月の光
軽くですが同性愛表現があります。苦手な方はご注意ください。
その日は祭日で仕事が休みだったので、外出もせずストイックに延々とピアノの練習をしていた。
ワンルームだと置き場が確保出来ないため、悲しいかな、我が家のピアノは電子ピアノである。
いつかマンションを購入して防音室をもうけ、そこにグランドピアノを置くのが夢である。
現在練習中の曲はジョージ・ガーシュウィン作曲のサマータイム。アップテンポな編曲で、通常のサマータイムよりもノリよく弾けるのが気に入っている。
ガーシュウィンはアイ・ガット・リズムも楽しくて好きだが、密かな目標は、ラプソディ・イン・ブルーのピアノソロバージョンを弾けるようになることである。
外が暗くなり、そろそろサマータイムを弾くのに飽きてきたかな、という頃合いで付けっ放しのパソコンのディスプレイにお馴染みの闇が広がった。
ナハトの果てしない黒々とした空にはよく磨いた鏡のような見事な満月がぽっかり浮かんでいる。
室内に居ながらにして月見とは優雅だ、と思いながら、私はヘッドフォンを外し、椅子から立ち上がると、数時間酷使したせいで硬直した肩をグルグル回してほぐす。
ピアニストは何時間練習しても腱鞘炎にもならなければ肩凝りとも無縁らしい。それはきちんと"脱力"した上での打鍵が出来ているからだが、ただ力を抜くというのは簡単なようでいて至難の技なのだ。
私の目の前にいる憔悴しきった勇者にも、"脱力"は必要だと思う。
しかし力を抜かなければいけないと頭で思うほど力が入ってしまう。難しいものだ。
「こんばんは。ノン君。どうしたの?今日は水曜日のはずだけど……」
私は勇者の頭のてっぺんからつま先までを素早くチェックして、ほっと息をついた。今日は珍しく無傷だ。
戦士レオーの裏切り以来、ノクターンが負傷していることが増えた。それだけ敵が強くなっているとも言えるが、勇者パーティの面々も正直、安全とは言い難くなってきた。
またいつ狂気に囚われる輩が出てもおかしくない状況だ。
私は心を鬼にして、ノクターンに仲間の動向に気を付け、裏切りに警戒するように忠告しているが、その度に勇者はひどく悲しい顔をする。
彼の優しい性格からすると無理からぬこととも思うが、私はノクターンに死んで欲しくないのだ。
「ノン君?」
返事がない。ただの屍のようだ……ではなく、よく見ると勇者の髪は乱れ、肩当ても胸当てもない上半身のシャツははだけて胸が露わになっており、瞳は潤み、頬は紅潮している。
その異常なほどなまめかしい姿に私は目を覆いたくなる。
いつも傍らにある魔術士の姿はなく、彼は一人だった。
「レーギス殿下に………襲われた」
肩を上下させ、荒く息を吐きながらノクターンはかすれ声で言った。
私は驚いて飛び上がり画面に近付いた。
「ノン君大丈夫!? どこをやられたの! 今度は足? 手? お腹? それとも背中? また裏切りなの? 私の所に来てる場合じゃないでしょ! アーラ王女に癒やしてもらいなさい」
心の傷はフォロー出来るかもしれないが、身体の傷を癒す力はない。
私はおろおろしながら早口でまくしたてた。勇者はいつになくぼうっとしており、目の焦点があっていない状態で、私の矢継ぎ早の質問にもほぼ無反応だった。
「大丈夫……怪我はないから……。
ただちょっと押し倒されて、その、殿下がご自分の口を僕の口に……」
言葉にするだけで恥ずかしいのか、 顔から耳まで真っ赤に染めながら、たどたどしく言の葉をつぐ青年。
その様子を見て、妙な気持ちになってしまった私を誰が責められるだろうか。レーギス王子がなぜそんな暴挙に出たのか、その感情が手にとるように分かる。私も男だったら速攻で押し倒して抱いていたかもしれないというぐらいの可憐さである。
