日は三十日。あさっては大晦日。その次は元旦。
そしてもう一月二日には会社。リリース対応。
(さすがに三が日くらい休みたかったけど、まあしょうがない。わたしがやらなきゃリリース止まるし。チームのみんなは休ませてあげたいし)
◇ ◇ ◇
部屋に帰った。
電気をつけて、コートを掛けて、スウェットに着替えた。
(シャワー浴びよ。——いや、ちょっとだけ座ってから)
ベッドに座った。
——立てなくなった。
(あれ)
立とうと思っている。シャワー浴びなきゃと思っている。
でも身体が動かない。お風呂場までの数メートルが、とてつもなく遠い。
(……疲れたのかな。まあいいや、明日浴びよう。一日くらい平気平気)
そのまま掛け布団を引っ張って潜り込んだ。
スマホを開いた。職場のチャットアプリに通知が1件。
(お、何だろ)
開いた。
『年末年始のシフトについて確認です。天野さん、1/2のリリース対応よろしくお願いします。』
一月二日。正月二日目。
(——オッケー)
指が動いた。迷いなく。
——大丈夫です、対応します!
打った。送った。既読がついた。スタンプが返ってきた。
ありがとうございます、助かります。
(よし。頼りにされてる。わたしがいないと回らないんだから、がんばらないと)
スマホを伏せた。
目を閉じた。
——望の顔が浮かんだ。「また」と言って止まった声。わたしの頭の上を見ていた視線。
(あの子、何が見えてたんだろ。わたしの上に何かあった? ……ないよね。何もないもん)
天井を見た。
一人暮らしのワンルームの天井は、いつ見ても同じ高さで、同じ色で、何も返してくれない。
(——あ、そういえば今日「大丈夫」何回言ったっけ。朝数えてたのに、もう忘れちゃった)
(まあいいや。明日は何しよう。大掃除の続きと、年賀状と、買い出しと——)
そう思った瞬間、ふっと、頭の中が真っ白になった。
一秒。いや、もっと短かったかもしれない。
思考が途切れて、天井の色が消えて、何も感じなくなって——
戻った。
天井。時計の音。暖房の唸り。
(——ん? 寝落ちしかけた? まあいっか。疲れてるんだ、早く寝よ)
(明日も元気にがんばろ!)
目を閉じた。
——あとどのくらい、残ってるかな。
何が? わからないまま、眠りに落ちた。




