08. アリスの末裔
『ほんと正直、俺は嫌なんだよ、わかるか?
俺はスミレ嬢ちゃんが産まれたときから大事に見てきてんの。
16年間ずっとよ、ずっと。
いきなり現れたおまえが、嬢ちゃんにちやほやされてて、全然おもしろくないわけ。お前なんかが嬢ちゃんの匂いを毎日ぷんぷんさせてんの、勘弁してほしいね。
ほんと、藁酒でも飲んでねぇとやってらんねえし。
お前を背中に乗せてやってんのも、嬢ちゃんがどうしてもっていうからさあ。
あっ、サクラちゃーん、今日このあとどう?一緒に花藁食べない?』
シロの目の前で、桃色の飛竜がぴしんと尻尾で壁をうって、フンと顔を逸らす。ガガーンと口を開けているシロを見ながら、クロノスは思わずつぶやいた。
「シロは、黙ってるとかっこいい飛竜だよな。あと藁酒じゃなくて、ただの藁入った水だろ」
シロの言葉は普通の人間が聞けば可愛くクルルル言ってるだけだが、クロノスの耳には唸り声混じりの言葉として認識できる。
クロノスはシロの愚痴を聞きながら、飛竜の身体をブラシでこすってやっているのだった。
『あー、そこそこ、気持ちいい。おっほ、その翼の隙間のとこ、すげえいいんだけど、なんなの、テクニシャンなの』
ブラシでこすりやすように、シロがだらりと翼を広げる。
「ふふ、ここだろー?羽根の手入れにはこだわりがあるからな、俺。鉤爪のここも、実はツボなんだ」
『くあっ、なんだそれ翼が溶けちゃうぅ』
さきほどまでの愚痴はどこへやら。もうどうにでもしてくださいとシロは目を細めて脱力しはじめた。
ここは、王宮備え付けの竜舎。すぐ目の前に広がる盛りを終えた庭園には、秋の午後のやわらかな日差しが降り注ぐ。中央の噴水近くに位置する古びた彫像に、尾の長い小さな鳥がとまり、のどかにさえずっている。
先日の人身売買組織壊滅に貢献したとのことで、スミレとシバが王立騎士団から褒賞を授与されることになり、クロノスもひっついてきたのだった。
竜舎で待っているシロと一緒に、クロノスも同じ竜房に入って、白亜の竜肌にブラシをかける。
「ごめんね、待たせちゃって。さすがに亜人を入れるわけにはいかなくてね」
栗毛をきれいにセットした警備兵が、クロノスににこやかな笑みを向ける。デニスと名乗った彼は、警護の名目でさきほどから竜舎の入り口あたりでシロたちを眺めていたのだった。
「クロくんだっけ?随分と飛竜と仲が良いんだね」
『決して仲が良いわけでは!俺はこいつを認めたわけでは!……あっ、きもちいい!』
「この白竜、鳴き声かわいいね」
やや悔しげなシロの言葉は、デニスにはかわいく鳴いているようにしか聞こえない。
砂を踏む音ともに、竜舎入り口に現れた人影に気づいたデニスは、振り返りざま、慌てて直立して敬礼の姿勢をとった。
淡い陽光に背後から照らされたその人物は、しーっと口に人差し指を当て、デニスに向かってウィンクする。
「警備、お疲れさま。最近、アカデミーで評判の亜人の子をこっそり見に来たんだ」
はちみつ色の指通りの良さそうな髪に、透き通る青空を思わせる青い瞳。三十代くらいの身なりの良い男性が、口の端に笑みを浮かべて、竜舎の中にゆっくりと歩いてくる。
「なるほど。初代のいたずら好きは、連綿と受け継がれているようだな」
小さくささやき、クロノスは、ぴょんと竜房の中から飛び出した。
「お、おい!」
デニスが制止したときには、すでにクロノスは男のすぐ間近にいた。胸に手を当て、独特の優美な動きで膝を曲げてお辞儀をした後、両手の平を男に差し出す。最後に、うかがうように男をみあげた。
「これは驚いたな。こんなに完璧な古の儀礼手続き、書物でしかみたことないんだが。それを亜人の子供が披露するとは」
男は眉をあげ、一歩下がると腰の剣に手を置く。
ピリリとした殺気とともに、静かにクロに問う。
「フィリップが諮問機関に推薦したいというから、のぞきに来てみれば。何者だ?」
「俺はクロ、今はもう何者でもない。アクムリアは最高儀礼に対して剣で返すのか」
ははっと空笑いとともに男は顔に手をあて、その場に膝をつきクロノスと目の高さを合わせる。
息を呑むデニスを、男は目線だけで制す。さがっていろ、と。
