第二章 石化した家族
そういえば、ヒゲが食堂で待っている、と思い出し、フロードは食堂に向かった。
警察署の食堂は、署の奥に作られた質素なもので、天井が低く、フロードは立ったまま手を上げれば、天井に触れる。壁は漆喰で、たまに署員が削ってあそんでいる。
窓がないから、昼に来ているのに、夜の酒場のような雰囲気だ。入れる人数も限られており、署員の10分の一も入らないだろう。しかもシェフの腕が悪く、不味い。値段相応の不味さだった。だから、よほど急ぎの用でも無い限り、ここで食事を取る署員はいない。
ここにいる人と言えば、飲み物を飲んだり(飲み物は市販のもの)、座って話をしたい人たちだ。今回、フロードはその両方だ。飲み物を飲みながら、ヒゲと話をするのだ。
食堂に入ると、人々の会話が、耳にごちゃ混ぜに入って来た。席は七割ほどうまっている。さっき会議室にいた新人警官が「白いマントの人の喋り方に違和感があった」とか「ベテランのオヤジの話がきつかった」のような会話をしているのが聞こえた。
ベテランのオヤジとは自分のことだろうなとフロードは思った。しかし、他人の噂話に心を痛めるような、繊細な心は持っていない。さらりと聞き流した。
フロードはヒゲを探した。すると、奥の席で、蒸しポテト(この食堂で唯一食える料理)をつまみにジュースを飲んでいるヒゲが見えた。フロードが近づくと、ヒゲもフロードに気付き、手で無言の挨拶をした。フロードが席に座ろうとすると「いや、場所を変えよう」とヒゲは立ち上がり、残っていたポテトを急いで口に突っ込み、ジュースを飲み干した。
フロードは何か飲み物が欲しかったが、ヒゲがさっさと行ってしまうので、注文する暇が無かった。
「移動しながら話す。外に馬車を待たせてある。こっちだ」
「馬車? 移動するのか? 今日は早く帰りたいんだけどな」家族が待っているからである。フロードだって、家族に会いたい。しかし、ヒゲは「大丈夫だから」というだけで要領を得ない。
ヒゲは警察署の裏口へ回り、人通りの少ない裏通りへ出た。出入り口のそばに馬車が待っている。
今は夕方だ。それでも影に溶け込めるほど黒い馬車と馬だった。フロードはその馬車を見た途端、日常には無い匂いを感じ取った。乗ってはいけないような気がした。しかし、ヒゲは立ち止まることなく馬車に向かっていった。
ヒゲは、待たせてあった馬車を確認すると、御者に挨拶し、乗り込んだ。フロードも乗り込もうと、ステップに足をかけた。すると、白いマントが目に入った。なんと、ホワイトが乗っていたのだ。
口をあんぐりあけ、ホワイトを凝視しながら、フロードは馬車に乗り込んだ。御者がムチを叩き、馬が動き出す。
「どうしましたフロード? 私が馬車に乗ってるのがそんなにおかしいですか?」
「いや、俺だけだと思ってたから……」フロードはヒゲを見た。
「そうは言ってない」ヒゲは肩をすくめる。
確かに言ってない。しかし、ホワイトとフロードは階級が違う。同じ馬車に乗ることに違和感があるのは事実だ。少し居心地の悪そうなフロードを見かねてか、ホワイトが話を始めた。
「本当は私が確認し、上に報告するだけでいいんですが、問題がありましてね。あなたに関する問題です」
「俺に問題? ちゃんと仕事してるでしょ? 経費を少し……あれしてますが。家族が待ってるし、早く帰りたいんですがね」
「あれしているのは関係ないし、仕事の出来も関係ないです。わたし達が向かっている場所は事件現場です」
「事件現場?」
「はい、それは今まで前例のない事件でして、市民や、上層部以外の警官には伏せておこうという話になりました」
「俺が上層部に出世する……ってわけじゃなさそうですね」
