夜想曲
勇者の幼馴染のセレが失踪した。
敵が強くなり過ぎた。闘う力を持たない自分が居ても足手まといになるだけだから、自分は離脱する、と手紙を書き残して。
よりによってこのタイミングとは。ノクターンから話を聞いた私は、頭を抱えてデスクに突っ伏すという、近ごろではお馴染みの格好で呻いた。
レーギスと和解し、魔王を斃す劔も手に入れ、あとは紫宮に乗り込むだけだったのだ。
ラクリマとレオーの不在を何とかカバーし、残った仲間達で力を合わせて最後の難関を乗り越えよう、と誓い合った矢先の出来事なだけに勇者の精神的ダメージは計り知れなかった。
セレはラクリマと同じく、幼い頃から辛苦をともにしてきた幼馴染だ。
その性格は極めて穏和で、ノクターンに勝るとも劣らない優しさを持つ。
ラクリマが居なくなった時、崩れ落ちそうになった勇者を支え、レオーの裏切りの時には、傷付いた彼の魂を慰め続けた。アーラが外傷を癒やすプロフェッショナルならば、セレはノクターンの精神の医者だったのだ。
たとえ魔物を屠る力がなくとも、セレは勇者のデリケートな心が害されることのないよう、盾となって護っていた。
その彼が居なくなった。
おまけにネイドの体調が戻らない。蘭夢の劔の錬成というのは膨大な魔力を使うらしく、魔術士は笑うこともなくなり、口数が少なく、存在感も希薄になってしまっている。
勇者の後ろに控える姿は背後霊のようだ。
「ネイド。身体辛いんじゃない? 部屋に戻って休んだら」
「いつになく優しいね。ヤコ」
「いつになくは余計です。いつもあんな態度だけど、これでも心配しているのよ、貴方のこと」
「ありがとう。無理はしていないから大丈夫」
私の素直な返答に魔術士は面映げに笑った。その笑みが儚くて、なんだかこのまま透けて消えてしまいそうに見え、私はえも言われぬ不安にかられた。
勇者は勇者で支えを失って魂が抜けてしまったような風情だし。聖戦士達は大丈夫なのだろうか。
いっそアーラがノクターンの身と心を熱く慰めてくれれば、恋する男の子な勇者も元気になって、魔王を倒しちゃうかもしれないのに。
と私の冗談半分の呟きを聞きとがめたネイドは力なく首を振ると、チョイチョイと手招きし、画面に口を寄せた。
内緒話のポーズだ。
「王女は王子の婚約者なんだ。そして………」
勇者に聞こえないようボソボソと喋るネイドの言葉を聞き取ろうと、私はディスプレイに耳をくっつける。
「アーラ王女の想いはレーギス殿下に捧げられている。それはもう熱烈に」
「………っ。わひゃっ!」
柔らかく濡れた何かが耳朶を伝い、熱い息がふっと吹きかけられた。
私は文字通り飛び上がり、画面から二メートルほど後ろに飛びすさった。
「ヤコさん。どうしたんですか? 」
「そんなに離れたら話が出来ないよ、ヤコ」
私は耳を抑えてワナワナと震えていた。あろうことか、魔術士は私の耳たぶを舐めたのだ。ネイドの弱った姿に完全に油断していた。
私の不審な行動にノクターンが不安気な表情をしている。彼は今、この上なく不安定な状態だ。
ネイドを怒鳴りつけたら、危ういところで均衡を保っているノクターンの心の天秤が崩れてしまうかもしれない。
こういう時はどうしたらいいか。いつものように落ち着くまで話をするか、紅茶をあげるか、贈り物はネイドに取られそうだ。
「ヤコさん。弾いて」
勇者の眼差しは一心にピアノに注がれている。
「いいけど……プロの演奏みたいに上手くないよ? ミスタッチもあるし」
「かまわない。聞いているだけで落ち着くから」
