プロローグ
ハリウッド映画をイメージして書いています。
少し未来の日本
土砂降りの雨の中、周りを田んぼに囲まれた道路を男が歩いていた。身長は180㎝くらいだろうか。黒いコートを着込み、フードを深く被っている。傘はさしていない。唯一見える口元は、少しエラが張っており、無精髭が生えていた。
不思議な事に、彼は濡れていなかった。まるで、体の表面に膜が張ったように、雨は彼の体の1ミリ外側を流れ落ちている。
反対側から、学ランを着た少年が歩いてきた。近所の中学校の子だろう。片手でスマホを操作しながら、もう片方の手で傘をさしている。
部活帰りだろうか? 下校時間はとっくに過ぎていて、あたりは暗く、ほかに人はいない。少年は男に気がついていないようだ。
男はそれを見ると、ポケットからスマホを取り出し、それを見た。そしてすぐにスマホをしまい、歩みの速度をあげた。男の腕はダランと下げられ、もう片方の手はポケットに入れたままだ。少年と男の距離が縮まる。
すれ違いざま、男は手を振り上げ、少年の頭に掴みかかった。少年は一瞬、驚いた表情を見せ、男の顔を見ようとした。しかし、その瞬間、パンッ!と何かがはじけるような音がして、少年はその場に崩れ落ちた。
その目は驚いた表情のまま硬直しており、外傷はない。雨が眼球に何度も落ちるが、全く反応はない。少年は死んでいた。少年の傘が、持ち手を中心に虚しく転がっている。
男はしゃがみ込み、少年の目を閉じさせ、彼に向かって手を合わせた。そして、立ち上がり、消えた。消えたのだ。走り去ったわけでもなく、車に乗って行ったわけでもない。一瞬にして消えたのだ。
次の瞬間、男は洋風の屋敷の玄関にいた。広い屋敷だが、古い。昭和時代の建物だ。場所は東京の郊外で、雨は降っていないし、降った様子もない。男がさっきまでいた場所とは、かなり離れている事が分かる。
男はコートを脱ぎ、玄関そばにあったポールハンガーにかけた。ふぅ、とため息をつきながら、洗面所に入り、手洗いうがいをした。別にインフルエンザが怖いわけでは無い。鷲掴みにした少年の感触を、洗い流したかったのだ。
顔を洗い終わり、壁のタオルかけから、タオルを取ろうと手をのばした。しかしその手は、壁をつついただけだった。タオルがない。
「おーい、メリ。タオルはどこだ?」男は、水が床に滴らない様に、洗面ボウルの上から顔を動かさないまま大声を上げた。
「あ、ごめーん。今持ってくーー」
奥から甲高い女性の声が聞こえる。足音が近づき、声の主が姿を現した。黒髪短髪で、後ろだけ刈り上げた髪型。上下茶色のスウェット。ラフな格好をした小柄な女性だった。
女性の名はメリ・メキシー。この洋館を管理している。
「タオルを洗濯してたんだ。代わりを置いとくの忘れてた!」メリはハハハと笑う。
洗濯をした事を褒めて欲しいのだろうか? しかし、洋館の管理は彼女の仕事だ。この程度の仕事ぶりでは褒められない。
メリの声はやたら高くて、声量も大きい。フロードはメリの声を聞くたびに耳の奥が痒くなるのだった。
「フロード……明日は会議だからね。覚えてる?」
「覚えてるよ。決まってるだろ?」男は顔を拭きながら言った。
男の名はフロード・コートオフ、職業は警官だ。
フロードは、そういったものの、会議の事はほとんど頭になかった。会議の日は、故郷に帰れるため、久しぶりに妻と娘に会える。お土産に何を買おうかぐらいしか考えてなかったのだ。
「会議では、お前が昇進したがってたって言って置いてやるよ」フロードが言うとメリは
「やめてよね」と真面目な顔をフロードに向けた。
メリは警察署内で、ゲートキーパーと呼ばれる職務に付いている(それと洋館の管理)。ゲートキーパーになれるという事は、もっと昇進出来る才能がある、という事なのだ。
昇進しようと思えば、いくらでもできるはずだが、メリは昇進したくないようで、昇進の試験を受ける事もせず、今の地位に満足している。彼女の25年に渡る、長ーい人生経験から言わせれば、できる事が増えると、色々任されて、仕事が大変になってしまうとの事だった。しかも、給料の上昇はそれほどでもない(それにはフロードも同意する)。