「はい、あなたをほっておくと、この秘密がばれてしまうかもしれないので、先手を打つことにしたのです」
「俺をほっておくと、秘密がばれる……? まさか……」
フロードはホワイトの顔を見つめた。またしても言いにくそうな顔をしている。ホワイトの仕事は、言いにくい事を言う仕事なのだろう。しかし、ホワイトが言い淀んでいると時は、いつもフロードが先に言ってしまう。
「俺の家族が被害者なのか?」フロードは身を乗り出した。
ホワイトはうなづき「被害者は他にも大勢いますが、その通りです」と言った。
蹄の音が反響し始めた。馬車がトンネルに入ったのだろう。トンネルは長く続き、その向こう側には、非日常があるとフロードは直感した。危険で、暗く重い空気が、トンネルの先から、じわじわと漂ってきて、馬車の中に充満し始めているようだった。
フロードはその空気に息が詰まりそうになりながらも、言葉を絞り出した。
「二人の容態は?」二人とは、妻“カホ”と7才になる娘“メアリー”のことである。
「まだ生きています。安心しろとは言えませんが、すぐに死ぬことはないはずです」
「何があった?」フロードはホワイトを睨んだ。別にホワイトを責めているわけではない。しかし、ホワイトは、見たことのないフロードの剣幕に心臓が止まりそうで、思わず目をそらしてしまった。
「ヒゲ、説明をお願いします」ホワイトは、そらした目をヒゲに移した。
「ああ、任せろ」ヒゲはフロードの剣幕を全く気にせず、いつもより少しまじめに話を始めた。ホワイトはヒゲの図太さが羨ましかった(腹の事ではなく、精神の事)。
ヒゲは持っていたカバンから資料を取り出し、それを眺めながら話し始めた。
「事件があったのは昨日の昼、被害にあったのは24人だ。その中にフロードの家族。今から話すのは、彼らの記憶から抜き取った事件の情報だ」
「昨日の昼ということは、あの後か……」フロードが妻とビデオ通話をした後だ。
セカイトメントの警察には、人の記憶を見る魔法を使えるものが必ずいる。事件のあった時間の記憶だけは見てもいいと、法律で決まっているのだ(記憶を持つ本人が拒否しなければ)。ほかの記憶をみていけない理由は、説明しなくても分かるだろう。
昨日の昼ごろ、被害者たちは、祈りを捧げるために教会へ集まっていた。セカイトメントでは、祈りの効果が実際にあるため、教会はいつも人で賑わっていた。
しかし、地球にいるフロードの無事は、祈っても効果がない。地球は祈りが届かない場所だからだ。それでも、フロードの妻は彼の無事を祈っていた。
娘が付いて来たのは、自分が植えたトマトの育ちが良くなるように祈るためだ。実は、祈りの効果が一番あるのが、植物の成長である。だから、農家の多いセカイトメントは祈りが盛んだった。
教会は祈りのほかに、主婦たちの集会所でもあった。地球の教会とはイメージが異なり、セカイトメントの教会は主婦たちがお菓子や飲み物を持って集まり、ペチャクチャ談話をする場所だ。ファミレスの隅に、祈りの祭壇がおまけで付いているような感じだ。
事件は、フロードの妻が友人と、夫の不満の話で盛り上がっている時に起こった。
教会の扉が、突然勢いよく開き、外から人間が歩いて来た。教会にいた人たちはその人間に注目した。
その人間は、光が集まり、人型を形成しているような見た目だった。眩しすぎて、直接見ることは出来ない。
あたりが熱い光に照らされる。教会の中の人々は、顔を覆い、テーブルの下に隠れた。恐怖に震えながら、その光が消えるのを待つ。だが、光は消えるどころか、その輝きを増し、熱もどんどん上がって行く。さらに、地響きが起こり始め、誰かの悲鳴が聞こえた。フロードの娘だろうか?
