第六話 悪夢の終わり
イザベラは何種類もの甘ったるい香を焚いて、金髪の人形に向かって呪文を唱えていた。人形は、呪い師がよく使う。病気や怪我を治したり、反対に重くしたりする。呪術は魔法と違って魔力を使わない。使うのは“命”だ。
草や花、虫や鳥、動物……そして魔物や人間。
そのため呪い師も、それに依頼する者も顔を隠し、闇に紛れる。
それほどの対価を払っても、繋ぎ止めたいものがある気持ちが、ぼくにはよくわかる。……わかってしまう。ぼくだって今までの七回のやり直しの中で、オルフィに知られたくないことを山ほどしでかしている。
だからと言ってそれが、イザベラを見逃す理由にはならない。しかも、イザベラの肩に乗っているのは、ベロニカによく似た異形の悪魔。
(この小屋ごと全部凍らせて、砕いてしまえば楽なんだけどなぁ……)
それじゃ上手くいかないことは、何度も経験した。逃がさず、殺さず、言い逃れが出来ない状況を作り上げることが大切だ。
* * * *
ぼくは一番細いお腹の毛に、氷の力をこめてから硬く、鋭くした。そして窓のわずかな隙間から、滑り込むように部屋の中へと操作する。まずは術の対価として用意されていた、生き物たちに刺して仮死状態にした。これでイザベラは、命の力をチャージ出来なくなる。
次に正体を露わにしている、小悪魔ベロニカを封じてゆく。飛べないよう、背中の羽根の根本に一本、呪文を唱えられないよう舌に一本、魔界に逃げ帰れないように、尻尾の根本に一本。チクリと刺して凍らせる。一応、手足の神経にも刺しておこう。
「あ……、あう……」
ベロニカがコトリと床に落ちて動かなくなる。そんなに力のある悪魔じゃないな。夢魔のたぐいだろう。人の夢に干渉して、記憶や感情を操る。
あの人形……あれが触媒なのかな? 旦那さまに似ている。
なんて小者なんだろう。たいした敵じゃない。こんなやつらに、ぼくとオルフィは、長い……本当に長い間苦しめられて来た。
「ベロニカ? どうしたの?」
人形に術をかけていたイザベラが顔を上げる。イザベラの力は全て削いでやった。もうこの女は何も出来ないただの毒婦だ。
(こいつだけは、腕の一本も噛み千切ってやらないと、腹の虫が収まらない!)
ぼくはゆっくりと、小屋の中へと入って行った。
* * * *
「旦那さま! しっかりして下さいな!」
女中頭のマーヤの声で意識を取り戻す。俺はどうやら執務室で意識を失っていたらしい。長い間、悪い夢を見ていた気がする。久しぶりに頭がはっきりして、自分と家族に何が起きていたのか把握する。
「なんてことだ……。俺は取り返しのつかないことをしてしまった……」
ことの起こりは、妻の……キャロラインの命を繋ぎ止めたい一心で、後ろ暗い手段に手を染めたことだ。裏路地の酒場で紹介された、胡散臭い呪術師。それがイザベラだった。
美しくはあったが、毒に塗れた腐った肉片のような女だった。同じ部屋に入ることさえ寒気がしたが、キャロラインの命の炎が尽きかけていると知った時に、既に俺の箍は外れてしまっていた。
言われるままに、おぞましい触媒を用意した。俺やキャロラインの血や髪の毛、対価の命となる多くの動物や魔物……。
だがイザベラはキャロラインを救うことはせずに、俺に術を仕掛けた。
俺はイザベラを愛していると思い込み、あろうことかキャロラインが死んでたった三ヶ月でイザベラを妻に迎えた。実際には魔界の生き物であるベロニカのことを、自分の娘だと記憶を操作されていた。
病床で苦しむ妻を裏切って愛人の元に通い、子供まで作っていたという偽りの記憶は、妻を亡くした悲しみと共に、深く鋭く俺を苛んだ。
屋敷に寄り付かなくなり、イザベラとベロニカがオルフィーユに辛くあたっているというマーヤの訴えを、聞くのも苦しくて仕方なかった。イザベラがオルフィを憎むのは、自分を想う故だと思っていたのだ。
俺は自分の辛さに手一杯になって逃げた。逃げ出してしまった。小さなオルフィーユに、全てを押しつけて。
「おとうさま、いたいの? くるしいの?」
オルフィが小さな手で俺の手を握っている。目にいっぱいの涙をためて。まだ……間に合うのだろうか。全てのものは、この手から溢れてしまってはいない。そう思うことは、許されるだろうか?
