七不思議の夜
手にした懐中電灯が、真っ暗な廊下を照らし出す。月の光でできた自分の陰にびくつきながら、ポニーテールの少女、志賀七瀬はその日何度目かになる溜息をついて歩いていた。
夏特有の、じっとりとした空気が肌にまとわりつく感触が、嫌でも彼女の、今自分のしていることの雰囲気を盛り上げてくれている。
ありがたくなかった。七瀬にとっては、非常にありがたくなかった。自分が怖がりであることを理解している彼女にとって、真夜中の学校の廊下を歩くと言うのは、小学生の頃に見たホラー映画を思い出し、正直言ってやりたくないことだった。
七瀬はできる限り前を見ないようにしながら、どうして今月の特集案に七不思議が出た時に、もっと反対しておかなかったのだろうと思い、もう一度ため息をついた。
彼女の所属する新聞部では、二週間に一度「新聞部だより」を発行している。数日前の話し合いで、「七月だから七不思議の特集をしよう」と部長が言い出した時に、もっと止めておけばよかったと、七瀬は今になって思う。
――ともかく、少しでも早く終わらせよう。
七瀬がそう思い足を少し早めて、音楽室の前に出る階段の下を通りがかった時、ピアノの音が彼女の耳に届いた。
びくり、と肩を震わせて、ポケットに入れていた七不思議の内容を書き留めてあるメモを取り出す。
『夜、勝手に鳴る音楽室のピアノ』
ひとつ目からぴったり符合するのに出くわしてしまった。七瀬は深く、深くため息をつく。
「音、聞いたんだからいいですよね……」
そう思って帰ろうとしたところで、写真も撮ってくるように部長に言われていたことを思い出す。
心の中で部長への恨み事を呟きながら、七瀬はデジカメを片手に、階段を上り音楽室の前に着く。
「誰もいませんように……」
――でも、誰もいないのにピアノの音がするって事は、いよいよお化けか何かの仕業って事じゃないですか!
そう思った彼女は、今度は音楽室に誰かがいることを願って、ドアのガラス越しに音楽室の中を覗き込む。ピアノはまだ鳴っているから、ひょっとしたら先生が残って練習していると言うオチかもしれない。
だとしたら、どうして電気が消えてるのに、ピアノの音が聞こえているのだろう。
そんな疑問を頭を振って消して、心霊現象ではないという希望を胸に、なんとかしてピアノの方が見えないかと体を押し付けるが、どうしても影になってみえない。
七瀬は小さく唸ると、意を決して音楽室のドアを少しだけ開けて、「誰かいませんか……?」と声をかけてみる。
――お願い。お願いだから誰かいて。
七瀬はドアノブを握りしめたまま思う。
――それなら、ピアノが鳴っているのも、その人が弾いていたからだと言うことになるから。
「はぁい。誰?」
音楽室の中からした声に、心臓が跳ね上がる。それでも、人がいてくれたことに少しだけ安心して、七瀬は音楽室の中に入った。
「こんばんは……」
「ん。こんばんは」
ピアノの横に立っていた少女が、片手をあげて応じてくれる。
「えっと、私、志賀七瀬です。あなたは?」
「小柴。小柴早苗。七瀬って呼んでいい?」
七瀬が承諾すると、早苗は「よかった」とほほ笑んだ。
七瀬は早苗が年が近く、向こうにしてみればピアノを弾いているのを邪魔されたことに怒っていないように見えることに、少しだけ安心した。
「それで、七瀬はなんでこんな夜に学校にいるのさ?」
尋ねた早苗に、七瀬は苦笑すると、
「実は、私新聞部に入っていて、今週は七不思議の特集をするんですよ。その取材のために校舎を回っていたんです」
早苗はそれを聞くと、「ふぅん」と呟いてから、
「じゃあ、七瀬に特ダネをあげよう」
とにやりと笑って言った。
「え? どういうことですか?」
そう言った七瀬に、早苗は、
「実はね、私はお化けなんだよ」
と言った。
「……え?」
「だから、お化け。幽霊だよ」
きょとんとして言う七瀬に、早苗はいたずらっぽく笑うと、「ほら」と七瀬の手を握った。