「ここで、被害者たちの記憶はおしまいだ」
ヒゲが語り終えると、フロードは「それでどうなった?」ヒゲが持っている資料を覗き込んだ。
「いや、ここまでだ。」
「続きは到着してからです」ホワイトが言う。「犯人は地球人である可能性が高いです」
「地球人か……その根拠は?」フロードはブチギレて暴れたくなる衝動を抑えているようだ。手足がせわしなく動いている。蹄の音が増えたかと思ったら、フロードの足が馬車の床をコンコン鳴らす音だった。
「魔力が強すぎます。セカイトメントの人間にこんな魔法を使える人間がいれば、すでに有名でしょう」
フロードは「なるほど」とうつむいて、ため息を吐いた。いや、落ち着くための深呼吸だ。ふと、一つ疑問が思いつき、顔をあげ、
「なぁ、なんで地球人の心がこっちに来ると強力な魔法が使えたり、強い魔物になったりするんだ? そりゃあこっちの世界にも天才はいるが、確率的に地球人の方が多いだろ? おかしくないか?」
「ああ……これは魔法大学の研究の受け売りですが……。地球人は心だけこちらに来るからだと言われています。人間の心というものは本当はものすごい力があって、それを肉体に入れる事によってコントロールしているのです」
「なるほど、じゃあ本体を殺したら、心が暴走したりしないのか?」
「しません、心というものは、宇宙からの借り物だと言われてます。心を持つものが死んだら、心は宇宙に帰って行くのです」ホワイトはそこまで言うと「仮説ですが」と付け加えた。
フロードは、ホワイトの話には納得した。しかし、まだ気になる事がある。それを質問しようか迷っていた。「なぜ地球人は、強いやつに限って、セカイトメントの人間を襲うんだ?」と言う質問だ。だが、強いやつに限るなんて、確認したわけじゃない。
強いやつでも、ふつうに農業をやって、すごいスピードで畑を耕しているかもしれない。あるいは、弱い奴がセカイトメントの人間を襲って、その場で押さえつけられて、警察に報告が入らないだけかもしれない。
フロードが質問をやめると決定した時、馬車は目的地に着いた。
石畳の道、レンガと漆喰で作られた家々。そして、そこから漏れる光。フロードにとっては、懐かしい街並みだ。ちょっと歩いていけば、自宅がある。フロードは空を見上げた。星がきらめく横で、灰色の雲が月に照らされ、夜空を漂っている。もう夜だ。
教会の周りに警察がバリケードを張っている。そのすぐそばに馬車は止まった。教会は、ほかの家々より少し大きいだけで、作りもほとんど変わりがない。田舎の教会の特徴だ。もし観光客がいたら、教会だと気づかないだろう(観光客なんて来た事がない)。
ホワイトが降りると、見張りの警官は敬礼をした。フロードが降りてもヒゲが降りても、いちいち敬礼をした。ご苦労様な事だ。
ホワイトは、教会の扉の手前で立ち止まりドアノブに手をかけ、「いいですか? 静かに歩いてくださいね。割れたら大変です」
と言った。
「割れたら?」フロードは不思議に思った。
しかし、教会に入ると、その意味がわかった。
教会の中に、石でできた人間が沢山いたのだ。石の人間たちは、テーブルの下に隠れたり、扉から目を背け、腕で顔を隠したりしている。その静けさはまるで、石の彫像を飾る美術館に来たようだった。
フロードは呆然とし、石の人間の顔を見た。その顔は、眩しさと恐怖で歪んでいた。
「これが、被害者たちか?」フロードが独り言のようにつぶやく。
「そうだ。どんな魔法を使ったかも、解決法も分からない。多分犯人は地球人だろうって事で捜査している所だ」ヒゲが気まずそうに髭をいじりながら言った。「フロード、そこだ」
ヒゲが指差した先に、石になった親子が座り込んでいた。子供は母親の胸に顔を埋めていて、母親はそれを抱きしめている。フロードはその親子に歩み寄った。
寄らなくてもわかっていたが、信じたくなかった。石になった家族を目の前にしたフロードは、両手で頭を抱え込み、床に向かって「くそ!」と怒号をあげた。教会の床は震え、その振動はホワイトにもヒゲにも伝わった。
フロードは思い切り空気を吸い込み、ゆっくりと吐き、しゃがみ混んだ。そして、二人の顔を見つめた。
「直す方法はないのか?」
「調査中ですが、確実なのは、魔法をかけた本人を倒す事が一番でしょうね」
「地球人なんだな?」フロードは妻の顔を指先で撫でている。
