雨傘の追憶
陶器製のひんやりした傘立ての中、遠い雨音に思いを馳せていたある日。
ドアベルの余韻と共に真っ直ぐこちらへ向かって来たのは、一人の青年だった。
私を優しく手に取り、遠慮がちに開くも、値札を見て目を見張る。畳もうかどうしようか、少し躊躇っている様子だが、くるりと回しながら私を見上げていた。
「素敵な傘でしょう」
青年の背後から声を掛けたのは、この骨董品店の主人。現在の私の持ち主である。
「……ええ。窓から見えて気になったもので。ちょうど雨にも降られてしまいましたし」
そう答える青年の金髪には、確かに細かい雨粒が光っている。
「戦前の品なんですよ。ほら、ここに皇室の紋章が入っているでしょう。街に置かれていた貸し傘です」
「貸し傘……ああ、聞いたことがあります」
「戦火を免れた、大変貴重な品なんです。しかも染みや傷みもない。こんなに状態の良い物は滅多にないんですよ」
「そうか……それでこんなに良いお値段なんですね」
少し気まずそうに言う青年に、店主は微笑む。
「そうですね。これでも大分お値下げしているのですが」
「恋人が好きそうなデザインだなと思ったのですが……高価すぎて、私には手が出せません」
青年は笑いながら、丁寧に傘を畳む。私の身体……柄と呼ばれる部分を握る彼の手は、とても温かく心地好い。この温もりと離れて、また冷たい傘立てに戻らなければいけないのかと思うと、寂しくて堪らなかった。そんな私と青年を交互に見て、店主は思わぬ言葉を口にする。
「では半額……いえ、もう少しお安くして……このお値段ではいかがでしょう」
指で値札の0を一つ消す店主に、青年はまたもや目を見張る。
「そんな……こんなに!?」
「ええ。実はこの傘は、大変良い品であるにもかかわらず、今まで誰の手にも取っていただけたことがないんです。こうして雨の日は目に付く窓際に置いたりしているのですが、もう何年も売れ残っていましてね」
「そうなんですか……こんなに素晴らしいのに、何故でしょうね」
「私も不思議で仕方ないのです。ずっと売れ残って可哀想だと思っていましたが、もしかしたらこの傘自身が持ち主を選んでいたのかもしれません」
「持ち主を?」
「ええ。……ほら、あなたの手に取ってもらえて、すごく嬉しそうだ」
青年は私をじっと見下ろすと、「そう言われればそんな気がします」と微笑みながら、軽やかに財布を取り出した。
◇
遠い昔、私が居たのは、乗り合い馬車の停留所に置かれた傘立てだった。
当時、最先端の技術で作られた雨傘は、馬一頭と交換出来る程の大変な貴重品だった。それまでの傘とは違い、片手で簡単に開き、何より水をよく弾く。機能性だけでなく、当時のドレスデザイナーが一本一本手掛けたその刺繍も、繊細で華やかで美しい。
庶民にはとても手の届かない憧れの品だったが、皇室が気軽に使って欲しいと、首都のあるゆる公共の場に貸し傘として配布したのだ。
貸し出し証などはなく、誰でも無料で傘立てから持って行ける緩いシステムだったが、盗難などのトラブルはほとんどなかった。皇室の紋章が刻まれた私達を、皆感謝の気持ちと共に大切に使い、また元の場所に戻しに来てくれた。
紫陽花と小鳥の番が刺繍されているらしい私は、若い男女に人気だった。というのも、私の下に一緒に入った男女は、必ず結ばれて幸せになるというロマンティックな噂があったからだ。雨が降り出すと、私はすぐに熱い誰かの手に取られ、寄り添う二つの頭を見下ろしながら、濡れる街を揺られた。
勇気を出して求婚をする男性。震えながら愛の告白をする女性。少し離れてしまった愛を、もう一度確かめ合う夫婦……
繰り広げられる恋模様を、幾つも見守ってきた。
思えばこの時が、私の人生で一番幸せな時だったかもしれない。
やがて隣国との戦争が始まり、美しかった街からは次第に色が消えていった。大人も子供も、皆くすんだ服に身を包み、よそ見をせずに往き来する。
そんな街の中で、平和だった時を象徴する私達は、どこか浮いているように感じていた。
乗り合い馬車の停留所は、連日人で溢れた。戦地へ向かう者と戻る者、それを見送り迎える者、地方へ避難する老人や子供、物資を運搬する兵。……停留所脇の広場で配られる、戦死者の名簿を待つ者など。
ある日、名簿を握り締めた若い女性が、冷たい手で私を取り、昏い雨空の下を一人で歩いた。