生きている人間の体温では、絶対にありえない冷たい温度が、七瀬の手に伝わる。今度こそ、七瀬の胸は最大級の爆発を起こした。心臓がすさまじい勢いで拍動し、体がびくりと飛び跳ねる。その勢いで七瀬は机に足を引っかけてしまい、机ごとひっくり返ってその痛みにうずくまる。
「ちょ、ちょっと。大丈夫?」
心配そうに声をかける早苗に、七瀬は「大丈夫です……」と言うと、体を起こした。
「もう、驚いたのはわかるけどさ。そんなにビビらなくていいじゃん」
七瀬に、早苗は不満げに言った。
「ま、お化けなんて言って驚かせたこっちも悪いんだけどさ。私だってもともと人間なんだし、取って食ったりするわけじゃないんだから。そんなにビビんないでよ」
口を尖らせて言う早苗に、七瀬はすっかり申し訳なくなって、
「ごめんなさい」
と小さくなって言った。
「ん。わかればよろしい」
少しだけ胸を張って言う早苗に、どちらからともなく二人は笑う。
「でもさ、そんなに怖いの嫌なら、断ればよかったのに」
しばらく話すうち、そう言った早苗に、七瀬は少し俯くと、
「そうなんですけどね……。みんながそうしようって言ったら、断れなくって」
と言った。「難儀な性格だねぇ」と苦笑する早苗に、七瀬も「自分でもそう思います」と返す。
「まあ、それにみんなこういう話好きですから。特集してほしいって言う声があるなら、答えたいんです」
そう言った七瀬に、早苗は「ふむ」と一つ頷くと、
「じゃあ、私も一緒に行く!」
と言った。
「え?」
「だから、七瀬が取材するのに、私も付いていってあげるよ。一人じゃ怖いでしょ? それに、私が夜の学校の見どころを教えてあげるよ!」
そう言った早苗に、七瀬は「ありがとうございます」と笑うと、
「じゃあ、お願いします。小柴さん」
「早苗でいいよ」
早苗も笑うと、二人は音楽室を出た。と、そこで早苗は立ち止まると、
「あ、もしよかったらさ。後で私の友達の相談にも乗ってくれるかな」
年が近い人なんて、なかなか来なくってね、と付け加える早苗は付け加えた。七瀬が、
「いいですよ。私にできることなら」
と言うと、早苗は嬉しそうに笑って、
「じゃあ、行こう!」
と言った。そして、二人はメモに書いてある、二つ目の七不思議の場所に向かった。
* * *
「えーと。ここが二つ目の七不思議の現場だね」
七瀬と早苗は四角いガラス窓のついた、引き戸になっている、学内図書室の入り口に面した廊下に立っていた。
七瀬がポケットから取り出したメモには、『ひとりでに落ちる図書室の本』という項目が書いてあった。
「そうだ、七瀬。ちょっと聞くけど、その七不思議の噂ってどんなのがある?」
七瀬は、早苗からのいきなりの問い掛けにとまどいながらも、
「ええっと、今日の昼休みに七不思議に関して同級生達に取材したんですけど」
メモが入っていたポケットとは別のポケットから、地味な色合いの手帳を取り出し、目的の情報を書き留めた所までめくっていく。
「そうですね、それを見たものは学校を出るまで本に追い回されるとか、本棚につぶされて死ぬとか、図書室に引きずり込まれて、そのまま行方不明になるとか、色々言われてますけど……本当は違いますよね?」
顔を上げた七瀬は、早苗がとても険しい表情をしていたのをみて、思わず声を上げて飛び退いた。丁度、窓の脇にいた早苗が月明かりに照らされていたのも、七瀬には堪えたのだろう。
「あっ、ごめん七瀬。想像してたよりも身勝手な噂を立てられてるから、つい自分の事のように思っちゃって」
七瀬の表情に気がついた早苗は小さく舌を出して、七瀬に謝った。七瀬はまだショックから立ち直れていなかったが、何とか苦笑いすることが出来た。
「じゃあ、気を取り直して行こっか」
と、早苗が言った。七瀬は頷き、ゆっくりと図書室に向かって歩を進める。
彼女がどうしてあんな険しい表情を見せたのか、七瀬にはわからなかったが、早苗は化け物扱いされるのがよほど嫌いなんだろうか、と思ったその時。
図書室の奥から、本が一冊床に落ちた音が聞こえてきた。
七瀬はまたうめき声を上げて一歩後ずさった。七月の暑く響きにくい空気であるというのに、その音は廊下中に長い間、響き渡っているように七瀬は感じた。
