第一話 氷の魔物の恋
ぼくはちっぽけな氷の魔物。雪の日に、空から舞い降りる途中で意識が芽生えた。ゆらゆら、ふわふわ漂ううちに、一人の小さな女の子の髪の上に落ちた。
「まあ、小さなかわいい、ふわふわさんね!」
女の子はそう言って、ぼくを手のひらに乗せた。寒さにかじかんだ、小さくてぷにぷにと柔らかい手のひら。でもぼくにはちょっと温か過ぎるかも。ぼくの身体の端っこが、じわりとゆるんで溶けはじめる。
「たいへん! これなら、だいじょうぶ?」
女の子がぼくを雪の積もる地面の上に下ろし、しゃがみ込んで無邪気に笑う。髪の毛にうっすらと雪を積もらせて、鼻の頭を赤くしている。
(なんだろう、このくすぐったい気持ち)
舌っ足らずの幼い声を聞くと、正体不明の懐かしさで胸が苦しくなる。そして、白く染まりゆく世界で、ぼくの視界だけが赤く濁った。
カランカランと、どこかで鐘が鳴る。あれは君の処刑の時刻を告げる鐘だ。
カランカラン……カランカラン。
途切れずに鳴り続ける。だんだんと響きを増して重なり、雪景色がグニャリと歪む。
女の子の薄水色の瞳、鮮やかな血の色、どろりとした後悔に似た闇の色。途切れることなく舞い落ちる、無垢の白。
ぼくの目覚めたばかりの自我が、到底受け止められないほどの膨大な記憶で塗り替えられてゆく。
(ああ、またダメだったんだ)
ぼくはまたここに戻って来た。ぼくのオルフィ。オルフィーユ。君のためだけに、十二年を過ごしたのに。
君はあと五年もすると、この国の王太子と呼ばれる身分の高い王子の婚約者になる。その頃から優しい君はなぜか悪役令嬢と呼ばれるようになる。
そして君が十七歳の年、魔法学園の卒業式で婚約者からひどく……ひどく傷つけられて捨てられる。
小さな魔物に過ぎないぼくが、なぜそんなことを知っているかというと、もう何度も繰り返しているから。こうして君のもとに舞い降りるのは……そう、これで八回目にもなる。
何度出逢っても変わらない。君の温かさに触れて、ぼくは何度でも君に恋をする。
ぼくは小さな氷の魔物。冷たい身体で身を焦がす、焼けつくような恋をした。
* * *
一番最初、ぼくは貴族のお嬢さまであるオルフィのペットの魔物だった。オルフィと雪の日に出逢い、一緒に育ち、学園にも着いて行き、彼女が破滅してゆくのを一番近くでずっと見ていた。でも、ペットの魔物ごときに出来ることなんてたかが知れている。
ぼくに出来たのは、最後までオルフィと一緒にいること。ひどい冤罪で処刑台へと送られた彼女の、温かな血に塗れて溶けて消えることだけだった。
寂しく辛い日々を過ごすオルフィのそばにいてあげたかった。少しでも慰めて温めてあげたかった。
笑っちゃうよね。ぼくは冷たい氷の魔物なのに。
誰よりもオルフィの近くで過ごす日々は、ぼくにとっては幸せだった。オルフィの血で溶けて消えてゆく瞬間に、恍惚としてしまうほどに。
でも、それじゃあオルフィを救えない。
二度目は、自分で手のひらからすり抜けた。いずれ、その手を取るために。力を手に入れるために。
オルフィに冷たくする王子なんて、氷の柱に閉じ込めてあげる。オルフィを陰から苛めるあの女も、凍らせてから粉々に砕いてあげる。
「君を不幸にするこんな国なんて滅してあげる」
ぼくは魔物として経験を積み、進化を繰り返し、強さだけを求めて羅刹の日々を送った。そして、十二年後の運命の日、魔王となってオルフィを攫いに行った。
ところが断罪の場となるはずだった卒業パーティーに、オルフィの姿はなかった。彼女は高い塔の上で、たったひとり冷たくなっていた。
ぼくがそばにいなかった間に、君に何があったの? 血の繋がらない母親と妹から苛め抜かれて心が壊れてしまったの? 婚約者とその恋人に陥れられて、閉じ込められてしまったの?