翌朝、家から現れた彼女は、私を手にし足早に停留所へ向かう。傘立てに私を戻すと、その横にぼんやりと立ち、到着した馬車を何台も見送った。とうとう最終の馬車が車庫に入った頃には、すっかり暗くなった空から、また雨がポツポツと降り出す。彼女は傘立てから再び私を取り出すと、停留所を静かに離れ、昨日と同じ道を歩いた。見下ろした栗色の頭も、華奢な肩も、小刻みに震えていて……私は冷たい雨から彼女を守ろうと、必死に身体を広げた。
それからも彼女は毎日のように停留所へ向かい、雨が降る度に私を差した。ずっとずっと傘立ての横に立ち、ずっとずっと誰かを待ち続ける。
そんな哀しい日々は、もっと哀しい出来事により、突然終わりを迎えた。誰かが放った黒い炎が、街を飲み込み焼き尽くしたからだ。
私達は熱い雨に耐えるようには作られていない。傘立ての周りにも火の粉が舞い始め、仲間達と最期を覚悟した時、母親に背負われた小さな手が、突然私を掴んだ。そのまま傘立てから引きずり出され、熱風の中を共に走り、私は生き延びることが出来たのだ。
成長した命の恩人は、何故私を掴んだのか全く覚えていないと言う。幾ら軽く作られているとはいえ、幼子の手には重いはずの私。よく途中で落とさなかったものだと不思議に思う。
恩人の母親は、背中の重みが傾いたことで走りにくくなり、遠い河を諦め近くの砂地に向かった為に助かったと言う。母子からすると、どうやら私が命の恩人らしい。
家族何代かに語り継がれ大切にされていたが、やがて人の手に渡り、転々としてきた。
十年前にこの骨董品店へ来てからは、幾つかの傘立てと別れながら、ほとんど身体を広げることなく静かに過ごしている。
もう二度と雨に触れることはないだろう、もう一度誰かを雨から守りたかった……
そんな思いが通じたかのように、彼が私を選んでくれたのだ。
◇
湿った空気、さらさらと流れる雨音。
久しぶりに受け止める雨が穏やかで良かったと、少し緊張しながら身体を広げる。
空から落ちては、「おかえり」と触れながら、地面へ流れゆく雨粒達。懐かしい感覚に少しずつ緊張がほぐれ、喜びに胸が溢れた。
金色の頭は、時折私を楽しそうに見上げながら、どこかへと歩いて行く。
やがて屋根のある建物へ入ると、私を畳み、太い柱の横に立った。
ここは…………
そうだ、間違いない。
この場所は、かつて私が居たあの停留所だ。何もかも、どんなに変わってしまっても、あの懐かしい空気は絶対に忘れない。
一緒に歩いた沢山の恋人達、傘立てで過ごした大切な仲間達、そして……ずっと誰かを待っていたあの哀しい女性。
泣けない私の代わりに、身体に残った雫が優しく流れてくれた。
押し寄せる想い出に心を委ねていると、シュウと音を立てながら、乗り合い馬車よりもずっと大きな箱が前に停まった。
これも乗り物なのだろうか……扉が開き、中から人がぞろぞろと出て来る。青年は身を乗り出し、そわそわとそちらを見つめるが、どうやら待ち人は居ないらしい。走り去るそれを切なげに見送ると、また柱の横に身体を戻した。
……来て欲しい。
彼の元には、どうか来て欲しい。
祈っていると、さっきと同じ箱がやって来て、もう一度停まった。開いた扉から、明るい栗色の髪の女性が現れると、「メリ!」と叫びながら青年は駆け出す。その姿に気付いた女性も、「ファン!」と嬉しそうに叫びながら、手を広げて青年を受け止めた。
ポンと広がる私を見上げ、女性はわあとため息を漏らす。
「素敵……紫陽花に小鳥……繊細でとても上品だわ」
「君が好きそうだなと思って。骨董品店で安く譲ってもらえたんだ。戦前の貴重な品らしいけど、ずっと売れ残っていたからって」
「売れ残っていてくれて良かったわ。こうして出逢えたんだもの」
柔らかな手に撫でられ、私は胸を弾ませながら身体を張った。
すぐ下には金色の、遥か下には栗色の。寄り添う二つの頭を見下ろしながら、濡れた街を揺られる。
「君の荷物はもうほとんど届いているよ。足りない物は、雨が止んだら買いに行こう」
「ゆっくりでいいわ。あなたが居てくれたら……もうそれで。ねえ、今日からはもう、離れなくていいのよね? またねって言わなくてもいいのよね?」
「ああ……またねじゃなくて、朝はおはようを、夜はおやすみを言えるんだ」
「……嬉しい。あのね、私、ずっと今を夢見ていた気がするの。あなたとこの傘に入って、同じ家に帰る夢」
「僕もそんな気がするよ。ずっとずっと、生まれる前から夢見ていた」
私を左手に預け、華奢な肩を抱き寄せる右手。栗色の頭は幸せそうに倒れ、広い肩に預けられた。
雨音が止んだことにも、雲間から差す陽にも気付かず。私を広げたまま、懐かしい道を歩く二人。
不意に聞こえた小鳥のさえずりに、二人はハッと私を見上げると、頬を染めながら笑い合った。
ありがとうございました。