早苗はやれやれと頭を振って、そのまま震えている七瀬の手を取ると、扉に向かって行く。
早苗の歩く速さが、扉に向かって突進しているかのように思えた七瀬は慌てて早苗に、
「ちょっと、早苗さん! いくら幽霊が出来るからって生きている私は通り抜けられませんよ!」
と言ったが、早苗は冷静な声で、
「落ち着いて。それに、私が壁とかを通り抜けられるなんて一言も言って無いじゃない。幽霊が何でも出来るなんて思わないで」
と、七瀬に指を突きつけて言う。
扉に近づくと、早苗は七瀬の手を放した。二歩進んで扉の前に立ち止まると、早苗は幽霊には似つかわしくない程力強く腕を振り、叩き付けるようにノックした。衝撃で扉の窓が震えている。
しかし、図書室の中からは何の反応もなかった。
早苗はもう一度同じ強さでノックするが、今度も全く反応がない。それを確認した早苗は、「またか、あいつは」と呟いてから、俯いて一歩後退し、動きを止めた。
そして、すぅっと息を吸い込んだ早苗は顔を上げて、
「有美ーっ! 本を読むのに夢中になってないで、ここを開けなさいよっ!!」
突然周囲の窓ガラスが震えるほどの大声を張り上げた。その声に、七瀬は大きくびくついてしまい、危うく転びそうになった。七瀬の心泊数がまた、急激に跳ね上がる。
図書室の中で本がいくつか落ちる音と、高い場所の本を取る、はしごが倒れる重い衝撃音が聞こえ、入り口から三番目に遠い書架の陰から一冊のハードカバーが転がって来るのが見えた。
それを追って人影が急いでその本を掴んで、引っ込んだ。どうやら室内に早苗の友人である幽霊がいるらしかった。
十秒ぐらい経って、書架からその人影が出てきて、七瀬と早苗のいる入り口の方へ向かって走ってきた。
窓から漏れている月明かりに照らされて、初めて容姿がよく見えた。肩胛骨当たりまで伸ばした髪に、白色のヘアバンドを付けている少女だった。制服を着ているが、七瀬が着ているものとは違っている。おそらくこの少女が早苗の呼んだ有美なのだろうと七瀬は思った。
早苗は手の動きで走ってきた少女に、「とっととこの扉を開けろ」と指示すると、少女が何らかの力を使ったのか、ひとりでにドアが開いた。
早苗は少女に詰め寄る様に中に入り、七瀬は後に続いて警戒しながら恐る恐る入った。
「早苗、ごめんね。ちょっと読書に夢中になってたから、入り口にいるのが分からなかったの」
「分からなかったの? って冗談じゃないわよ!! 何度も同じ事やらかさないでよね。読書に打ち込むのも程々にしなさいよホント!! こっちはあんたが気付くまで何時までも待たなきゃいけないのよ!!」
早苗は怒り心頭と言った様子で、友人に向かってまくし立てている。彼女はうなだれながらも真剣に耳を傾けているようだった。
どうやら、この有美という早苗の友人は周りの音が聞こえなくなるほどの読書好きらしい、と七瀬は思うと同時にあきれていた。
しばらくして早苗は本当に申し訳ない、という表情をしている有美を見て、やっと叱るのを止め、
「まあ今回はお客もいることだし、これくらいにしてあげる。今度からは気を付けてね」
と、言った。
有美はその言葉に頷いて、顔を上げると、ようやく早苗の隣に見知らぬ女子生徒がいることに気がついた。
「早苗。隣にいる人は?」
「ああ、まず彼女を紹介しなきゃいけなかったわね。彼女はこの高校の新聞部部員の志賀七瀬。この高校の七不思議について調べているっていうから、あなたの所へ案内したの」
早苗は、七瀬に向けていた視線を有美に移した。
「七瀬。この子が、私の友人で読書魔の室戸有美。二つ目の七不思議を起こしている幽霊よ」
早苗に紹介された少女は七瀬の目をじっと覗き込むと、
「室戸です。有美と呼んで下さい」
早苗と話すそれと少し異なった口調でそう言った。
「あの、七瀬です。私の事も下で構いませんから」
先程までと異なる有美の印象に、七瀬は少しびくびくとしながら返答した。
「有美はちょっと人見知りの気があるから気にしないで。その内こいつも慣れてくるだろうから」
早苗が二人の間に入ってフォローを入れる。
