ラクリマの海
今にして思えば、この綻びが全ての崩壊の始まりだった。
ラクリマ。ラテン語で涙を意味する言葉。
勇者の仲間の一人、魔女の名前でもある。
「ラクリマが閉じこもって朝に夕に涙にくれています。このままいくと、ラクリマの周りが涙の海になって、ラクリマの身体が涙に溶けてしまうんじゃないか、というぐらい泣き暮らしています。セレがずっと着いてくれているけれど、食事も喉を通らないみたいで。僕が会いに行っても扉を開けてくれません」
勇者の顔色は蒼白だった。たった一週間で痩けてしまった頬。食事が喉を通らないのは、彼も同じのようだった。
ラクリマの哀しみを分かっているけれど、どうしてやることも出来ない。
そのやるせなさ、焦燥、自責の念、ラクリマの心が大切なゆえの迷い。
いくつもの想いがノクターンを影のように取り囲み、彼の顔を翳らせていた。真面目な人間はその真面目さゆえに、自ら咎のないことでも、自らの責として背負い込んでしまうことがある。
特にノクターンは真面目な上に気持ちの優しい青年だ。優しいがために自分を責める。ラクリマの想いに応えられないことに罪悪感を抱いているのだ。
「ラクリマはノン君の幼馴染だったわよね。確か」
「………ええ。僕とセレ、そしてラクリマはいつも一緒でした。
僕達は親を失くした子供達が保護される施設で育ちましたが、勉強も遊びも何をするのでも三人一緒だった。
大きくなって施設を出て、魔王や魔物を倒すための戦士・魔術士を養成するための学校に入学した時も僕達は離れなかったし、僕が勇者に選ばれて、魔王討伐の旅に出た時もラクリマ達は補佐役として着いてきました」
ー ラクリマを愛している。妹のように、時には姉のように。彼女が幸せになればいいと思う。でも彼女の欲しがったものは家族としての愛ではなかったー
勇者は寂しげに述懐した。
「欲しいの!貴方の心も身体も全てが!女として愛されたい!貴方の子供を産みたい!」
普段はもの静かなラクリマが、炎のような激しさでその想いを迸らせた。
声を張り上げ、ノクターンを射抜くような目で見つめ、彼の胸に何度も拳を打ちつけた。
勇者はそんな魔女を突き放すことも出来ず、彼の胸で泣き崩れる魔女を抱きしめることも出来ず、彼女のなすがままになっていた。
「ごめん!ごめん………ラクリマ………。僕だって君のことは大切に想っているよ。でも………アーラさま、姫さまへの想いは違うんだ。抱きしめたい。僕のことだけ見て欲しい。僕が幸せにして差し上げたい。姫さまが好きで、姫さまのためなら何でもしたいんだ」
ラクリマは勇者の告白を聞き涙を流しながら微笑んだそうだ。全てを諦めた寂しい笑みだった。幼い頃からずっと一緒にいたけれど幼馴染のあんな顔を見たことがない、とノクターンは辛そうだった。
ラクリマの細い両腕が勇者を打つことをやめ、彼の背中にそっと回された時、ノクターンは動けなかった。
「貴方の気持ち、知っていたわ。アーラ王女を一目見た時から、貴方の瞳にはあの方しか映っていなかった。分からないはずなんてない。だって貴方がアーラ様に向けるまなざしは、私が貴方に向けるものと全く同じなんだもの。打ち明けるつもりもなかった想いだったけれど、ノクターン、貴方の心の全てがアーラ王女に囚われてしまったと悟った途端、我慢がならなくなった。言わずにはいられなかったの。たとえ私の想いが貴方を苦しめるとしても」
ラクリマの絶望と哀しみはノクターンの苦悩でもあった。その苦悩がノクターンの身を硬直させ、彼から動きを奪っていた。
この時の勇者はまるで彫像にされてしまったかのように、身動きを封じられていた。
ラクリマがしゃくり上げながらノクターンの胸から身を起こし、背伸びをして涙に濡れた自身の唇を彼の唇にそっと押しつけた時も。
勇者から離れた魔女が彼に背を向けて歩き出した時も。
ラクリマが部屋に閉じこもり、一歩も外に出なくなった時も。
「僕には何も出来ない!」