って……私まで王子に賛同してどうする。私もだいぶ混乱しているようだ。
少し落ち着こう。レーギスの性別は男性と聞いている。それがどうしてノクターンを押し倒したり、口と口を接触させるとか、恋人同士であれば当たり前に行われている行為をしなければならないんだ。
答えは聞かなくても出ているだろうが確認の意味で聞く。
「王子はどうしてそんなことを?」
「僕のことが好きだと、告白を…」
血の気が引いた頬をゆがめてノクターンは呻いた。
見たくなかったものが視界に入ってきて、私も勇者に負けず劣らず渋い顔になった。 勇者の鎖骨より上の辺り、赤い虫に刺されたような痕がある。ひょっとしてあれは。
事の次第を察した私は、頭を抱えてパソコンの乗ったデスクに突っ伏した。
これ以上は聞かない方がいいに決まっているし、勇者とてあまり喋りたくないだろう。
「いい! もう無理して説明しようとしなくていいから! 何が起こったかよく分かったから。まずはノン君。服を直そうか」
このままでは目の毒すぎる彼の格好を正さなければ。
ショックのあまり脳が活動していないらしい勇者に指示を出してシャツを着直しさせた後は、二人して五分ほど深呼吸を行う。
ノクターンでも物の転移が可能とのことだったので、ラベンダーの香袋と淹れたての紅茶の入ったカップを移動させる。香袋に関しては、ノクターンに贈ろうとするといつも横からネイドに掻っ攫われていたので、魔術士がいない今がチャンスである。
紅茶はお互いが落ち着くために必要なアイテムだ。座ってお茶が出来るよう、折り畳み椅子を一緒に貸し出した。
熱々の紅茶を口に含み、ほぅっと息を吐いた彼は消え入りそうな声でごめんなさい、と謝った。
「今日は約束の日じゃないのに急につないでしまって。でもヤコさんがいてくれて良かった。僕一人だと色々変なことを考えてしまっていただろうし、どうしていいかわからなかったから。
もう少しで取り返しのつかない事態になるところでしたが、寸での所で殿下が動けなくなる魔法をかけて逃げました」
「そう………。手遅れになる前に逃げられて良かったわ」
他に言葉がない。いくら世の中に色々な愛情があるとは言っても無理強いはよくない。ノクターンにその気があれば、応援するのもやぶさかではないが。
ノクターンは、頭が冷えてきたのか視線を彷徨わせ、フタが開いたままの電子ピアノに視線を向けた。
「ピアノ……聞きたい」
「今は夜だから、音を出すとご近所から苦情がくるかも」
「大丈夫。音だけをナハトに転移させればいいから」
勇者を信じて試しにさくらさくらを弾いてみると、ディスプレイの中から音が聞こえた。これなら隣の家のおばちゃんから苦情がくることもない。
まず私は月の光を弾いた。学生の頃、音楽の授業で初めて聞いて、その幻想的かつ美しいメロディと世界観に魅了され、今でもこの曲のとりこだ。ノクターンも気に入ってくれるだろう。
夜しかないナハトにはぴったりの雰囲気だし、こんな見事な満月を目にして他の選曲があろうはずがない。静かな曲なので沈静効果もあるだろう。
ノクターンの心中を思いやりつつ、この曲が優しい月の光の如く彼の心を癒やしてくれるよう祈りを込めながら丁寧に弾いた。ピアニッシモも綺麗にはまり、私自身出来栄えに満足しつつ曲を終えると、さらに次を所望されたので調子に乗って、マイ・フーリッシュハート、フェナイ・フォーリンラブ、亡き王女のためのパヴァーヌ、などゆったりとした曲ばかりを選んで演奏した。
しばらく目を閉じてピアノの音に耳を傾けていたノクターンは、自分を取り戻したようで、ヤコさんがいてくれて本当に良かった。王子と誠心誠意向き合ってみる、と宣言して、仲間が待つ野営地へと帰って行った。
珍しいことにこの日、魔術士は最後まで姿を現さなかった。