「あの、お話を聞かせてもらってもいいですか?」
「いいよ。ここじゃなんだから、こっちへ来て」
有美は図書館内に備え付けられた長机を指さし、二人を促す。七瀬と早苗は言われたとおり椅子へと座った。机の上にも様々なジャンルの本や、中には戦後まもなくの頃の本が散乱しているのを見て、彼女は相当な乱読家なのだろうなと七瀬は思った。
「えっと、何を話せばいいのかな」
机の上の本を適当に片づけて有美が尋ねる。
「改めて聞かれると……そういえば有美さんはどうして図書館で本を読んでいらっしゃるんですか?」
本が好きだからだろう、とも思ったが、七瀬にはそれだけだとは思えなかった。
七瀬の問いに、有美は神妙な面持ちで答える。
「もちろん、本が好きだからだよ」
有美の言葉は続く。
「本が好きだから、私は本を読んでいられる。私たちはそういう存在だから……」
「そういう存在?」
七瀬の疑問に、それまで黙っていた早苗が有美の代わりに答える。
「それが私たち幽霊が幽霊である所以だね。ありていに言えば、未練といったものかな。私たちは死んでからも現世にやり残したことを持っている。その思いが強ければ強いほどこの世の中に実体化されるの。有美の場合は本、もしくは図書館に関係した未練があるってことだね」
まあ私のようにのほほんと気楽に幽霊やっているのもいるけどね、と早苗は冗談半分で七瀬に笑いかける。
その笑顔に、一瞬七瀬は快活な早苗の陰を見たような気がした。
「私の未練は、ある絵本を探すこと」
七瀬の湧き上がる考えを遮るように、有美が話し始めた。
「絵本ですか?」
「タイトルも探している理由も思い出せないんだけどね。ただ、白馬に乗った王子様が出てくる物語だった気がするの……」
王子様、という単語を言った後、恥ずかしくなったのか、有美は尻すぼみになりながらも説明した。
「でも、探さなきゃ行けない気がするんだ。何か大切な約束があったような……」
「だったら、私も一緒に探します!」
七瀬は手を打ち合わせると言った。
「えっ?」
「その絵本が大切なものなら、探すのを私もお手伝いします。これは取材だからじゃなくて、私がそうしたいんです」
――お友達の相談にのるって、早苗さんとも約束しましたしね。
七瀬は心の中でそう付け加えた。
「面白そうね。私も協力するわ。未練は早く断ち切らなくちゃ。未練たらたらな幽霊なんて辛気くさいだけだわ」
早苗も、にっと笑って言う。
そして、三人の本探しが始まった。
* * *
「それにしても、せめてタイトルがわかれば、あたりも付けられるんですけどね。有美さん、何か心当たりにある物はありましたか?」
何冊かの絵本を机に置いて、七瀬は有美の方を向いて言った。
本の陰に隠れて見えない有美から返事がないことを不思議に思った七瀬が彼女の後ろに回ると、有美はまた本を読むのに夢中になっていた。
「有美さん。有美さん?」
七瀬が彼女の肩をゆすっても、有美は読書に夢中になっている。どうしようかと七瀬が考えていると、突然有美のわきに積みあがっていた本の山が崩れ、有美はその本の下敷きになった。
「有美。七瀬が呼んでるの気がついた?」
本の山を崩した早苗が、その下で呻いている有美に声をかける。
「ゆ、有美さん! 大丈夫ですか!?」
七瀬が慌てて有美を救い出すと、彼女はのそりと体を起して、
「何するのよ、早苗……」
と恨みがましげな目を早苗に向けた。
「有美。さっき言ったわよね? 本を読むのに、夢中になるのも大概にしなさいって」
笑顔で、しかし眉をぴくぴくとさせながら言う早苗に、有美は肩をびくりとさせると、
「うう……、ごめんなさい。どうしても夢中になっちゃって……」
と小さくなった。早苗は「この子は……」と呟くと、ため息を吐いて、
「こんな調子だからさ。なかなか見つかる物も見つからないのよ」
と七瀬に言った。七瀬は、なるほどと思う。確かに、探している間に読書に夢中になって、朝を迎えたりしているのでは、見つからないだろう。
――そう言えば、有美さんは明るいときには本を探したりできないんでしょうか?
