第十七話 夢の中での決戦
しばらく歩いて行くと、生臭い風が吹いて来た。森の中のような穏やかな景色が、少しずつ不穏なものへと変わっていく。
「犬っころ! なんや大物の気配がするで」
ベロニカがブルっと身震いしながら言った。
「夢の中のことは、ベロニカの手のひらの上なんじゃなかったの?」
「手のひらの上にあったかて、握り潰せるもんとでけんもんがあるやろ」
「なるほど。魔法はまだ禁止?」
「そんなこと言っとる場合やあらへん。解禁や!」
見えて来たのは、大きな大きな蜘蛛の巣。寝ている王妃さまは絡み取られて、身動きひとつ出来ない状態だ。張り巡らされた巣の真ん中には、ぼくら二人分よりも大きな、女郎蜘蛛が陣取っていた。
「夢女郎や! 夢蜘蛛の中でも性悪や。こんなもんに巣食われて、よくまあ七年も干からびずに済んだもんやな!」
「弱点は?」
「火や!」
「えー、ぼくと同じだよ。とりあえず糸を凍らせてみる?」
「王妃さんはうちが守るさかい、思い切り行ったれやシーバ!」
ハハッ! コイツ、ほんとにあのベロニカなの? こういうの、契約に忠実で良い悪魔ってことなのかな。何にしろ、やりやすい!
自重を外して、底が見えるくらいまでの魔力を練り上げる。ブンっとぼくの周りの景色が歪み、そのあとパキパキと凍りはじめた。
額にある氷の魔石が、青く光り出す。
「ちょっ、待てや犬っころ! いくらなんでも……! それは……」
ギリギリまで圧縮して、物理的な性質を帯びた冷気を手のひらから放出する。うん、ぼくの魔力、思ったより強くなってたみたい。
夢女郎が粘着質の糸を吐いたけれど、ぼくの魔力の方が勢いがある。押し返してそれごと押し潰し、全て凍らせる。
春の装いだった夢の中は、ぼくの魔力の影響ですっかり雪景色になってしまった。
冷気が糸を伝って王妃さまに届く直前に、ベロニカが「うひゃあー!」と悲鳴をあげながら切り離した。
あれ? ベロニカ、どんどん小さくなってる?
「全く、何てことしてんのや! 夢が砕けたら、うちらも王妃さんも無事には済まんやろ」
手のひら大まで縮んでしまったベロニカが「しかも寒くて堪らんわ!」と、プイプイと文句を言う。自分で思い切りって言ったくせにさぁ!
「あーあ、せっかく三十年分も寿命もろたんに、使い切っても足りひんかったわ……」
ブツブツ言いながらも、王妃さまに巻き付いている糸を切っている。小さいのがちょこまかと動いていて、なんだか微笑ましい。
「女郎蜘蛛、どうする? 砕いて平気?」
「あ、うちがもろてええ?」
「うん、ぼくには使い途がないからね」
ベロニカがフンフンと鼻歌をうたいながら、潰れた夢女郎へと尻尾を突き立てる。命を受け取り、少しずつ元の大きさへと戻る。
ぼくは他の魔物とも、悪魔とも、あまり行動を共にしたことがない。戦ったことなら何度もあるんだけどね。特に魔王になった時。
「悪魔って伸縮自在なの? すごく大きくもなれるの?」
「大きくはなれへんよ。それにあんまり小さくなり過ぎるとヤバイねん。ちょっと危なかったわ」
危険を承知で小さくなったの? 王妃さまなんて、ベロニカにとってはなんの関わりもないのに。ぼくは悪魔のことも、ベロニカのことも、知らないことが多い。
聞いてみたい気もするけど、素直に答えるとも思えないな。ぼくが気づかないふりをすることを望んでいるように見えるし。
そのうち尻尾を掴んで、色々聞き出してやる!
