東京イノセンス
「よろしくお願いしまぁすっ。」
新入社員の自己紹介のとき、鼻にかかった甘い声で挨拶をした彼女の第一印象は、(雰囲気あるなぁ、この子)だった。美人ではないけれど愛嬌のある顔立ちに女性らしさを強調したメイクとファッション。男子校出身で理系から就職文転した僕の周りにはいたことがないタイプの女性だった。大手商社の同期で、彼女、榎本香織は一般職、僕は総合職だった。僕は中高と女性と接する機会はなくて、大学にいた同期の女性もひっつめ髪でいつも実験結果のことを気にしているような男っ気のないタイプだったから、当然、まともに女性と交際したことがなかった。
これから僕は同僚である彼女とどんな風に関わっていくのか、楽しみであり、今まで接したことのないタイプの女性と関わるのは少し不安でもあった。
「あのぉー、この後新卒のみなさんで交流会やりませんかぁ?」
みんなの仕事がそろそろ終わろうかというとき、彼女は全体に声をかけた。一瞬うんざりした顔をした奴もいたが、全体的には賛同する雰囲気が流れた。同期同士早く仲良くなるには、交流会を開くのも一つの手だろう。進んで声をかけてくれた彼女は社交性がある。僕もそういった場には積極的に参加することに決めた。場所は会社近くの大衆居酒屋だった。定番ってところだろう。
交流会で、榎本さんと隣りの席になった。彼女はよく喋ってよく笑う。飲みの場を盛り上げるのも上手かった。きっとこういう場は慣れているのだろう。
「冴木くんはさぁ、カノジョとかいないのぉ?」
話の流れでそう聞かれた。若い男女が集まれば、自然とそういう話になる。僕はそれが少し嫌だった。僕には語れるエピソードがない。別に話のネタにするために付き合うってわけじゃないだろうけど。この年になっても恋愛経験がないことを暴露すると、驚かれることもあった。
彼女は毎回語尾が伸びていた。それは一部の男性に受けがいいことであり、女性全体からは嫌われる一因であるということを後に同僚の女性から聞いた。
「いないよ。いたことがない。男子校出身なもんで。」
「へぇー、結構イケメンなのにねぇ、もったいない。」
「そんなことないよ、ありがとう。」
僕は女性から容姿を褒められた経験もなかったので、少しどぎまぎした。彼女はきっと、ナチュラルにそういうことができる女性なのだろう。男受けがいいに違いない。現に僕はドキドキしている。
いきなり、袖をくぃっと引かれた。引っ張られて顔を近づけられ、小声で耳元で囁かれる。なんだか慣れた仕草だと思った。
「ねぇー、この後二人で抜け出さない?」
女の子から、こういうことを言われるのは生まれて初めてだった。大学のときにやった飲み会でも、こんなことをしてくる女性はいなかった。
酔い過ぎた、という彼女にペットボトルの水を買い与えた。彼女はそれを勢いよく飲み干す。春の生暖かい風が心地よかった。僕も酔いが覚めていくような感じがした。元々僕はそんなに飲んでいない。交流会は流れ解散、といった風にみんなてんでバラバラになった。これで同僚同士の仲が深まったのかは分からない。飲み会なんてそんなものだ。僕たちは二人きりになる。
「で--どうする?」
彼女は誘惑するようにいたずらっぽく微笑んだ。
「どうする--って……家まで送ってくけど?」
それ以外何をするのか思いつかなかった。求められているものが分からなくて、僕は戸惑った。ぶはっと彼女は吹き出した。
「さっすが、童貞くんだね! この後男女でどうするかなんて決まってんじゃん!!」
察しが悪い僕はやっと意味が分かった。そういうことか。
「ダメだよ、そういうことは……。大事な人としかやっちゃダメだ。」
「お堅いねぇ! もしかして、地方出身だったりする!?」
「……よく分かったね。」
明らかに馬鹿にされていたけど不思議と腹は立たなかった。それより初めての事態に面食らっていた。榎本さんは、生まれも育ちも東京だと言っていたから、僕が生まれて初めて接する”東京の女“ってやつなのかもしれなかった。
「つまんないの、まあ、いいや……。」