七瀬はそう思ったところで、まだ生徒達がいる図書室で、本が棚からばさばさと落ちるところを想像して、有美はそんな騒がれるようなことをしたがらないと思った。
「そう言えば有美さん。探している絵本が、ここにあるのは間違いないんですか?」
尋ねた七瀬に、有美は頷くと、
「たぶんここだと思うんだ。私もこの高校の生徒だったし、その本に未練を持ったのが、高校の時だったと思うから」
と言った。それを聞いて、七瀬は有美や早苗の着ている制服が高校の旧制服である事に気がついた。
「それにしても。未練を残すほど大事な思い出のある絵本なら、タイトルくらい覚えておきなさいよ」
呆れたように言う早苗に、有美は俯くと、
「うーん……、タイトルよりも、内容の方が気になってる気がするの。何か他に思い出さなきゃいけないことがある気がする」
と言った。
「内容ですか……。ひょっとしたら、有美さんの約束って、誰かを待ってる事じゃないでしょうか」
「どういう事?」
尋ねる有美に、
「ええと、さっき思ったんですけど、白馬に乗った王子様が出てくるお話なんですよね。ひょっとしたら、王子様が迎えに来てくれるみたいに、有美さんのことを迎えに来てくれる人がいたんじゃないかって思って」
言いながら少し恥ずかしくなってきた七瀬の声はだんだん小さくなり、
「その、すみません……。王子様だからって、迎えに来てくれる人とは限らないですよね……」
と呟いた。早苗は「ふむ」と呟くと、
「でも、絵本とかだと王子様ってよくお姫様を迎えに来る人よね。有美、誰か仲が良かった人っていないの?」
と尋ねた。
「そうね……。そうだ、私図書委員をしてたんだ。その時、クラスメートの迫田君っていう男子が一緒に図書委員をしてたと思うわ」
そう答えた有美に、七瀬は手を打ち合わせると、
「じゃあ、その迫田さんの顔を見れば、何か思い出せるかもしれませんね。でも、昔の卒業アルバムって、書庫にあるんですよね」
鍵を持ってこないと、と言う七瀬に、有美は、
「大丈夫。私は図書室や書庫の鍵だったら、自由に開け閉めできるから」
と言った。それを聞いて、先ほども有美は鍵を開けて、自分達を図書室に入れたことを七瀬は思い出した。
「じゃあ、書庫に行って卒業アルバムを調べてみよう」
そう言った早苗と一緒に、七瀬達は書庫へ向かった。
書庫の扉に七瀬達が着き、有美が一歩進んで扉のドアノブにさわると、カチッという開錠の音がした。
七瀬は、懐中電灯をポケットから取り出し、点灯して、書庫を照らす。
緑色の金属フレームで出来た書架が一定間隔で立ち並んでいる。
「確か、卒業アルバムを保管してある所は、奥から三番目の書架にあったはずです」
七瀬が、奥を照らしながらそう言った。
「じゃあ早速行きましょ」
早苗がそう言いながら我先にと、書庫の中に入った。続いて七瀬、有美の順に書庫に入って、件の書架の所まで歩いて向かった。
七瀬が懐中電灯の光を当てると、深緑色をした革製の卒業アルバムが年ごとにきちんと整理されていた。
「有美さんはいつ頃この高校に入学したんですか」
と、七瀬は有美に尋ねるが、答えたのは早苗だった。
「残念だけど、有美は何時入学したのかも覚えていないのよ。だから、手当たりに次第に探すしかないわ」
それから七瀬と早苗は、適当に見当を付けて、有美に卒業アルバムを手渡して、迫田を捜す作業に入った。
アルバムが十冊ほど積み重なり、有美が十五年前の卒業アルバムを見ていた時にようやく、
「あっ、この人が迫田君よ」
と小さく叫んだ。
有美は最高段の中央に写っている柔和な顔立ちをした一人の男子生徒を指した。
「この男子生徒が、迫田君? なんだかおとなしそうな感じの男子だね……。あれ、七瀬、どうした?」
早苗はあごに手を当てて考えていた七瀬に声を掛ける。
「うーん、この人どこかで見たことがあったような気がして……。ちょっと待って下さいね」
七瀬は頭の中で記憶の糸をたどっていく。そして、七瀬の頭に一人の男の顔が浮かび上がった。
「そうだ、この人。私が中学生の時の担任の迫田先生だ」
「先生?」
早苗が七瀬の言葉を反芻する。
「ええ。私たちの国語の先生。本がとても好きな先生で、生徒にも人気があったんです。写真の方は少し若いけど、多分間違いないと思います」
「良かったじゃん、有美。あんたの白馬の王子様見つかったよ」
アルバムの写真を食い入るように見つめていた有美の肩をぽんぽんと叩きながら、早苗が言う。
有美はゆっくりと七瀬の方を振り向くと、小さな声で聞いた。
「ねえ、七瀬。迫田君が先生になったって本当なの?」