「オルフィ……。すまなかった。俺の愚かさと弱さのために、辛い想いをさせたね。また、君を愛することを、父に許してくれるかい?」
「おるふぃは、おとうさまが、だいすきよ」
キャロラインは戻っては来ない。だが、彼女を愛する気持ちは取り戻すことが出来た。妻を裏切ってはいなかったという正しい記憶は、俺にやり直す勇気をくれた。
「オルフィ、愛しているよ。それと、信じてくれ。父は、君の母だけを愛していた。イザベラに心を動かしたことは、ただの一度もない」
「おかあさまは、知っていたわ。おとうさまのことがだいすきで、さいごまで幸せそうにわらっていたもの。おるふぃも、おとうさまをしんじる」
ありがとうオルフィ……オルフィーユ、わかるかい? 今、父は、君の言葉で救ってもらったよ。
重く苦しかった悪夢から、ようやく目覚めることが出来た。小さな君が、涙をこらえて踏みとどまってくれたから、父は戻って来ることが出来た。
* * * *
こうして、お屋敷全体を覆っていた、長い長い悪夢が終わった。まあ、長いと感じているのはぼくだけで、実際にはわずか半年近くの出来事なんだけどね。何しろぼくは八回目だ。
イザベラは今は牢に繋がれている。禁術を使ってこの家を乗っ取ろうとしていたのだ。もう二度と生きては出て来られないだろう。
ぼくはイザベラを噛み千切ってやろうかと思ったけれど、そんな必要はなかった。ぼくが飛びかかろうとした瞬間、呪い返しがはじまったのだ。呪術は失敗すると、その全てが術者に返って来る。
悪夢に囚われて、きっとその精神が壊れてしまうくらいの苦痛に苦しんでいる。
ベロニカを装っていた悪魔は、イザベラとの契約が切れて魔界に帰って行った。あれは、ああいう生き物だから仕方ない。『今度見かけたら、問答無用で凍らせて砕くぞ!』と散々脅しておいたから、もう呪術師の召喚に応じることもないだろう。
ぼくの毛を一本、尻尾の先に深く刺してあるから、もし万が一こちらの世界に干渉して来るようならすぐに気づくだろう。その時はこの世の果てまで追いかけて、遠慮なく粉々にしてやる。
旦那さまは、呪術の後遺症にしばらくは苦しむことになるらしい。見た感じだと、依存物質の禁断症状に似ている。夢魔の見せる夢はその内容に関わらずに、甘さと快楽が伴うものだ。まぁ、そのくらいは我慢して欲しいな。ぼくとオルフィが何度も舐めた辛酸に比べれば、甘いだけまだマシだと思う。
そんなわけで、ぼくのやり直し八回目はまずまずのスタートを切った。しばらくはオルフィも穏やかに暮らせるだろう。このあとの山は、五年後にやって来る。あの愚かで自分勝手な王太子との婚約だ。
それまでにぼくは出来ることを、まずはじっくり考えよう。何度か進化もしなくてはならない。
でも今だけは、満面の笑顔でぼくをもふもふするオルフィを眺めていたい。くすぐったくて、気持ちよくて、たまらなく幸せな気持ちになる。
うん……うん。狼、悪くないな!