男はしばらく差し出された褐色の両手をながめていたが、決心したようにちょんちょんと片手をクロノスの両手に触れた。お互い、両手で握手する。
クロノスの瞳が、男の澄んだ空のような瞳をのぞきこむ。漆黒の、深い森に静かに佇む底なしの淵を思わせる黒。そこに空が映れば、ただ黒色に塗りつぶされる。
すぐに手をひこうとする男の手を、クロノスはぎゅっとつかんだ。
「そう気後れするな。俺なりに礼を尽くしたまでだ。アリスには世話になったからな」
「アリス!?」
「少し調べさせてもらったが、ここは良い国だ。学問に重きを置き、貧困率は低く識字率は高い。裏組織なんかも、あの人身売買組織程度、かわいいものだ。さすが、アリスの末裔だな」
「君は、一体……」
柔らかな微笑みを浮かべるクロノスの瞳から、男は目が離せない。耳目を集めることこそあれ、こんなふうに自身の視線が奪われるなど、男にとっては初めての経験だった。
「もしよければ教えてくれないか。人魔協定、ガルバール帝国。このあたりに聞き覚えは?百五十年前、なにがあったか知っているか」
子供特有の、幼く高い声がささやく。
握った手の温かさから、規則的な鼓動と熱が伝わってくる。
独特の抑揚をもつ声音が、男の心に絡みつく。
「知ら、ない。百五十年前といえば世界大戦が、起きていたはずだ」
「その影響で世界蔵書舟が焼かれたのか。どこに堕ちたか知っているか」
「それは、極秘事項だ。世界機密扱いだから言えない」
首を振る男の手をさらに強くクロノスが握る。心の奥までのぞきこむ漆黒の視線が、男の心の柔らかな部分をそっと握る。
「たのむ、教えてくれ。この国に迷惑がかかることはしない」
「……虹の荒野」
ありがとう、と囁き、クロノスが視線を逸らした途端、男は大きく息を吐いた。はたからみてもわかるほどに、顔が真っ赤だった。
「まて、待ってくれ」
くるりと踵を返したクロノスの背に、掠れた男の声が響く。呼びかけたものの、男の口は形を変えるばかりで言葉が出てこない。ようやくなんとか絞り出す。
「し……諮問機関への推薦の話、真剣に考えてくれないか」
「こんな無能にありがたい話だな」
男に振り向き、自嘲気味に微笑むクロノスは静かに首を振った。
「悪いが、俺はそろそろこの国をでる。それまで、機密を教えてくれた礼がわりに、フィリップの相談に乗るくらいはしておくよ」
「ほかに、俺に何かできることはないか。君のためになら、なんでもする」
縋りつかんばかりに懇願する男の様子に、クロノスは首を傾げる。
「俺が望むものは、もう何もないぞ?」
「では、せめて、なんでもいいから、俺に何か残してくれ。君と出会った証をくれ。でないと、俺はおかしくなりそうだ」
「いきなり、そんな?」
男の様子に、クロノスは困ったようにポリポリ頭をかく。ちょっとおしゃべりしただけなんだけどな、と思いつつ、ちらりと竜房の方を見ると、さっさと戻ってブラシがけしろと言わんばかりにシロが鼻をならした。
男の頬に手を当て、その形の良い耳にささやく。
「不平等を不平等のまま受け入れて、多様性を重んじるといい。そのほうが、面白い世界になる」
小さく早口で言うと、クロノスはまっすぐに竜房に駆けていき、もう振り返らなかった。さきほどのように飛竜の背にまたがり、楽しそうに飛竜にブラシがけをはじめた。
「陛下!エリオット陛下!ここにおられましたか!」
しばらく呆然としていた男は、竜舎入り口からかけられた声に我にかえり、取り繕うように咳払いをして立ち上がる。
「デニス、今の出来事、すべて他言無用で頼む」
「はっ」
小気味よい返事を背に竜舎から立ち去りながら、男はじくじくと心の奥深くに疼く熱をなだめるように胸に手を当てる。
少し会話しただけなのに、すべてを捧げたくなるほど、強烈にあの亜人の子供に惹かれた。だから世界機密すらも口にした。一国の王であるという誇りがなければ、ひざまづき、頭を垂れ、懇願していただろう。仕えさせてくれ、と。
あの亜人は危険すぎる。
理性ではそう思うものの、捕らえようとも殺そうとも思えない。己の魂が、彼に危害を加えることを拒む。