そうこうしているうちに、王妃さまに加護を与えていたらしい精霊が姿を現した。
「まあ、ずいぶん可愛い子たちが助けてくれたのね。ありがとう! そろそろヤバイなぁって思ってたのよ」
精霊なんて初めて会うけど、ずいぶん気さくなんだな。ニコニコ笑ってお礼を言われて、ちょっと嬉しくなってしまった。
「いえ。王妃さまが起きてくれないと、ぼくが困るんで……」
「なあなあ、なんであんなもんに巣食われてたん? 精霊の加護もちなんやろ? この王妃さん」
「出産で弱っていたところに、卵を植え付けられちゃったの。この子の加護はあまり強くないから。慌てて駆けつけた時は、手がつけられなかったの。本当に助かったわ」
「人間がやったの?」
「そうね。お灸をすえてやらなくちゃ」
春の精霊が、ふふふと笑った。すごく優しそうな笑顔なのに、ぼくはちょっと寒気がした。おかしいなぁ、ぼく氷の魔物なのに。
「あなたたちに、お礼がしたいわ! 何か望みがあったら言ってみて」
「あ、あの……お願いがあるんやけど……」
「何かしら?」
「イザベラっちゅー、ケチな女がおんねん。たぶんもうすぐ死ぬ。どうしようもなく性根が腐っとる。このままやと魂に傷がついて、輪廻の輪に入れん。なんとかならへんか? ほんまアホやったけど、居場所のない可哀想な奴やねん……」
「ベロニカ……」
「わかったわ。ちょっとその子にもお灸をすえて、きれいになってからで良いかしら?」
「ほんまに⁉︎ おおきに!」
ベロニカが、泣きそうな顔で笑った。イザベラとベロニカの関係も、ぼくの知らないことのひとつだ。イザベラの事情なんか知りたくないけどね!
「氷の子の君は、何かある?」
ぼくの望み……。そんなの山ほどある。オルフィのこと、クズ王子のこと、繰り返させるやり直しのこと……。
でもそれを他人の手に委ねるには、ぼくは望み過ぎている。抱え過ぎているし、拗らせ過ぎている。つまり、今更手放すことが出来ないほど、ぼくだけの問題だということだ。……自分でも何を言っているのか、よくわからなくなって来た。
「……特にありません」
結局ぼくは、お願いを口にすることは出来なかった。
「そう……。それじゃあ君には、可能性をひとつあげるわ。君の進化の枝を、ひとつ増やしてあげる。君が辿り着けることを祈っているわ」
「あの、ぼくの魔力の影響で、夢が冬になってしまったの、大丈夫ですか?」
いい感じに〆て、帰ろうとしている春の精霊を呼び止めて聞いてみた。このまま王妃さまが凍えてしまったら大変だ。
「ああ、返って都合がいいわ! この子ずっと私の力を貸していたから……。ほら、春ってついつい居眠りしちゃうじゃない? 君の魔力の影響が薄れる頃には、自然と目覚めると思うわ。季節の理が正しく機能すれば、冬に眠って春に目覚めるのよ!」
春の精霊はそう言って、精霊界へと帰って行った。
これで王妃さまが目覚めて、全て解決なんてしないだろう。クズ王子はこの先も、クズのまま成長するかも知れない。
でも、あんなに大きな夢女郎蜘蛛に、七年間も負けなかった女性だ。きっと王さまも王子も叱り飛ばして、健やかな家族を取り戻してくれる気がする。
でも王子は出来れば……人に迷惑をかけない、オルフィに嫌われる程度のクズな成長をしてくれると良いなと思う。
ベロニカはぼくの毛を、尻尾の根元に刺したまま、魔界へ帰って行った。きっとこれからもぼくの魔力をかすめとって、魔界で商売をやるつもりなんだろうな。ちゃっかりしてるよね。
でもそれは、ぼくもベロニカをまた魔界から引っ張り出せるってことだ。ベロニカはきっと、それも承知している。
これでぼくは、またひとつ、障害を取り除くことが出来たんだろうか? 少しは憎しみから、遠ざかることが出来たんだろうか。それがわかるのは、きっともう少し先の話だ。
わかっているのは、ぼくに初めての友だちが出来たのかも知れないことだ。