第102話 運び屋の記憶
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夜の風が冷たく、グレンは肩をすくめてマントの襟を立てた。月のない夜は、記憶がざわつく。
過去を思い出すのに、これ以上ふさわしい舞台はなかった。
それは十数年前のことだ。
まだ名前が“グレン”ではなかった頃。
彼は帝国直属の諜報機関──“影の道”に属する運び屋だった。
任務の内容は極めて単純。
指定された物資、指定された人物、時には密書や遺体までも。
「内容を問わず」「指示通りに」「痕跡を残さず」運ぶ。
それが彼の仕事だった。
任務のたびに報酬は支払われた。金は十分にあったし、宿も女も不自由はなかった。
だが、心には空洞があった。
問いかけてはいけない。想像してはいけない。
「これは何のための任務なのか」──そんな疑問は、“影の道”では命取りになる。
ある日、帝都の地下施設に呼び出された。
「お前にしかできない任務だ」
そう言われて手渡されたのは、黒い革袋と、詳しい移送経路が書かれた巻物。
「今回は“特別便”だ。中身は見なくていい。だが、慎重にな。帝都南部から西方山岳の研究施設まで、途中で目撃されるな」
それだけだった。あまりにも簡素な指示。だが、勘が告げていた。
(これは……いつもとは違う)
その予感はすぐに現実となった。
彼が受け取った“荷物”は、人間だった。
十歳前後の少年。
顔には布が巻かれ、手足は拘束されていた。
震える体。言葉も出さず、ただ怯えた様子で身を丸めていた。
「こいつを運ぶのか……?」
思わず呟いたその声すら、地下施設の冷気に飲まれて消えた。
それでも任務は遂行された。
馬車を使い、夜道を進み、帝国の哨戒網を潜り抜け、外部と隔絶された研究所へ。
道中、一度も荷物を開けず、声をかけることもなかった。
(何も考えるな。ただ運べ)
何百回も自分に言い聞かせた。だが、馬車の揺れの中で聞こえる微かなすすり泣きが、グレンの心に小さな亀裂を刻んでいった。
そして──その少年は、二週間後に死亡した。
「異世界召喚者だったらしい」
情報は、風のように密やかに広がった。
研究施設で“転移魔法”の実験台にされ、魔力が暴走し、肉体が内部から崩壊したという。
グレンはその報せを聞いた瞬間、胃の中に氷を流し込まれたような寒気を感じた。
(俺が……運んだ)
何も知らず、何も疑わず、ただ命令に従った結果、あの少年は──殺された。
胸の奥に、黒くてどろどろとした罪悪感が湧いた。
だが、当時の彼はまだ“運び屋”だった。
辞めることは、死を意味する。
帝国の諜報部を抜ける者は、例外なく“処理”される。
それは暗黙の了解であり、鉄の掟だった。
──それでも、グレンは逃げた。
ある晩、任務に向かうふりをして、帝都を離れ、装備と身分証をすべて焼却し、偽名を名乗って姿を消した。
名も、過去も捨てた。
それが彼にできる唯一の“贖罪”だった。
アドリスの裏社会に潜り込み、生きる術を学んだ。
初めは情報屋に利用され、詐欺に遭い、拷問まがいの借金取りに追われもした。
だが、それでも生き残った。
やがて、持ち前の用心深さと観察力、そして帝国式の機密輸送技術が裏稼業で評価されるようになった。
いつしか、グレンという名が“密輸の仲介人”として知れ渡る。
だが、彼自身にとっては──今も、運んだあの“少年”の存在が棘のように心に残っていた。
他人の命を運ぶということが、どれほど重いことか。
あの時に知っていれば、今のような生き方はできなかっただろう。
そして現在──。
「……まさか、こんな形でまた“異世界人”と関わることになるとはな」
宿のベランダから夜空を見上げながら、グレンは呟いた。
シャム──妙に人を見抜く目をしている青年。
戦場の風を纏ったような気配と、明確な“目的”を持つ目の色。
グレンにはわかっていた。
(あの少年は、ただの商人じゃない。俺と同じように、帝国に一度“踏みにじられた者”だ)
だからこそ、手を貸した。
そして──彼の背後にいる、もう一人の“異世界人”にも興味を抱いた。
もし、その力が本物なら──。
あの時、助けられなかった少年の分まで、“選ばれし者”に自由な道を歩んでほしいと、どこかで願っていたのかもしれない。
グレンは、静かに煙草を取り出し、火をつける。
一服の煙が夜空に溶けていく。
「……せめて、次の運び先は、“希望”であってくれりゃいいな」
独り言のように、呟いた。
その言葉は、夜の闇に吸い込まれ、誰にも届くことはなかった。
だが、彼の心の奥底には、確かに変化があった。
もう、ただの“運び屋”ではない。
今度こそ──自分の意思で選んだ道を、歩んでいる。
(俺は、もう過去に縛られない)
そう誓うように、グレンは目を閉じた。
夜は、なお深く。
そしてその先に続く道には、確かに新たな希望の灯が揺らめいていた。
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