「こんな場所でたったひとりで逝かせるなんて」
一度目よりもひどい。ぼくは絶望的に選択を誤った。迷わず滅びの呪文を唱え、自分を含めて全てのものを凍らせてから砕いた。
三度目も、あまり上手くはいかなかった。
二年で人型へと進化出来たのは、魔王になった二度目の経験のおかげだ。けれど、オルフィを守りたい気持ちが先走って、彼女を苛める義母や義妹に立ち向かってしまった。それは到底良い結果には結びつかなくて「こんな危険な魔物をペットにしておけない」と、早々に殺されてしまった。ぼくが死んだあとのオルフィの人生を思うと、殺されたことよりも心が痛んだ。
四度目は、人型へと進化したことをオルフィ以外には隠して暮らした。陰ながら彼女を支え、励まし、ひたすらに彼女の心を守った。断罪の日、オルフィは卑しい魔物に心を奪われた浅ましい女として、ぼくと共に処刑された。彼女にやましいところなんて、何ひとつなかったのに。
五度目はオルフィを支えつつ、彼女に相応しい存在になれるよう人間の社会を学んだ。知識を身につけ、役に立つ存在となるべく努力を重ねた。
結果、オルフィの家族に高額で売られ、魔物を縛る結界に閉じ込められて働かされた。ぼくを縛った魔法使いにオルフィが処刑されたことを聞き、ぼくは壊れてしまった。そのあとのことは良く覚えていない。
六度目は、徐々に力をつけて、オルフィを不幸にする要素を少しずつ排除することにした。魔物としての魔法だけではなく、暗殺技術を学んだ。
そして、彼女に冷たくあたる女中を殺し、悪意に満ちた義母を殺し、わがままで底意地の悪い義妹を殺し、オルフィに無関心な父親も殺した。
ところが、ぼくの所業を知ったオルフィは、嘆き悲しみ、苦しみの果てにぼくを手にかけ、自死を選んだ。彼女の手の中で、彼女の意思で生き絶えることは、ぼくにとっては甘やかで幸せなことだったけれど、彼女の心は絶望に塗り潰されていた。
七度目はオルフィから少し離れて見守った。魔物である正体を隠して商会を立ち上げて、人間としての地位と財産を築いた。金で貴族の位を買い、彼女の婚約者の座すらも金で手に入れた。ところがオルフィはぼくに心を開かず、婚礼の日の朝、窓から身を投げて死んだ。
ぼくは泣きながら屋敷に火を放って溶けた。
運命の神さま、時間の神さま。どうしてぼくをオルフィの髪の毛の上に落とすの? 何度も何度も。最後にはぼくからオルフィを取り上げるくせに。ぼくは諦めることが出来ない。出来やしない。
失敗ばかりだった。やり過ぎたことも、足りないこともあった。その時のぼくの精一杯は、振り返ってみれば問題点ばかりだ。でも、だからこそ。
失敗を重ねたからこそ、見えてきたものもある。家の中や家族の性格や人間関係。王族や貴族の繋がり、魔法使いや騎士団の意味、犯罪組織や暗部の情報、国の経済や商売のこと。そして、魔物の動向や立ち位置まで。ぼくはたくさんの経験をして、情報を手に入れた。
何よりも、オルフィのことを細かく把握した。オルフィの周りで起きる出来事や事件、彼女を傷つける人間。全て忘れずに、胸に刻み込んだ。
今度こそ……今度こそ、上手くやってやる。
君の近くに寄り添いながら、力を手に入れる。君の隣に立てる姿と、認められる地位も手に入れる。何ひとつ諦めずに君を守り通し、君を幸せに出来るぼくになる。
もう、魔物だからなんて言わない。君を手に入れる。きっとぼくの手を取らせてみせる。そしてこの、悪夢のような繰り返しから、抜け出してみせる。
もう遅いなんて言わない。ぼくはまだまだ、諦めやしない。