02. シャムロックの献身
「……ノスさま……クロノスさま………!」
耳元でキーキーと叫ぶ小さな声に、クロノスの意識が浮上する。身じろぎすれば、身体の下でガサリと枯れた落ち葉が音を立てた。
顔に当たる風の冷たさ。目を開けると、空を覆う木々の梢と、そこから陰鬱と重くたれこめる雲がみえた。キーキー声以外に、近くに生き物の気配は無い。
「クロノスさま!お気づきになられましたか!」
ちょこまかと、せわしなくクロノスの腕を這う感触。それは、ちいさなねずみだった。しっぽは長く、小汚く色あせたみすぼらしいネズミだ。
倒れているクロノスの顔を覗き込むネズミの瞳を、その気配を、クロノスは知っていた。
「あ……、シャムロック……?」
「はい、シャムロックでございます。お目覚めになられてよかった。しかし、なんというおいたわしいお姿」
がばりと、クロノスが身体を起こすも、全身に響く痛みに、胸をおさえてうめき、また枯れ葉の中に身を横たえる。
「無理をなされてはいけません。あなたの身体は再構成されたばかり、まだ魂と身体が定着しきっていないのです」
「再構成……?」
つぶやきながら、クロノスは違和感に気づく。さきほどから、妙に自分の声が高い。
「はい。今のクロノス様の状態に合うよう、身体を作り変えたのです」
倒れたまま、クロノスは、自身の手をじっとみる。いつもより指は短く、骨もしっかりしていない。まるで、幼子の手のようだ。
「どうか、お力をお戻しくださりませ。この世界に散ったクロノス様の力を取り戻せば、元のお身体にもどることできましょう」
キーキーとしたねずみの声が、少しずつ小さくなる。
「シャムロック……?」
「あぁ、我が王よ。あなたに出会い、ともに過ごした三百年、このシャムロック、どれだけ光栄だったか。あなたのそばにあることこそが、我が価値、我が生きる意味」
ねずみが横たわるクロノスの頬に、弱々しくその毛皮をすりつける。
「あなたのために生き、あなたのために死ぬ。これほどの喜びがありますでしょうか。あぁ、クロノスさま」
「シャムロック!」
弱々しくなるねずみの声に、クロノスは痛みをこらえて起き上がり、ねずみを手の上にのせる。ねずみはすでに身体を起こすこともできず、クロノスの手の上で横たわりしっぽを垂らしている。
黒いちいさな目だけがクロノスをみつめていた。
「どうか、あなたのこれからの歩みに祝福あらんことを。このシャムロック、いつまでもクロノスさまの味方、ですぞ」
「待て!逝くな、シャムロック!」
「叶うことなら、ずっとあなたをささえたか……」
淡い光にねずみが包まれる。ねずみのつぶらな瞳が力なく閉じた。光り輝く細かな粒子がふわりと浮かび上がる。さらりとねずみの身体が砂になり、クロノスの指の隙間からこぼれおちる。
「シャムロック!お前も俺をおいて逝くのか!」
つかもうとしても、砂は指の隙間からこぼれるばかり。こぼれた砂を追って地面を掴むも、もうどこにも砂の気配はない。
「くそっ!シャムロック!どうしてこうなった!」
あたりをもう一度見渡す。鬱蒼とした山の中、シャムロックの魔力の強い気配が残る。反魂にも近い大規模な魔法を、己の身を触媒にして行ったのだろう。自身の命と引き換えに、シャムロックはクロノスをこの世につなぎとめたのだ。
好々爺然としたシャムロックの顔が、脳裏に浮かぶ。常にクロノスを陰で支えた腹心の一人。永きに渡り、ともに国を守り、これからも変わらないと信じていたのに。
落ち葉を力任せに握りしめる。
ぽつりと、握った落ち葉に黒い染み。ぽつぽつと、空から降り落ちる冷たい水滴。それはすぐに勢いを増し、クロノスの全身をうつ。
髪を、顔を、身体を濡らす。
「なぜだ!俺は、俺の力を尽して世界の平和を、安寧を、秩序を守ったつもりだった!なぜ、こうなった!」
痛みをこらえて、激情のままに叫ぶ。
降りしきる雨の中、慟哭は深い山にのまれて消えた。