「その可能性は高いです。犯人の心の波長は現場から採取済みです。明日には居場所がわかるでしょう」
「わかった。頼むぞ」フロードは立ち上がった「ほかに話はあるか?」
「ええ……。彼らには今、心がありません。犯人に奪われているのかもしれません」
「心が奪われている?」
「普通、体を操るために心を奪う事が多いんですが、今回は体は石にされている。わけが分かりません」ホワイトは首を小さく横に降ふった。
「なんにせよ、心を取り戻さないと、被害者は助からない」ヒゲが話に入って来た。「お前をここに連れて来たのは、まだ情報がしっかり集まってないから、内密に頼む、という事だ。パニックを防ぐ為にな……。まぁ、地球に行く連中には明後日話すかもしれん。でも、まだ話しちゃダメだぞ」
「警察に大勢の市民が押しかけた事件、覚えてますか? あれを防ぐ為です」
「わかった」フロードはそう言うと、二人の顔を交互に見ながら言った。「犯人の場所が分かったら、俺に言え。一瞬で片付けてやる」
ホワイトはうなづき、「犯人が地球人だったら頼みます」と言った。
「絶対地球人だと思うけどな」ヒゲが髭を撫でながら言った。
その後、ヒゲはホワイトとフロードに、再発を防ぐための対策やら何やらを説明した。犯人の詳細がわからない為、仕方ないが、どれも役に立たなそうなものばかりだった。というか、フロードには関係ない話だった。作戦は全てセカイトメントのもので、フロードは明日休み、明後日には地球に行くからだ。
それでもフロードはその対策を聞いていた。家族が待っているはずだった家には誰もいない。フロードはいきなり暇になってしまった、と言う理由もあった。
対策を聞き終えると、ホワイトが「あ、すみませんフロード。もう帰っていいですよ。家、近いんですよね?」と言った。家に家族がいないことを気遣ってか、かなり優しい口調だ。
フロードも対策を聞き終わってから、自分にやる事は無いと気付き、ホワイトに対して苦笑いを向けた。
「フロード、地球に1ヶ月もいたんですから、マナも少なくなっている筈です。マナが少ない時の心労は、命に関わります」
「あぁ、そうですね」フロードは今まで眠っていたかのような反応だった。話を聞きながらも、家族のことを考えていて、話が頭に入ってなかった。まさに心労が酷い状態だった。
「じゃあ、今日はこれで……お疲れ様です」フロードは軽く頭を下げ、扉に向かった。どこか上の空という表情だった。
「お疲れ様」
「お疲れ様です……あ、フロード!」扉を開けようとしたフロードをホワイトが呼び止めた。
「しっかり休んで、しっかりマナを補充しておくように!」
フロードは目を丸くしてホワイトを見た。なるほど、ホワイトは面倒見がいい。本来なら妻が気を使ってくれている事だ。今は妻がいないから、食事には気をつけろって事なのだ。フロードはホワイトが上司になる事に不満を持った事は無いが、適任だと思った事も無かった。気は弱いし、戦えるわけでもない。しかし、今、適任だと思った。
フロードは「大丈夫ですよ」とホワイトに笑顔を向け、教会を出て行った。
教会から10分ほど歩くと、フロードの家がある。家の作りはレンガと漆喰という、周りとそう変わりないが、フロードの稼ぎの良さを象徴する二階と庭があった。庭はフロードの腹ぐらいの高さのフェンスに囲まれており、妻と娘の家庭菜園に使われていた。
フロードは家の扉に手を触れ、鍵がわりの魔法を使った。登録した人間の魔力にだけ反応し、鍵が開く。セカイトメントでは一般的なものだ。
家に入ると(分かっていたが)暗闇と静寂がフロードを包んだ。フロードは上着を脱ぎ、リビングのテーブルに置いた。普段こんなことをしたら、妻に怒られるが、今はそんなことは無い。
本来なら、妻と娘に「おかえり」と言われ飛びついてきた娘の頭突きを腹に食らっている筈だった。そんな事を考えながら、フロードは台所に歩いていった。木製の冷蔵庫のような箱があり、その中に時の流れが止まった食材が入っていた。
この箱の名前は“時間箱”。命がないものなら、この箱の魔法で、時を止められるのだ。
中には、フロードが帰ってきた時の為か、それとも毎日こうなのか、贅沢な肉や野菜が詰め込まれていた。フロードはそれを見て、顎に手を当て、考えた。自分が料理するにはもったいない、と。それに、疲れていて、慣れない料理をする気力が湧かなかった。