忘れたほうがいい。脳裏に浮かぶ深淵さながらの瞳を振り払った。
主君を竜舎入り口から見送っていたデニスは、敬礼をとくと首を傾げた。
「妙なやりとりだったな」
デニスにとって、さきほどのクロノスたちのやりとりはほとんど内容が聞こえなかったし、よくわからなかった。
ただひとつ、アリスという単語だけは明瞭に聞こえた。
この国でアリスといって思いつくのはただ一人。国民全員が必ず習う名前である。
デニスは、庭園の真ん中の古びた彫像に目をやった。開いた書物を手に持ち、片手をあげた女性の像は苔むしていてもその威厳を保ち続けている。
その像の足元にはよく見なければ解読できないプレート。
アリス=アクムリア。
三百年前、このアクムリア連邦王国の礎を築いた、はちみつ色の髪と空色の瞳を持つ英雄である。
◇
子供の手のひらに乗るくらいの銀色のメダル。飛竜の意匠が施され、目に当たる部分には緑の石がはめこまれている。
裏っ返したり、灯りに透かしたりして、クロノスはしげしげとメダルを眺めていた。
今日、スミレが王立騎士団で授与されたものだ。ちなみに、シロも似たものをもらっていて、胸繋のところに誇らしげにつけていた。
「そろそろ寝る時間だからしまうよ」
「うん、見せてくれてありがとう。かっこいいな」
嬉しそうにスミレがはにかみ、大事にケースにしまう。
「クロも、今日はシロと竜舎でお留守番ありがとね。飽きちゃわなかった?」
「むしろ刺激的だったよ」
そっか、とスミレはにっこり笑い、クロノスの髪をひとなですると、脇の下に手をいれてひょいっと持ち上げた。
「いい子でお留守番できたから、このまま抱っこで部屋まで運んであげる」
「一人でいけるから!」
構わず抱き上げられ、落ちないようにあわててスミレの首にしがみつく。
いつもの部屋の、いつものベッド。
そのはじっこに座るようにおろされて、クロノスの身体が軽くはずむ。
にこにこしているスミレをみて、ふとクロノスは昼間出会った男のことを思い出した。目を合わせて少しおしゃべりしただけなのに、クロノスに妙な執着を見せたあの男。
スミレの頬に手を当てじっと紫色の瞳をのぞきこむ。
「スミレ、俺の目を見て?」
目をぱちくりさせているスミレに、静かに問いかける。透き通る紫の瞳の奥。そこに語りかける。昼間のあの男にしたように。
「スミレは俺のこと、どう思ってる?」
んー、とちょっと考えて、スミレはぎゅっと腕の中のクロノスを抱きしめた。
「今日もクロはかわいい!」
「あれー、そんな感じかー」
いつもと同じ様子のスミレに抱っこされながら、クロノスは首をひねる。昼間の男の反応とは全然違う。
「スミレはいつから俺が可愛いと思ったの?」
「救助したそのときぐらい」
「俺がまだ寝てるとき?」
「そう、寝顔もかわいかったよ」
うーむ、と考え込むクロノスの頬に、スミレがぷにっと両手をあてる。そのまま、やわらかさを楽しむようにぷにぷにする。
なにごとかと顔をあげたクロノスに、今度はスミレが問いかけた。
「クロは私のことどう思ってる?」
「へ!?俺?……えっと……」
鼻をつんつんされて、しまった、とクロノスは思った。まさに藪蛇。反対に聞き返される可能性を全く考えてなかった。スミレが望んでいる回答がひとつ思い浮かぶが、口にするのはだいぶ恥ずかしい。
まっすぐに、期待に満ちた目をキラキラさせながら、スミレがクロノスをみてくる。その輝きの圧に、たまらずクロノスは白旗をあげた。うつむいてつぶやく小さな声。
「ス……スミレおねえちゃん、だいすき……」
「んんっ!百二十点満点!私もクロ、だいすき!」
ぎゅっと抱きしめられ、その勢いのままベッドにごろりと寝転がる。
顔の熱さはそのままに、スミレの胸に頬を預けて目をつぶる。ちょっともぞもぞして、いつものように寝やすい位置を探す。いつもの匂い、いつもの柔らかさ。抱きしめられる安心感。
身体はとっくの昔に回復した。
もう十分情報収集もできた。
これ以上、ここにいる必要はない。
スミレの父親が帰ってきたら、ここから立ち去らないと。
心地よさに包まれながらクロノスは、心の中で自分に言い聞かせた。