彼女はスマホを取り出して、ポチポチと操作し始めた。
「……なにやってんの。」
「アプリで今から飲める人探してんの。」
「……あんだけ飲んだのに、また飲むの?」
「察しが悪いねぇ。飲むのはオマケに決まってんじゃん。」
「……やめなって。そういうの。もっと自分を大事にしなよ。本当に好きな人が出来たときに、その価値を感じられなくなるよ?」
「……冴木くんにそういうこと言う権利ある? 私たち、出会ったばっかでしょ。」
「ないけど……でもきっと後悔するよ。」
確かにどこで何をしようと彼女の勝手だ。だけどなんだか放って置けなかった。スマホをいじる彼女の表情が、あんまりにも投げやりに見えたから。
「冴木くんは上京したばっかだから知らないだろうけど、東京の女の子はこんなの普通なの。アプリ使ってばんばん初対面の人とでもやっちゃうんだから。」
「……なんで、そういうことするの?」
「……なんで、なんでって……。」
一瞬、彼女の顔に暗い影が浮かんだ。それが少し気になった。
「気持ちいいからに決まってんじゃん。他に理由なんかある? 冴木くんも、いい年して童貞なんて恥ずかしいからとっとと風俗にでも行った方がいいと思うよ!」
投げやりに彼女は言った。本心で言っているようには聞こえなかった。
「僕はそんな価値観で生きていないし、大切な人に捧げたいと思っているよ。」
「……なにそれ、重っ。」
彼女は顔をしかめた。相変わらずスマホをいじっている。やがて立ち上がった。
「人捕まったから行くわ。じゃーね、童貞くん。」
「……。」
これから見ず知らずの男に抱かれるであろう彼女を、僕はただ見つめることしか出来なかった。今の彼女には、何を言っても無駄な気がした。言葉が伝わらない。それがこんなにも歯がゆいなんて。中学から似たような堅い価値観の人たちとばかりつるんできたから、僕にはあまりない経験だった。奔放なのは彼女の特性だろうし、僕と彼女の関係では、何を言うこともできないと思った。
「榎本さんねぇ……ちょっと危険人物だと思うよ?」
同僚で、同じ総合職の内海さんは苦々しい口ぶりで言った。内海さんはサバサバしていて女慣れしていない僕でも話しやすい女性だ。高学歴で、見た感じ仕事も出来る。休憩時間に、ふと会社の人たちの話になったときだった。
「なんでも噂では、もう課長と関係を持ったとか……。」
「噂でしょ? 課長既婚者だし、そういうの流すの良くないよ。」
「いやいや、私が流してるとかじゃなくて、同僚の女の子たちの中で話されてんの。……というか彼女、めちゃくちゃ嫌われてるよ?」
人当たりは良さそうだがどういうことだろうか。
「……なんで?」
「男の人には分かんないよねー。ぶりっ子してる、とか、男たぶらかしてる、とか。私も正直、いいイメージ持ってないし。」
そういう女性は同性から嫌われるのか。知らなかった。僕は彼女のことを結構魅力的に思うのだけれど、異性と同性では人に対する捉え方が違うのかも知れない。
「てゆーか、交流会の夜、冴木くんと彼女がワンナイトしたって噂聞いたんだけど、本当?」
内海さんが興味本位といった口ぶりで聞いた。これには面食らった。どこから見られていたのか。
「えぇ? してないよ、ありえない。」
誘われたことは彼女のために黙っておいた。
「まあ確かに……彼女が誘うのはありそうだけど、冴木くんなら断りそうだと思った。」
内海さんは聡明で、勘が鋭い。ピンポイントで当てられた。なんでも見透かされてしまいそうな気がする。
「とにかく、榎本さんには気をつけることだね。冴木くんみたいなタイプ、案外弱い気がする。」
「僕はそんなに悪い子には思えないんだけどなぁ……。」
「冴木くんはあんまり、彼女みたいな人を悪く思うとかできない気がする。」
「どういう意味? それ。」
「はっきり言うと騙されやすそうってこと。」
内海さんは不服そうに鼻を鳴らした。性に奔放なところを見せつけられて、挙句性経験がないことを馬鹿にされた榎本さんにどうしてそんな感情を抱くのか、僕はよく分からなかった。嫌いになってもおかしくないはずなのに。僕はもう既に、“東京の女”に振り回されているのかもしれなかった。内海さんが言うように、騙されている、ということなのかも知れない。