空腹を感じてはいたが、食べる気もしない。寝室に向かい、着替えもせずベッドに寝転んだ。フロードはダブルベッドの広さを感じながら、目を閉じた。
眠れない。目を閉じると、石になった2人の顔が浮かんでくる。娘の方はよく見えなかったが、妻の方は目を思い切り閉じていた。あの時自分がいたらとか、もし助けられなかったらとか、犯人をどう料理してやろうかとか、色々な思考が頭をめぐり、フロードは眠りとは逆の興奮状態になっていった。そういえば、体内のマナが少なくなっていると、マイナスな感情に囚われることがある、と聞いた事がある。
フロードは起き上がって、ため息を一つつき、寝室を出た。こんな状態で眠れるわけがない。そう思い、上着を着なおし、家を出た。近くに酒場がある。そこに行って酒を飲みマナを補充する。そうすれば眠れるかもしれない。
マナというのは、セカイトメントのあらゆる場所に存在する、心のエネルギーのようなものである。セカイトメントの人間は、マナが切れると、生きる気力をなくし、悲観に暮れ、食事も取らなくなり、結果的に死んでしまうのだ。地球ではうつ病に近いだろう。
それを防ぐためにマナを補充する必要がある。マナは呼吸するだけでも補充できるが、一番効率がいいのは、マナを圧縮し、飲み物に溶かして飲むのがいい。だから、酒だ。
フロードは馴染みの酒場に来ていた。警察の食堂よりは狭いが、品がまあまあ良く、料理も美味い。
酒場に入ると、カランカランとドアベルが鳴った。その音につられ、マスターがフロードを見る。笑顔を向けて来た。フロードも笑顔を返す。マスターの笑顔につられ、フロードは彼の目の前のカウンターに座った。
「酒……強いやつ、それと……量多いやつ」フロードがそう言うとマスターは、
「おまかせって事だな!」マスターは酒の名前を覚える気のないフロードにも寛大だ。
「あ、それとマナを二つ入れてくれ」
「あいよ!」
マスターがシェイカーに酒を入れ、それを振る。熟練の動きだ。しかし、姿勢は悪いし、動きに無駄が無いわけではない。服装だってラフな服装だ。フロードはそれが良いと思っている。品が良すぎると、自分が店に入りにくい。品がなさすぎると、うるさい客が増える。この店はフロードにとって、ちょうどいい店だった。
目の前に置かれたグラスは、透明な液体が入っており、その中に青白く光る氷が3つ入っていた。マナを閉じ込めた氷だ。マナは無味無臭で酒の味に変化は無い。しかし、マナが入っていた方が、美味しく感じると言うのが、万人の意見だった。フロードも例外では無い。
「マナは二つって言ったけど?」フロードがグラスを指差す。
「サービスだよ。いつも平和を守ってもらってるからな!」マスターは屈託の無い笑顔でフロードに言った。
「ありがとな」
フロードは、その分酒が少なくなるんじゃ無いか? と言う残念な考えが浮かんでしまったが、マナの方が高いはずなので、遠慮なく好意を受けることにした。
酒を2、3口飲むと、フロードは夕食がまだだった事に気付いた。特別に空腹を感じているわけでは無い。精神的に空腹を感じていられる状態では無かったからだろう。フロードはとりあえず、スパゲティでも頼む事にした。
スパゲティを注文し終えると、背後でカランカランとドアベルが鳴った。普段は無視するフロードだが、今回は直感が働き、扉を開けた客を見た。短髪でカジュアルな格好のさわやかな見た目の男だった。フロードはその客と目があった。ティムだ。
「おお! フロード! 丁度いいなぁ!」ティムはフロードを見るなり大声を出した。フロードは「おぅ」と手を挙げた。ティムはフロードのとなりに座り、フロードも、体をティムの方へ向けた。
「どうした。奥さんと喧嘩でもしたのか?」
「ははは、いやいや……」フロードは手を振りながら、言い訳を考えた。本当のことは言えないが、嘘をつくのは忍びない。
「ちょっと、止むに止まれぬ事情で遠くに行ってるんだよ。今日知ったんだ。ホワイトが伝えてくれた」嘘は言っていない。
「なんだ、そうかー。じゃあ今日は一人同士飲もうぜ。マスター、ビール!」
ティムが来たお陰で、フロードは少し気が楽になった。家族の事を考えずにすんだからだ。ティムとフロードはマスターも交えて、地球での仕事の話に花を咲かせた。