彼女の口癖の一つに「やろうと思えば大体できちゃうんだけどね」というものがあった。
「できるなら、やってみればいい」とフロードが言うと「出来る事がわかっちゃうと、頼られちゃうでしょ? 忙しくなっちゃうのは嫌ぁ」と踏ん反り返りながら、薄皮チョコパンを口に頬張るのだ。
メリは人の役に立つ事より、自分の時間が大切らしい。今時の若い奴はみんなこうなのか? とフロードは思った。
ついでに言うと、年長者であるフロード(34)に対しても、タメ口だ。
まあ、それについてはフロードはどうでもよかった。フロードは仕事人間で、仕事の邪魔さえされなければ大体の事には寛容だった。
もちろん例外はある。それは妻と娘だ。仕事をするのは、妻と娘の為だと割り切っていた。「家族と仕事どちらを取る?」と聞かれたら、迷わず家族を選ぶだろう
洋館は、いくつか部屋があり、その一つがフロードにあてがわれていた。複数の警官たちがこの洋館でルームシェアしているのだ。今いるのはメリとフロードだけだが、全員が揃うと四人になる。
フロードは部屋に来るなり、スマホを取り出し、妻のスマホにビデオ通話をした。呼び出し名はカホ。妻の名である。
呼び出しの間にくしゃくしゃの髪を整え(整えられなかったが)、ベッドに座った。ベッドの反発がフロードの体を弾ませる。それが収まった頃、スマホに妻の顔が映った。
「フロード、どうしたの? 帰るのは明日じゃなかった?」妻のカホが笑顔を向ける。
妻がいるのは家の庭だった。背後に自宅と、青空が見える。フロードがいる場所は、午後6時で外は暗い。カホがいる場所とは、時差があるのだ。
「なんだ、知ってたのか。それを伝えようと思ってかけたんだよ。元気か?」
「強いて言えば、異常なしってとこ。いつも通りね」
「なによりだ。メアリーは?」
「すぐそばにいるわ。メアリー」カホは画面外に顔を向け、娘の名を呼んだ。スマホの向きが変わり、娘が映る。
娘はジョウロを持って母に駆け寄った。庭のトマトに水をやっていたのだ。
像を模したジョウロを、走行の反動でふり回しながら、走ってきたので、スマホの画面に水滴が飛んだ。
「メアリー、元気かー?」フロードはにやけている。
メアリーを見ると、フロードはいつも、顔が緩んでしまっていた。それをメリに指摘されてからは、自分の部屋でしか家族と通話をしなかった。要するに恥ずかしいのだ。
「パパー。トマト出来たよー。早く帰って来てねー。お土産買ってきてー」
話に脈絡がないが、そこも可愛くて仕方がなかった。フロードはフフッと声を上げて笑った。警官の同僚がこの光景を見たら驚くだろう。フロードは仕事中、いつもくそまじめにむっつりしているのだから。
「お土産なにがいい?」フロードが緩みきった顔で聞く。
「地球のお土産がいい」娘はニコニコしている。
「地球にしかない物がいいのか?」
「うん、友達が持ってないから」
「よし、わかった。それっぽいのを買ってくよ」
そこまで言うと、カホが画面に顔を出した。
「ご馳走作って待ってるから、ちゃんと帰ってきてね」
「ああ、そっちの時間だと、午後4時くらいに帰れると思う」
「あ、ご馳走にはちょっと早いかもね。時間かけて帰ってきて」
「じゃあ、一緒に作ればいいだろ?」
カホはにっこりと笑った。近所の人から声をかけられた様で、そちらの方を向き、返事をした。
「じゃあ、これからちょっと約束があるから」
「わかった」フロードは笑顔を返し、通話を切った。
明日は、1ヶ月に一度の定例会議だが、その次の日は休日だ。フロードは会議など眼中になかった。いつも同じ事ばかりで変化の無い会議だ。一応、大事な意味があるのはわかっているから、とやかくは言えないが、会議より、家族と過ごす事が、フロードにとっては有意義だった。
とりあえずいつも通り会議に出て、いつも通り家族の待つ家に帰る。フロードはそう予定を立てた。