その晩、仕事終わりに榎本さんからメッセージで飲みに誘われた。暇だから飲まないかということだった。この前みたいに誘われたら嫌だったけれど、彼女は無理強いすることはしなかったし、もっと彼女のことを知りたいという興味から行くことにした。なぜアプリの男じゃなくて僕が誘われたのかは分からなかった。
店に行くと、彼女はすでにほろ酔いのようだった。上気した頬で目がとろんとしている。それが色っぽく見えなくもなかった。一般職は大体総合職より早く上がれるから、早めに店に来たのだろう。
「冴木くぅーん、こっちこっちぃ。」
促されて彼女の隣りの席に座る。なかなか雰囲気の良いバーだった。彼女の行きつけだろうか。
「急に誘ったのにありがとうーねぇー。」
そう言いながら彼女はカクテルをすする。どうやら彼女は酒豪のようだった。
「どうして、僕のことを誘ってくれたの?」
「暇つぶしと、あと……。」
彼女は上目遣いで僕を覗き込んだ。わりと頻繁にやる動作だった。
「もっと君のことを、知りたいと思ったから。」
女慣れしていない男こそ、コロッといきやすい。いつかどこかでそういう話を聞いた気がする。何かの本で読んだのかもしれない、忘れたけど。僕の初恋は小学生だったけれど、この胸の高鳴りはそのとき以来のもので、自分が恋に落ち始めているのを自覚していた。
「僕のことなんか深く知っても、仕方ないと思うけど。ずっと勉強ばかりしてきた、つまらない人間だよ。女性を楽しませるトークも、遊びも知らない。」
「そうかなぁ。あそこでホイホイやっちゃう男のほうが、よっぽどつまらないよぉ。」
「自分から誘っておいてよく言うよ。」
「試したって訳じゃないけど、冴木くんはそういう人間じゃないんだなって分かったよねぇ。」
それは誇らしいと思っておくべきか。僕はその辺の軽い男とは違うと認定されたらしい。
「それはありがとう。」
僕は一瞬、内海さんが言っていた話題を口にするべきか迷った。本人に聞いていいものだろうか。本人に噂を聞かせるのはあまり良くないことなんじゃないだろうか。いい気分はしないだろうし、下手したら怒り出すかもしれない。
しかし、もやもやしていることは早めにすっきりさせておくべきだと思い直した。
「そういえばさ、妙な噂を聞いたんだけど……。」
彼女の口から、否定して欲しかった。本当なら問題だし、それは僕の願望でもあった。
「君がその、課長と関係してるって……。」
「課長って、真田課長ぉ?」
「そう。嘘だよね?」
僕は僕の願望を口にした。彼女にそんなことをしてほしくなかった。いくら彼女でも、超えてはいけない一線は分かっているだろうと思いたかった。不倫なんてドラマや映画の中でしか許されない。実際にやっている人なんて僕は知らない。だけどもそれはあっさり破られることになる。
「本当だって言ったら、どうなるわけ?」
榎本さんはさっきから目を合わせようとしない。それがやましいことがあるからな気がして、まさかという思いが膨らんでいった。
「……! ダメだよ、だって課長、既婚者じゃないか! 家庭がある人なんだ、バレたら人の心を傷つけるし、お金も請求されるかもしれない……!」
「そんなの、分かってるよ……。」
「分かってるなら……今すぐ、課長とは縁を切れ!」
これは僕でも言っていいことだと思った。不倫なんて倫理的に許されない。彼女は確実に間違っている。今すぐやめるべきだ。
「いけないことぐらい分かってる……! だけど無理なんだ。やめようって何度も思った……でも好きになっちゃったんなら仕方ないじゃない……!」
苦しそうに彼女は言った。本気で悩んでいることは伝わってきた。なのに僕は冷静じゃなかった。
「この……尻軽女っ……!」
だーっと頭に何かかけられる感覚がした。我に返ると、彼女が空になったカクテルのグラスを怒りの表情で逆さにしていた。
その表情が、みるみる泣き顔に変わる。
「ごめん……尻軽は言いすぎた……。」