それなら、とピアノの蓋を開けようとした私は灼けつくような視線を感じて、動きを止めた。
「どういうこと? ヤコ、ノクターンの前で弾いたの? 俺のいない時に」
フードの影からネイドの強烈な視線が垣間見えた気がした。低い低い唸るような声。もしかして怒っているのだろうか。
「弾いたけど………」
私が悪いわけではないのに、何故か後ろめたい気持ちになり、俯いて言葉を濁す。
「帰る」
唐突に放たれた台詞に私は顔を上げた。
「まだ本調子じゃないから。帰って寝る」
どこか投げやりな不貞腐れたような語調に、せっかくだから聞いて行けばいいのに、という台詞を飲み込んだ。本当に体調が悪いのなら無理をしてはいけない。
「そう…………お大事に」
やはり気のせいじゃない。フード越しにじっと見られている。魔術士の口元をみると唇がこころなし尖っているような。そして頬がふくらんでいるような。
もしかしてこれは拗ねているんだろうか。
やっぱり帰らないでって言った方がいいのだろうか。私が逡巡しているうちにしびれを切らしたのか、ネイドはつん、とそっぽを向くと、止める間もなく画面から姿を消した。
「行っちゃった………」
「ネイドが具合が悪いのは本当です。平気そうな顔をしているけど、起きているだけで辛いはずだから」
だからヤコさんのせいじゃない。
言外にそう言われた気がした。
魔術士が居なくなったことで下向きになった私の気持ちを敏感に察知した勇者は、すかさずフォローを入れてくれた。
「ナハトとの通信には絶対に立ち合うって、言い張るんですよ。ヤコさんに会いたいから無理しているんです」
それはない。魔術士はそんなに可愛い性格をしていない。何故か私に執着をみせるネイドだけれど、私達の預かり知らぬ思惑があるんじゃないか。女の勘がそう告げている。
しかしその思惑の詳細に関しては皆目見当もつかないが。
私は肩をすくめた。分からないことをあれこれ考えても時間の無駄だ。
せっかくのノン君とのこの時間。有意義に使おうじゃないか。決戦の時は近いのだから、私達が一緒に居られる時間もあとわずかだ。
私は弾き始めた。彼に相応しい曲。彼のために捧げる曲。
夜想曲ーノクターンーを。
ノクターン第四番へ長調op15-1。私が初めてノン君と会った時に聴いていた曲だ。
冒頭はゆったりとした穏やかな旋律の三拍子。小鳥の囁きのようにメロディを紡ぎ、左手の伴奏は春の雨だれを意識して柔らかくぽつぽつと音を乗せていく。
弱くではなく光が降り注ぐように、羽根で撫でるように優しく弾く。これはやがてくる嵐の前の静けさ。今が静かであればある程、激動のクライマックスが引き立つ。研ぎ澄まされたピアニシモ。
ノクターンかわいそうに。ネイドの話が本当ならばアーラは………。
そして中盤。雰囲気がガラリと変わる。突然、雷鳴のような左手のアルペジオが始まり、嵐のように激しい右手のトリルが、緊迫感を高める。
全身の力を両腕にかけて、力強く鍵盤を押していく。
バラバラになった聖なる戦士。勇者の仲間たち。どうか彼らがこの困難を乗り越えられますように。
やがて嵐は去り、曲は穏やかさを取り戻す。旋律に光が満ちていき、微睡むような空気の中でふわっと蝶が舞い降りるようにフィニッシュをきめた。
曲を終え、鍵盤から顔を上げた私は、泣きそうな表情で笑っている勇者と目が合う。
「ありがとう。ヤコさん」
この曲のように、途中、どんな嵐に見舞われても、雷に全てをずたずたにされても、ラストは穏やかに、光満ちた幸福の中で終わればいい。
私は祈るような気持ちで、月の光を演奏し始める。ノクターンはそっと瞳を閉じた。