「地球の酒場も結構面白いぜ、特に日本は変な食いもんあるし、世界中の食いもん集まってるからめっちゃ面白いぜ!」
「そうだったのか? 俺は拠点の近くの店しか行ってないからわからなかった。変な食い物ってなんだ?」
「なんかな……おでんとか? あと、さしみとか? どれもキモいけど美味いんだよ〜」
「刺身は食った事あるが、おでんはないな。美味いなら食ってみたい」
「今度休み合わせて一緒に行こうぜ、旨い店知ってるからよ」
「そうだな」
1ヶ月も暮らすのだから、地球でも休みは当然ある。ノルマさえ達成していれば、休みはいくらでも取れるのだ。食費は経費から一定額出るが、酒は自腹。
フロードは、ティムを見るたび、自分は人生の楽しみ方が下手だと思った。地球での休暇は、ほとんど一人でダラダラ過ごすか、ティムに誘われて飯にいくかだ(たまに、メリの買い出しに付き合わされる事があるが……)。
そういえば、妻もティムの紹介で知り合ったんだ。本当にティムにはお世話になりっぱなしだ。今もこうやって一緒に飲んでくれている。
二人が少し酔い、気分が良くなった頃、ティムは酒を片手に、
「ああ、そうだ。弟さん、手配されてるぜ」
「トニーが?」フロードは驚き、ティムを見た。ティムは、フロードが余計な心配をしないように続けた。
「安心しな、逮捕されるわけじゃない。地球から4ヶ月も帰ってないわけだからな。そろそろマナが尽きちまうから、助ける為だよ」
「そうか、それなら……」フロードは安心し、ティムから目を離したが、すぐ視線を戻した。
「なぁ。それって、俺が探しても良いんだよな」
「いいや」ティムは酒を飲み干し、言った。「お前が探すべきなんだ」
グラスを持った手で、フロードを指差しながら「地球に居たいってやつを連れ戻すには家族が一番いいんだ。統計学ってあるだろ? 詳しい理由はわからないが、確率が高いんだとさ」そう言うと、ティムは氷しか入ってないグラスをあおる。氷がグラスを滑り落ち、ティムの歯に当たる音がした。
「そうか、じゃあ、俺の任務の一つに入っているかもな」フロードは顎に手を当て、髭をなぞっている。
「そう難しい顔すんなって。連れ戻せる確率は結構高いんだぜ? コツは『一度帰って、マナを補充してから考えろ!』って言うことらしいぜ」
「帰るのを嫌がっているのに、帰ってから考えろって言うのか?」フロードが信じられないという顔をすると、ティムは「チッチッチ」と指を振り、
「マナを補充した後でも、地球に住みたいというなら住ませてやるのさ」
「そんなこと許されるのか?」
「でも、マナを補充した後で、地球に住みたがった奴は、今まで一人も居ないらしいぜ。結局、マナが減って、精神がすり減っちまっての行動なんだよ。セカイトメントの住人は、マナが尽きることに慣れていないからな」
「なるほど。実現性の高い方法があるんだな」フロードは自分のグラスを見つめながらうなづいている。すると、そのグラスのとなりに料理が置かれた。トマトをスライスしたものに塩胡椒とオリーブオイル、バジルがかかっている。ティムの目の前にも、同じものが置かれた。
「マスター、これは?」フロードがマスターを見上げる。
「あんたの奥さんから買ったトマトだよ。娘さんが作ったらしい。出すのを忘れてたよ。すまんな」
それを聞いたフロードは、その料理を見つめた。隣ではティムが「うまい、うまいなこれ」と、すでに食べている。
フロードはフォークを手に取り、トマトを一切れ食べた。控えめな味付けで、トマトの香りと甘みが引き立てられている。
「美味い……」フロードは呟いた。
フロードは妻と娘がトマトを植えていた時の事を思い出した。土を耕したのはフロードだ。それを応援しながら見ている妻と娘。種を植えた後、土まみれの手で、顔の汗を拭いた娘。娘の顔を笑顔で拭く妻。そして石になってしまった二人。
泣きそうになってしまった。目頭を押さえ、胡椒が効いたフリをした。
ティムがフロードの肩に手を回し「いい奥さんだな! あ、作ったのは娘さんだっけか? 二人ともいい人だなあ!」と体重を押し付けて来た。フロードは笑いながらうなづいた。
フロードは妻と娘を助けると決めた。どんな事があってもだ。
酒場の前でティムと別れ、フロードは家に帰った。酒が入ったからか、覚悟が決まったからか、フロードはベッドに入るとすぐ眠りにつく事が出来た。服はそのままだ。