皮肉にもカクテルをかけられたことで冷静になった僕は謝罪の言葉を口にした。咄嗟のことで頭に血が上って、つい酷いことを口走ってしまったのは良くない。ここは完全に僕が悪い。
「尻軽って何よ……。まあそれはそうね……。そんなの私が一番分かってる。だけど私だって……真っ当に愛されたいよっ……。」
絞り出すように彼女は言った。そのまま、バーの机に突っ伏して泣き始めた。店員が怪訝そうな顔でこちらを見ていた。僕はどうしてやることも出来ず、ただ彼女の隣りに座っていた。せっかくバーに来たのに、酒を飲む気分にはなれなかった。髪から滴り落ちるカクテルの滴が、甘い匂いをぷんぷん辺りに立ち込めさせていた。早いとこシャワーを浴びたかったが、彼女のそばを離れるわけにはいかなかった。
泣き腫らした顔の榎本さんを家まで送り届けてから帰ったから、翌日の僕は寝不足だった。ぼっーとしていて、気づけば彼女のことを考えていた。彼女は今日は無事に仕事に来ているのだろうか。あの後ちゃんと眠れただろうか。彼女が苦しんでいるのは間違いがなくて、それを救う方法はないのだろうか。僕に何か、出来ることは無いだろうか。とりあえず課長とは縁を切った方がいい……。考え事をしているから、当然仕事にも些細なミスが出る。また数値計算をミスした。こんな数字おかしい。見積もりが出来てなさすぎる。舌打ちしながら訂正された箇所を修正していると、内海さんから心配そうに声をかけられた。
「冴木くん、大丈夫…? 目の下にクマ出来てるし、ミスが多いけど……。」
「昨日遅くまで飲んでたもんで……ごめん。フォローしてもらってるよね。」
「若いからって飲みすぎちゃダメだよ? お酒はほどほどにしないと。」
内海さんは同期とは思えないほどしっかりしている。きっと出世も早いだろう。
「ごめんなさい……。ちょっとした事情が……。」
「そうだよね、冴木くん真面目そうだし、理由もなく遅くまで飲むようには見えないもん。誰かの相談に乗ってたとか?」
本当に彼女は察しが鋭い。概ね当たっている。僕も見習いたいものだ。
「まあちょっとね……。」
僕は言葉をにごした。さすがに榎本さんの件は内海さんには言えない。
「すぃませぇーん、案件の相談に来ましたぁ。」
聞き覚えのある鼻にかかった声が聞こえた。当然榎本さんだ。大手企業であるうちの会社はオフィスが広くて、榎本さんの席は遠いけど、こうやって仕事の用があって来ることはある。どうやら今日は無事出社したらしい。それは良かった。
「はいはい、対応します。どうしたの?」
内海さんは彼女の陰口を言っていたこともあるけれど、本人の前では愛想よく対応している。ビジネスの場には私的な感情を持ち込まないということか。それは内海さんの大人で、裏表を感じさせる部分だった。
仕事の話をする彼女のテンションはいつも通りで、メイクで誤魔化しているのか目の腫れもそれほど目立たなかった。僕は昨日の今日なので気まずくて、彼女から目を逸らした。感情の切り替えが出来ているところは、僕よりもよっぽど社会人として上手だと言えるかもしれない。
彼女との用件が終わった内海さんが僕の隣りの席に戻ってきた。ふーっと息をつく。
「まあ彼女、仕事はしっかりやってくれてるじゃない。案外、ちゃんとした人なのかも。」
「ちゃんとしてても……不倫はダメでしょ、不倫は。」
内海さんは首を傾げた。疑わしい表情になる。
「あれ? 冴木くんは噂とか真に受けるの、良くないみたいな思考じゃなかったっけ?」
「ちょっと気が変わった。火のないところに煙は立たないでしょ。」
「まあそれはそうかもね……。」
内海さんは不信そうな目を僕に向けた。コロッと意見を変えたんだから無理もない。僕は気分屋なわけでもない。むしろ頑固な方だ。周りの意見に流されるということもない。頭のいい彼女に何か察されたらまずいので、僕はそれ以上その話題について言及しなかった。
