09. スミレの父親
晴れ渡った空に、筋状の雲がおまけ程度に散在する。風は無いが、ピリッとした寒さに指のさきが冷える。
今日はスミレのアカデミーの最終試験、飛竜による救助実技の試験が行われるのだ。
試験内容は主に二つ。
偽救助信号をすべて確保して時間内にもどること。
救助者を運ぶのに相応しい、穏やかな操竜をすること。
後者の測定のため、もう一人、判定者として誰か飛竜に乗せて試験に臨む。
乗せた人の主観による判定となるため、仲の良い人を乗せるのが通例だ。
スミレは、クロノスを判定者として選んだ。小柄なクロノスは操竜の邪魔にもならず、うってつけだった。いつものように前に乗るのではなく、今回はスミレの後ろに乗っている。シロの尻尾側にも鞍がつけられていて、そこに座っているのだ。
順調に偽救助信号を確保していき、あとは帰るだけだったのだが。
とつぜん、下から吹き上げる逆風に飛竜の翼があおられた。手綱を引き、体勢を立て直したスミレの眼前に現れたのは巨大な猪。その背中から青紫のもやにつつまれた漆黒の翼が、青空に広がる。ごわごわした毛むくじゃらの身体に、下顎から上向きに伸びる白い牙。四足で器用に空中でバランスをとっている。
爛々と狂気が滲む双眸に宿るのは憎しみか、渇望か。
その禍々しい猪の視線が、飛竜に乗るクロノスを捉えた途端、引きつるような咆哮が山間にこだました。
「魔獣化した獣!?クロ、つかまってて!」
スミレがシロを操り、空中でつっこんでくる猪をひらりと躱す。首から下げていた笛を吹くと、空を裂くような鋭い音が山の向こうにまで鳴り響く。緊急時用の連絡笛だ。
といっても、今いる場所は、スタート地点から随分と遠い。気づいた誰かが様子を見に来るにも、時間がかかるだろう。
猪が、ぶるりと顎をふり、再びスミレたちめがけてつっこんでくる。
スミレは腰の剣を抜き、ひとつ深呼吸して集中する。
「クロ、わたしじゃなくて、シロにつかまって。シロは猪の真下をくぐって!」
素早く指示し、風を切りながら操竜し、猪とすれ違いざまに黒紫の翼に向かって斬撃をくりだす。
片翼を落とされた猪は、もがきながらバランスを崩して落ちていく。
「スミレ、見事!」
ドンッと大きな音とともに、猪の額の魔石が割れる。落ちざまの額の石を狙い、クロノスが空気銃を撃ったのだ。
黒い靄が、もわりと猪から立ちのぼり、意思を持つ群れた羽虫さながらクロノス目指して向かってくる。
「クロ!?」
「スミレ、これは躱さなくていい!」
クロノスは懐から透明な魔導石をとりだした。スミスの露店でもらったものだが、今は複雑な紋様を刻んだ金属の輪っかが、はめられている。
その魔導石を黒靄の羽虫めがけて掲げる。まるで、誘蛾灯に引きよせられるように羽虫が魔導石に吸いこまれていく。
「くっ……!」
バチバチと黒い雷光が、魔導石をにぎるクロノスの腕を中心に弾ける。飛竜の背中ごしにビリビリとした震えがスミレにまで伝わった。
「クロ、大丈夫!?」
あらかた羽虫を吸い込むも、魔導石におさまりきらなかった黒靄がクロノスの身体をつつむ。猪は、ずいぶんと魔力を溜めこんでいたようだ。
黒靄がクロノスの身体に吸いこまれるように消えた途端、冷や汗をかきながらクロノスが胸をおさえた。
「う………く……スミレ、俺を、みないで」
「クロ、しっかりして!」
竜の背でうずくまるクロノスをスミレが支える。
しばらくスミレの腕の中で震えていたクロノスは、崩れるようにスミレに身体を預け、そのまま意識を失った。
◇
目覚めるとそこは見慣れた天井だった。何度も見たランプシェードが、ここがいつもの部屋の、いつものベッドであることを教えてくれる。
慌てて起き上がり、自分の身体を確認する。
翼は出ていない。
少し手がしっかりした気がするが、そこまで大きな成長はしていない。
クロノスは、ほっと息を吐いた。
「クロ、起きた?よかった!」
ガチャリと扉が開く音ともに、部屋に入ってきたのはスミレだった。片手には水の入った桶。
「熱は下がったかな。ずっと目を覚まさないから心配したよ」
スミレがクロノスの額にぴたりと手を当てる。冷たい手の感触がここちよい。
「最終試験は?俺、途中で倒れちゃってごめん」
「もちろん合格!きっちり猪倒せたし、高評価だったよ」
「よかった。スミレ、強いんだな。猪への斬撃も操竜も完璧だった。救助隊もいいが、騎士でもやっていけそうだ」
クロノスは今までスミレの実技の腕前を、ちゃんと見たことがなかった。アカデミーでも飛竜系の授業は見学したことがない。たいていは、座学の授業か誰かのラボに入り浸るのが常だった。
魔獣化した猪を華麗に無力化したスミレの動きは、クロノスから見ても実に見事なものだった。
「剣術は得意なんだ。でも、人を傷つけるより、助けるほうが私は好き。汗かいちゃったからお着替えしようか。身体拭いてあげるね」
「いや、自分でできるから大丈夫」
「いいからいいから。一昼夜寝てたんだよ?あんまり力はいらないでしょ」
「そうだけど、って……ああっ」
拒んでも容赦なくボタンを外されて脱がされる。
「俺、身体、変じゃなかった?」
背中を拭かれつつ、おそるおそる聞いてみる。気を失っている間、自分の身体がどうなっていたかは気になっていた。
「んー、全然?そういえば、クロもだいぶ筋肉ついてきたね。毎日、モクレンおばさんの美味しいご飯をたべてるからかな」
スミレのその言葉に、クロノスはまた、ほっと息を吐いた。
◇
家のドアがけたたましく叩かれたのは、やや強制的な着替えが終わった頃だった。対応に出たモクレンおばさんの悲鳴じみた叫びに、スミレが慌てて向かう。
「クロは寝てて!」
廊下へ出ると、玄関付近にへたりこんでいるモクレンおばさんの背中が見えた。いつも頼もしい丸みを帯びた背中が、今日は随分と小さく見える。
「スミレちゃん……」
モクレンおばさんの目が真っ赤だ。いつも穏やかで笑顔を絶やさない彼女のそんな姿をスミレは初めてみた。
玄関の扉は開け放たれており、そこには王立騎士団の制服に身を包んだ壮年の男性が立っていた。その手には木の箱。一辺が、大人の男性が指を広げたくらいの大きさだ。男性は、それを胸の前に抱えて沈鬱な表情で立っている。
「スミレ=イドウで間違いないでしょうか」
落ち着いた低い声でスミレを確認すると、深々と頭を下げた。きれいに整えられた髪が一筋額に落ちる。
「王立騎士団特級竜騎士であらせられるスオウ=イドウが魔王討伐任務失敗のため、殉職されました。こちら、わずかですが遺品となります」
男がなんて言ったのか、スミレにはよくわからなかった。
「お父さんが、なに……?」
スミレの後ろで、バシャンと水がこぼれる音がした。
振り返ると、水の入っていた桶が床に落ちて円を描くようにくるくるまわっている。あたりは水浸しで、その中にクロノスが呆然と立っていた。
⸺スオウ、敵は、とったぞ
あれは、誰の言葉だったか。