「ええ」
頷いた七瀬に、
「一度でいいから、私、迫田君に会いたいな。ううん、そうしないと、いけない気がするの」
呟くように有美が言った。
「ねえ、七瀬。迫田さんの携帯の番号とか知ってる?」
そう尋ねた早苗に、七瀬は怪訝そうな顔をして、
「ええ。卒業式の時に教えて貰いましたから……。でも、どうするんです?」
と聞いた。
「明日、明るくなってから、迫田さんに連絡を連絡を取ってみてほしいの。有美が迫田さんに会うためには、彼にこの高校に来てもらうしかないから」
早苗は、自分たち幽霊は未練の力でこの学校に縛られている存在であり、この学校の中を移動することは自由にできても、外に出ることはできないことを七瀬に説明した。
「もちろん、迫田先生にお願いすれば、学校に来ていただくことはできるでしょうけど……。有美さんのことを話しても、信じていただけるでしょうか」
「せめて、日が落ちるまで彼がここにいてくれれば、私たちが出てくることはできるわ。七瀬、お願い。迫田さんをこの高校に連れてこれるのは、あなたしかいないの」
早苗がそう言って七瀬に頼む。
「七瀬、私思い出したことがあるの」
その時、有美がそれまでアルバムを見つめていた目を七瀬に向けて言った。
「私、まだ生きてた時から本が好きで、図書委員だったときも、ずっと本を読んでたの。何も言われなかったら、時間を忘れて、学校の下校時間まで読んでるときもしょっちゅうだったわ。迫田君はいつも委員の仕事が終わる時間になったら、一緒に帰ろうって言ってくれたの。そのころ、私がよく読んでた本が、さっき言った絵本だったの。帰りの道でも、好きな本の話をしてくれて、私の話も、たくさん聞いてくれた。すごく、嬉しかった」
有美は、そこで一息吐くとまた続けた。
「私、教室でもいつも本を読んでて、クラスメートともあまり話しをしなかったの。私、本にしか興味が持てなくて、みんなが話してる話題についていけなくて、話すのが怖かった。でも、迫田君とはいっぱい本のことを話せたの。すごく楽しくて、嬉しくて、みんなともこんな風に話せたらなって思ってた。たぶん、迫田君のことが好きになってたんだと思う。でも、私はそのことを伝える前に死んじゃった……」
有美は七瀬の手を取った。
「七瀬、お願い。私、一度でいいから迫田君に会いたいの。ううん、会わなきゃいけない。私、好きだったことを迫田君に伝えたいの」
そう言って、有美は真剣な瞳で七瀬を見つめる。
ひやりとした手の感触に、七瀬は改めて有美が幽霊であることに気がついた。
――有美さんは、どんなに好きでも、どんなに伝えようと思っても、もうしたい時にできないんだ……。
そう思った七瀬は、一つ頷くと、
「わかりました。明日、迫田先生に電話してみます。確か、先生は高校から近いところに住んでたし、中学の時、友達が先生を遊びに誘ったときにも必ず来てくれてましたから、きっと来てくれますよ」
と言った。有美は、ほっとしたように笑う。
「ありがとう、七瀬。やっと私、気持ちを迫田君に伝えられるんだね」
その有美のつぶやきを聞いて、七瀬は迫田に必ずこの高校に来て貰おうと思った。
* * *
翌日の朝、七瀬は携帯の電話帳から迫田の電話番号を選び、通話ボタンを押した。しばらくの呼び出し音の後、
『もしもし、迫田です』
と、男の声がした。
「お久しぶりです、迫田先生。おととし卒業した志賀七瀬です。お元気ですか?」
『おお、志賀か。元気だよ。君はどうだい?』
七瀬が私もです、と言うと、良かったと言って迫田は笑った。それからしばらく、学校でのことをお互いに話した後、
「先生、今日の放課後にお時間をいただけますか? もし良かったら、取材させていただきたいことがあるので、私の高校に来て欲しいんです」
と、七瀬は切り出した。それを聞くと、迫田は小さくうなって、
『今日かい? ずいぶん急な話だね……。それに行ってやりたいけれど、仕事があるからな。早くてもたぶん六時過ぎくらいになってしまうぞ』
それじゃあ、帰るのが遅くなるだろう、と言う迫田に、七瀬は今日は取材のために帰るのが遅くなることを、親にも伝えてあることを話した。
『それでもな……。生徒の帰りが遅くなるのは、不安なんだ。電話じゃだめなのか?』
それを聞いて、迫田は中学の時に、生徒の帰りが遅くなることだけには、厳しかったことを思い出した。
「はい。直接会って、お聞きしないとだめなんです」
七瀬は真剣な声で頼む。迫田は少し渋った後、できるだけ早く取材を済ませること、その後で寄り道をしないように、迫田が送って帰ることを条件に、承諾した。