僕は榎本さんのことをどうしようかと頭を抱えた。内容が内容だけに、会社の人には相談できない。かといって僕の友達は恋愛経験の少ない男ばかりで、こんなに重い内容に答えを出してくれそうになかった。同僚が不倫していてそれをやめさせたい、なんて。お互いに気持ちが通じ合っているなら尚更やめさせるのは難しいだろう。とりあえず榎本さんと課長がプライベートで会うのをやめさせなければならない。課長は付き合いが浅いし、同僚ほど関わるわけではないから人柄はよく知らないけれど、優しそうで仕事が出来る人だ。味のあるイケメンだから若い頃はモテたのかもしれない。一回り以上も年が離れた若い子に手を出すようには見えなかった。
考え込みながら歩いていると、若い男女が腕を組みながら歩いているところに出くわした。何の気なしに目を向けると、女の方は榎本さん、男の方はなんと同僚の岡野だった。榎本さんは楽しげに岡野に話しかけている。岡野だって満更でもなさそうだった。信じられない、いや彼女なら意外でもない場面に、思わず絶句した。榎本さんはなんというか……節操がない。こんなに会社近くで堂々と腕を組むなんて、それは妙な噂も立つだろう。せめて隠すなりなんなりして欲しい。全く呆れる。一応課長と付き合っているんじゃないのか。彼女の行動がよく分からない。
家に帰ってから、榎本さんにメッセージを送った。
『今日、会社近くで岡野と腕組んで歩いてるとこ見たよ。』
彼女はマメな方で、いつも返信が早い。
『そう。それで?』
『それでじゃないよ。榎本さん、真田課長のこと、好きなんじゃないの?』
しばらく返信に間が空いた。
『だって真田課長、既婚者だし仕事忙しいから全然かまってくれないんだもん。』
『かまってくれないからって他の男のところに行くのか?』
また口を滑らせそうになってぐっとこらえた。同じ轍は二度踏まない。
『課長だって奥さんと別れる気ないらしいし、遊びだよ、私とは。』
無機質なメッセージの奥から彼女の悲しみが伝わってくるような気がした。
『……君は、どうしたいの?』
またしばらく間を置かれた。
『本音を言うと、真田課長は奥さんと別れて欲しい。そしたら私だけを見てくれる。でもそれは無理じゃない? 口先だけで妻とは上手くいってないとか仮面夫婦だって言うけどさ、いくら私、バカでも分かるわよ。子どもだっているし、そう簡単に別れるわけないって。』
『課長と別れた方がいいって、分かってるよね?』
『分かってる。そりゃあね。』
次の瞬間、僕は自分でも信じられないような行動に出た。
『課長と別れて、僕にするのはどう……?』
なんでそんなことをしたのか分からない。気づけば指が勝手にそんなメッセージを送っていた。彼女に好意を持っていたのは確かだけど、こんなに性急にことを進める気はなかった。僕でも自分のやっていることがよく分からない。彼女に言えた口じゃないのかもしれない。しかし、おそらくもう読まれてしまった。後には戻れない。メッセージの返信は、その日は来なかった。
次の日の昼休み、榎本さんから電話がかかってきた。昨日の返事がしたいから屋上に来て欲しいとのことだった。なんとなく、無理だろうな、と感じていた。当たり前だろうと思った。叶わない恋に苦しんでいる人に告白するなんて、お門違いだ。余計に彼女の心を掻き乱してどうする。彼女の悩みを増やすことになってしまう。それにしても初めての告白がメッセージで、おそらくは振られるだなんて、なんとも情けない。
「ごめん、気持ちはありがたいけど、私はやっぱり課長が好きなの。その気持ちを残したまま冴木くんと付き合うのは失礼にあたると思うから……。」
彼女は流されやすそうに見えて芯が通っている。そういうところも好きだ。
「分かってたよ。ちなみになんでそんなに課長が好きなの?」
「お父さんみたいだから。同年代の男はみんな私の身体が目当てだけど、課長はそうじゃないの。大人の魅力があって、ガツガツしてなくって、私が知らない知識をよく教えてくれるの。話していて楽しい。」
それを語る榎本さんの表情は、恋をしている人の顔だった。課長のことが本気で好きなのだと伝わった。
「そうか。でも僕は、榎本さんの身体が目当てなわけじゃないよ。」
