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掌編置場

雪椿

作者: 須藤鵜鷺

 白銀の雪の絨毯の上に、真っ赤な花がぼとり、ぼとりと落ちている。そのさまは遠目で見ればまるで鮮血が散っているようで、見る者をどきりとさせる。……いや、そんな風に見えるのは、もしかしたら私だけなのかもしれない。私の心のありようが、本当は美しいはずの花をそんな風景に変えてしまっているだけなのかもしれない。

 数年ぶりに降ったドカ雪のせいで、私がいつも通勤に使っている愛車は腰の高さまで雪に埋もれてしまった。駐車場から除雪されている道まで、かなりの距離がある。小さなスコップでそこまで掘り進めるのは現実的とは思えなかった。結局一旦除雪はあきらめた。それでも出勤しないわけにはいかないから、膝下まである長靴を履いて除雪されている車道をそろそろと歩く。車なら五、六分の距離。歩いても三十分ぐらいあれば着くはず。早めに出たから出勤時間には間に合うだろう。この時期特有の遅い時間にのぼってきた朝日に、真っ白に埋め尽くされた街がきらきらと照らされている。反射する光が眩しくて目を開けているのも難しい。

 椿の生け垣は、その道沿いの一件の家のものだった。普段車で通るときには気にも留めないのに、歩きでゆっくり通り過ぎたせいか、はたまた視線の高さがいつもと違うせいか、やけに目についた。花はもう終わりかけなのか、大きな赤い花はその形を保ったままでぼとり、ぼとりと雪の積もる地面の上に落ちている。

 着ぶくれしたまま歩いているから暑いはずなのに、ふいに背筋がぞぅっと寒くなった。

 これに似た光景を見たことがある気がして。

 もうとっくに忘れたはずなのに。

「おはようございます」

 タイムカードを押して、私と同じく今日が出勤日の不運な同僚といつものようにあいさつを交わす。相手は朝から除雪に奮闘していたようで、顔が赤らんでいる。私が除雪をあきらめて歩いてきたことを話すと、「それ、正解」と笑った。

 いつもの時間に開店しても、この雪でみんな動けないようで、お客さんはまばらだった。なんでもこの近くを走っている幹線道路も除雪やら立ち往生やらで通行止めになっているらしい。店に来るはずの荷物も一部届いていないものがあるようだ。

「ここまでして店開けてる意味……」

「来るのも大変だし、来ても買うもんないし」

 店の中はしんとしていて、自分たちの愚痴がいつもより大きく響いて聞こえる。外は真っ白な雪が覆っていて、まるでここだけ取り残されてしまったみたいだ。

 結局今日のところは早めに店じまいすることになった。予報によれば今夜も雪らしい。まだ降るのかと思うとうんざりする。一度積もってしまった雪はしばらく一帯に残り続ける。どんなに車道をきれいに除雪してもらえたとしても、出歩く足を重くすることに変わりはない。

 いつもより早い時間の帰り道。時間的にはまだ午後だけれど、日差しは夕暮れに近い色をしている。暖かそうに見えるのに空気はやっぱり冷えていて、とてもこの雪を溶かしてくれそうにない。除雪された雪で埋まっている歩道はおそらくしばらく歩けない。車道の端を、足をとられながら注意して歩く。ところどころぬかるんだ雪にずぼっと足がはまり、それが余計に体力を奪っていく。

 空には重そうな雲がまだらに浮かんでいる。夜にはまた雪を降らせるのだろう。その隙間を縫うようにして差してくる日の光は、やっぱり眩しかった。

 あの生け垣の前を通ったとき、ちょうどその光が椿の花を照らしていた。雪の上にぼとりと落ちた、たくさんの真っ赤な椿。

 一瞬、目の前が真っ赤に染まった、そんな幻覚を見た。

 ……いや、幻覚じゃない。正しくは、これは記憶だ。今の私が持ち得ない、遠い遠い昔の記憶。

 もうとっくに忘れたはずなのに。

 あのときの私は、生まれ変わりたいと願っていた。叶うはずはないと思っていたのに、その願いは神に聞き入れられた。大勢の同胞たちを差し置いて、私の願いだけが。

 夕日が陰って、私の回想は途切れた。私は今、なにを考えていたんだっけ……。

 ふいに寂しさが襲ってきて、私は泣きたい気分になった。変なの。ただ雪の上に落ちた椿を見ていただけなのに……。

――寂しくないよ。

 どこかから、そんな声が聞こえた気がした。聞き覚えがないのに、ひどく懐かしい気がする声だった。でもそれはこの雪景色の真っ白な世界に溶けていって、もう追いかけることもできないのだった。

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