『じゃあ、こっちを出る時に連絡するよ。たぶん二十分くらいで着くと思う』
「ありがとうございます、先生。お待ちしてます」
七瀬は礼を言って電話を切った後、一つ、安堵のため息を漏らした。そして、この季節、日が沈むのは七時半頃であることを思いだす。
――それまで、先生にいて貰えるでしょうか……。
ふと浮かんだ、そんな不安を消して七瀬は一時間目の授業の用意を進めた。
そして放課後、七瀬は学校の玄関で迫田が着くのを待っていた。彼から中学校から出る旨の連絡があってから、三十分が過ぎていた。
――今が、六時半過ぎ。何とか、日が沈むまで先生を引き留めておけそうですね。
そう七瀬が思っていると、玄関前の駐車場に一台の車が止まり、スーツ姿の男が降りてきた。七瀬が、「迫田先生」と声をかけると、
「やあ、志賀。久しぶりだね」
と迫田は言った。
「すみません。急に無理を言っちゃって……」
そう言って七瀬が頭を下げると、迫田は、
「大丈夫だよ。でも、直接会わないといけない事って、どんなことなんだい?」
と尋ねた。
「実は、卒業アルバムを調べてたら、迫田先生がこの高校の卒業生だってわかって、そのアルバムの内容を見ながら、十五年前のこの高校のことをお聞きしようと思ったんです。でも、卒業アルバムは持ち出し禁止なので、来ていただいたんです」
「そうか。それで、どこで話すんだい? 卒業アルバムがあるところだったら、図書室かな?」
「はい。そこで、お話を聞かせていただこうと思っています」
七瀬がそう言うと、迫田も「わかった」と言い、二人は図書室へと向かった。
図書室に着いた七瀬は、早速インタビューを始めた。十五年前のことを迫田に尋ね、迫田の返答の内容をメモに書き留めていく。しばらくインタビューを進めてから、七瀬はちらりと腕時計を見た。
七時十五分過ぎ。そろそろ切り出しても大丈夫かな。
そう思った七瀬は、
「先生、高校生の時の同級生の方で、室戸有美さんを覚えていらっしゃいますか」
と切り出した。迫田は、顔を曇らせた後、
「ああ、僕のクラスメートで、一緒に図書委員をしていた人だよ。でも、彼女は三年生の時に、事故でなくなってしまったんだ……」
と言った。七瀬は、一度深呼吸をして、気持ちを落ち着けた後に、
「先生。室戸さんはここにいます」
と言った。何だって、と言いたげな目を迫田は七瀬に向けた。
「志賀、何を言ってるんだ? 言ったろう。室戸さんは亡くなったんだ」
迫田の声が、怒気をはらむ。七瀬は、背に冷や汗が流れるのを感じながら、必死に心を落ち着かせて言った。
「信じられないと思いますが、室戸さんは幽霊になって、今でもこの図書室にいるんです」
さらに厳しい視線を、迫田は七瀬に向ける。重い、重い沈黙が二人の間に降りた。
――ああ、ごめんなさい、有美さん。もう先生をここに引き留めておけないかもしれません。
「……志賀。話はそれだけか?」
迫田が七瀬に、低い声で問う。もうだめだ、と七瀬が思った時、
「迫田君」
と声がした。迫田と七瀬がその声がした方に目を向けると、そこに有美がいた。
「そ、そんな……。室戸さん、なのか?」
呆然とした声で、迫田が言う。有美は頷くと、
「やっと会えたよ。迫田君、私あなたに伝えないといけないことがあるの。だから、七瀬に頼んで、あなたをここに連れてきて貰ったの」
と言った。
――良かった……。もうだめかと思ったけど、何とか間に合ったんだ。
そう思った七瀬の肩を、いつの間にか現れた早苗がぽん、と叩いて、よくやったというように親指を立てた。
* * *
「……なあ、室戸さん。君が亡くなった日のこと、覚えてるか?」
そう尋ねた迫田に、有美は頷いた。
「あの日は、私たちが委員の当番になってたんだよね。でも、迫田君が来れなくて、私だけで当番をして……。それで、結局学校が閉まる時間まで本を読んじゃって、帰るのが遅くなって。その帰りに、事故にあったんだ」
それを聞くと、迫田は唇をかみしめ、俯いた。
「ごめん。あの日は、母さんが病気にかかって、病院に行かなきゃいけなかったんだ。それで、その日の夜に室戸さんが事故で亡くなったって聞いて、僕が一緒だったら、室戸さんが帰るのも遅くならなくて、生きてたんじゃないかって、ずっと気にしてたんだ……」
有美はそんなことないよ、と呟いて、迫田に抱きつくと言った。
「迫田君。いつも私と一緒に帰ってくれて、嬉しかったよ。私とたくさん話してくれて、ありがとう。私、あなたのことが好きになってたんだと思う。だから、死んじゃった後も、会いたくてたまらなかったんだよ。一度だけでいいから、会いたかったの」