「分かってる。冴木くんは、私のことをちゃんと見てくれてる感じがする。それは嬉しかった。」
彼女の顔が綻んだ。どうやら本気で言ってくれているみたいだった。
「私ね、付き合った回数は人よりも多いんだろうけど、みんな私の身体目当てか、いけそうな女だって思うから付き合うの。」
「どうしてそんなこと言えるの? 本気かもしれないじゃん。」
それが本当だとしたら、彼女が過去に付き合ってきた男達は随分と失礼だと思った。
「なんとなく分かるんだよ。今夜はやれないって言ったら不機嫌になるとか、付き合ったらあまり連絡しなくなるとか。」
「そうなのか……。」
恋愛経験なんか無いに等しい僕は気の利いた言葉が返せない。
「だけどこっちは本気になっちゃうから傷つけられる。好きになってしまう。そんな男なのにね。どんな理由であれ、求められるのが嬉しいのかもしれない。私ね、大学生のとき付き合ってた人に『お前みたいなブス、誰が本命に思うかよ。』って言って振られたの。私がこんな風に誰とでもやるようになったのは、その後から。」
彼女は目に涙を溜めていた。なんて酷い男だと思った。榎本さんを、女性を、モノとしか見ていないんじゃないだろうか。
言葉を失っていると、彼女はそのまま話し続けた。
「あとね、私、女の人から嫌われやすい。いつも喋り方、作ってるからかもね。男の人から気に入られるために。裏表がありますって自分から言ってるようなもんだよ。」
そう言われて、彼女が僕の前では語尾を伸ばした喋り方をしなくなったことに気がついた。これが彼女の素、ということなのかもしれない。僕に対しては素を見せてくれていることに、喜びを感じた。
「冴木くんの隣りの席の内海さんも、私のこと嫌いでしょ?」
「……。」
僕は器用じゃないから、嘘なんかつけない。それについたとしても、彼女にすぐ見破られてしまうような気がした。
「あの人表面上は愛想いいけど、お腹の中では私を嫌っているんだろうなってなんか分かる。表情の強ばりとか言葉のぎこちなさとかでね。」
僕は男子校出身だから、そうした女性同士の細やかで陰湿な人間関係がよく分からない。僕が接してきた同級生たちは、進学校ということもあって、いい意味で他人に関心がなくて、裏表のない奴らばかりだった。
「……君は、女性に好かれたいとは思わないの?」
僕だって大して人気者の素質があるわけじゃないけど、それでも人に好かれたいという気持ちはある。同性、異性関係なくだ。
「私、そんなに器用じゃないからさ、男の人からたとえ身体だけでもいいから好かれたいって思ったら、女受けを捨てなきゃなの。」
そういうものなのか。人間って難しい。
恋愛が上手くいかない僕らは、これから先どうなっていくんだろう。榎本さんが課長を諦めて、僕に振り向いてくれる日がくるんだろうか。あるいは、課長が本気になって、家庭を捨てて榎本さん一筋になる日が……それはそれで、あまり良くない気もするけれど。
「香織さん。」
いきなり名前で呼んだので、香織さんは少し驚いたような顔をした。
「それでも僕は、君が好きだよ。そんな風にもがいて、女社会で上手く生きれてないところも、本当の愛を手に入れたいって苦しんでるところも、全部好きだ。」
初めての告白をメッセージで終わらせるのは気が引けた。僕だって相当恥ずかしかったけど、ちゃんと気持ちが伝わるように、一言一言丁寧に伝えた。
「ありがとう……なんで君は、そんなに好いてくれているのに、私はやっぱり課長が好きなんだろうねぇ。人生って、上手くいかないなぁ。」
香織さんの顔にはほんのり赤みが差しているように見えた。もうすぐ昼休みが終わる。都心のど真ん中にあるこの会社は、人も仕事も移り変わりが激しい。東京で生きたいなら、それに慣れなければいけない。僕は東京で生き始めたばかりだから、この土地も、仕事も、自分に合っているかは分からない。だけれど誰かを好きになることがこんなに尊いことだと気づけた。それはとても価値があることだと思った。彼女が僕を変えてくれたように、僕も彼女をいい方向に変えてあげたい。そう強く思う。