一
* インスピレーションはtuki.の曲『晩餐歌』から得ました
* 主人公は映画『マザー(2020)』がモチーフです
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真夜中の雷鳴に周永は跳ね起きた。朦朧とした意識の中で、自分がまだ十四歳の夏の夜のように橋の下でびしょ濡れになっている錯覚に襲われた。妹の泣き声が耳朶にこびりつき、母のうんざりしたような愚痴が絶え間なく続く。冷たい手で妹を抱きしめながらも、泥まみれのズボンに気付かない自分がそこにいた。
悪夢のような光景が再現されたことに震え上がり、右腕を壁にぶつけてはっと我に返った。大丈夫だと自分に言い聞かせる。今は行政支援の単身部屋に住んでいて、安全なんだ、何も起きないと。
しかし窓の外では雷鳴と稲妻が相変わらず続いていた。東京のうっとうしい梅雨のせいだ。眠れない周永が起き上がって水を飲むと、稲光りに照らされた本の山が目に入った。
床に座り込み、そっと本を開くと、どのページにも蟻の行列のような数式がびっしりと記されていた。扉頁に麗しい字で「周永君へ 香澄」とある。その文字を指先でなぞりながら、初めて会った日の光景が脳裏に浮かんだ。
「こんにちは、堀切香澄です。学校と行政の児童支援プロジェクトでボランティアに来ました。よろしくね!」キラキラと光る東京大学新聞部の名札を胸に、香澄が微笑んだ。午後三時の陽光が揺れる髪を黄金に染めていた。今思えば、あの光のように、周永の廃墟と化した心の裂け目から突然差し込んできた存在だった。
「周永です」黙って握手を返し、俯いたまま言葉に詰まっていると、香澄が機転を利かせた:「入学時の適性検査、数学すごく良かったじゃない!才能?」
「昔母が…付き合ってた男が問題集くれて。ずっと隠してた。それと…」ますます俯く周永の声が胸元でこもる「金に困ってたから、数字に敏感になった」
ふわりと漂っていた空気が急に重くなった。ボロボロの袖口と汚れた靴を見つめる憐憫の視線に気付き、こんな話をするんじゃなかったと後悔し始めた瞬間、香澄が手を握り返した。
「ずっと辛かったですね。でも、きっとあなたの未来は明るいと信じてます。あなたも信じてくれますか?」
顔を上げると、揺るぎない信念を宿した瞳が真っ直ぐに見つめていた。
こんな言葉をかけられたことはない。母が刑務所に入る前によく言ったのは「もう少し金工面してくれない?」、8歳離れた妹は「お兄ちゃんお腹空いた」、バイト先の店長は「前借りは勘弁してくれ」、通行人は「臭い」。誰も歩むべき道を教えてくれず、未来に期待するよう促す者もいなかった。自分は生まれてきた間違いだと思い続けていた。
春風に乗って鼻先を掠める長い髪。ふと懐が重くなったと思ったら、彼女が差し出した本の山だった。最上部の表紙には「未来は、君の足元に」の文字。
「あなたが自分を信じられなくても、私があなたを信じてるから!」花のような笑顔が咲いた。
少年のひたむきさを込めて、周永は力強く頷いた。
PS: 本作に登場する香澄と神崎は、前作『おくすり』からのキャラクターです。つまり、これらは同一の世界観でつながっています。今後の更新をお楽しみに~(^^)