「……僕も、室戸さんのことが好きだったよ。本が大好きで、一度読み出したら止まらなくなっちゃって……。でも、そんな風に本を読んでる室戸さんの横顔が、すごく好きだったんだ」
迫田は一息吐くと、
「ちゃんと、言っておけば良かった」
と呟いた。有美も、迫田の胸に顔を埋めて言う。
「私もだよ。ずっと伝えたくて、伝えられなくて。それだけが心残りで、気がついたら図書室にいたんだ……」
どうして、こんな大切なことを忘れてたんだろうと、有美は付け加える。
有美は迫田から離れると、
「ああ、なんだか心が軽いよ。なんだか空だって飛べそうな気がする」
と言った。
「……有美、どうする?」
それまで黙っていた早苗が尋ねた。「どういうことですか」と尋ねた七瀬に、早苗は、
「未練がなくなった幽霊は、『あの世』に逝けるんだよ。未練がなくなって、心が軽くなって、やっと『あの世』に逝けるんだ」
有美みたいにね、と早苗は寂しそうに笑って付け加えてから、有美の顔をまっすぐに見て、
「有美、どうする? このまま、この世にとどまる?」
と尋ねた。有美は俯くと、
「どうしよう……。このまま、ここにいてまた迫田君に会いたいよ……。でも、ここにいると、また心が重くなっちゃいそうなんだ。他にも心残りができちゃって、あっちに逝けなくなっちゃうような気がするんだ……」
そう言った。その有美の肩に手を乗せて、迫田は、
「室戸さん。向こうで待っててくれないか? きっとまた迎えに行くよ」
と言った。有美は頷くと、自分の手を見て、その手が透けてきていることに気がついた。
「早苗、七瀬。ありがとう……。やっと私、あっちに逝けるよ」
そう言った有美に、早苗も、「またね」と手を振り、七瀬も「よかったですね」と微笑む。
そして有美はすぅっと消えていき、姿は見えなくなった。
* * *
「志賀。今日はありがとう。まだ、自分が見た物が信じられないような気がするけど……、でも、十五年前から心残りだったことが、少し楽になったよ」
しばらく黙っていた迫田が、呟いた。
「いえ、私は早苗さんのおかげで有美さんに会えて、自分のできることをしたいと思っただけですから」
七瀬がそう言うと、
「そう言えば、志賀は中学の時から、困っている人を見ると、何かしようとしていたな」
と言って、彼は笑った。
「それで、取材はもう終わりかな?」
迫田に尋ねられて、「ええ」と答えかけた七瀬を遮って、
「七瀬、もう少し待ってくれる? 会って欲しい友達がいるの」
と早苗が言った。七瀬は少し考えて、
「そうですね。私も、少し原稿を書いておきたいし、遅くなるようなら、部室に泊まることも考えてましたから、もう少しいることにします」
と言った。
「そうか……。まあ、あんまり無理はするなよ」
やれやれ、と言うように迫田は苦笑すると、帰っていった。
迫田が帰った後、七瀬と早苗はまた図書室で話しをしていた。
「そう言えば早苗さん。有美さんが逝った『あの世』ってどんなところなんですか?」
尋ねた七瀬に、早苗はふっと笑うと、
「わからないよ」
と言った。
「ねえ、七瀬。どうして、七不思議が時々内容が変わるか、わかる?」
と早苗は尋ねた。七瀬が頭を振ると、
「ああやって、七不思議を起こしていた幽霊が未練がなくなって、向こうに逝くからだよ」
と言う。
「向こうに逝っちゃうと、もうその七不思議の一つは起きなくなる……。そして、また別の幽霊が起こしていることが、新しい七不思議の一つとして噂になるんだよ」
その時、七瀬は『夜、勝手に鳴る音楽室のピアノ』が、一番古くからある七不思議であることに気がついた。
「じゃあ、早苗さんは……」
「うん、わからないんだ。私、自分の未練がわからないの。心が軽くなったら向こうに逝けるのはわかるのに、どうして私がここにいるのかわからないんだ……」
ま、幽霊暮らしも悪くないけどね、と寂しげに付け加える早苗を、七瀬は悲しく思って見た。
早苗は七瀬を見ると、小さく舌を出して、
「ごめんね、暗くさせるようなこと言っちゃって。そろそろ、行こうか!」
と言った。
「行くって、どこにですか? さっき言ってた、お友達のところですか?」
と尋ねた七瀬に、早苗は笑顔を浮かべて言った。
「そう。まだ七不思議の幽霊は五人もいるんだし、新しい七不思議候補の子だっているんだから! 取材を終わらせるのは、もったいないよ?」
――そう。まだ夜は終わっていない。七不思議の夜は、もうちょっとだけ続くんだ。
そう思うと、七瀬は早苗の後に続いて図書室を出て、二人は一緒に廊下を駆けだした。