私にラクリマのことを説明している内、気持ちが昂ぶってきたのか、そう叫んで壁に拳を打ちつけたノクターンを私は呆然と見つめた。
いつも厳しく自分を律し、感情をあまり表に出さないようにしている彼が。
周囲を魔物に囲まれて絶対絶命の危機に陥った時でさえ、取り乱すことなく冷静に仲間達に指示を出し続けたと聞いた彼が。
こんなにも荒ぶった姿を私は初めて見た。
平素の落ち着きぶりが嘘のように、彼は激昂していた。彼は幼馴染を苦しめる自分が許せないのだ。
握りしめた彼の拳からひとすじふたすじの真紅が流れるのを綺麗だ、と眺めながら、泣けない勇者を前に私は戸惑っていた。
かける言葉がない。
どんなに親身に思おうと、私は所詮当事者ではない。薄っぺらい同情もその場しのぎの慰めだって勇者には不要、どころか不快なものでしかないだろう。
勇者が誰にも言えない想いを全て聞いて受け止めることしか私には出来ない。
彼のために何も出来ないと叫んで、泣きたいのは私も同じだった。
ノクターンと関わることがなかったら、こんなもどかしい思いを抱えることもなかったのに。
私は勇者の取り乱した姿を身じろぎもせずにじっと立って見ているネイドを八つ当たりのようにねめつけた。
「ラクリマの心に応えるためには、姫さまへの想いを捨てて、ラクリマを女として愛すればいい。
だって彼女は僕にとって家族で、誰よりも大切な人なのだから。でも出来ない。
姫さまの輝く笑顔が僕の脳裏から離れないんです。心に姫さまを想いながらラクリマを抱きしめることなんて出来ない………。
僕はいったいどうすれば良かったんですか!教えて下さい!ヤコさん」
ノクターンは泣き崩れて床にうずくまった。私は苦悩するノクターンを前に途方にくれた。
苦しむ勇者を目の前にしながら、その身体を抱いて慰めることすら出来ない。画面に隔てられた私達の間には越えられない壁がある。
ただ一つ私に出来ること。ノクターンに声をかけること。でも、慰めるべき言葉すら出てこない。
私は無力だ。
魔物退治に助力することも出来ず、ノクターンの心も救えない。何の役にも立たない。
頭と目がひたすら熱い。
微動だにしなかったネイドが首をこちらに向けた。
「ヤコ………」
ネイドの声音が上ずった。いつでも飄々としている魔術士にしては珍しい。
ネイドの様子が変わったことに気づき、頭を上げたノクターンが私の顔を凝視したまま固まった。
「ヤコさん、もしかして泣いて………」
ぼすっと衝撃がはしり、私の視界が暗くなった。柔らかいものに顔をふさがれている。痛くはないが息苦しい。
覚えのある感触に私は濡れた頬をこすりつけ、視界を塞いだぬいぐるみを両腕に抱えて顔から引き剥がした。
「見るな」
ディスプレイに広がった夜の闇のようなローブ。それがノクターンの姿を覆い隠している。
こちらに背を向けて立ち塞がっているのはネイド。私には彼の背中しか見えない。
「ヤコを泣かせたお前が、ヤコの涙を見るな」
「ネイド………?」
ネイドによって覆い隠されたのは、ノクターンではなく私だったようだ。戸惑ったノクターンの声が魔術士の背中ごしに聞こえる。
ネイドは勇者を無視して振り向く。
「顔を拭いて」
ぬいぐるみの次はハンカチが飛んできた。
何も知らなければ怪奇現象だろうが、ネイドの仕業なのは分かっているので私は抗議した。
「ちょっとネイド!いたずらしている場合じゃないでしょ。さっさとそこを退きなさいよ!」
「ちゃんと拭いて。拭いたらここを退くから」
口調はそっけないけれど、魔術士がどうやら私のことを心配しているらしいのは分かった。
確かにネイドはともかく、自分より10歳以上も年下の、弟のように思っているノクターンの前で泣くのは恥ずかしかったから、私はありがたく魔術士の好意に従ってハンカチで目元を拭う。
いきなりのネイドの行動に頭も冷え、涙もひいた。
ネイドがようやく画面の前から退くと、床に座り込んでいるノクターンが見えた。
ノクターンも私と同じく冷静さを取り戻したのか、先ほどと比べると随分落ち着いた表情になっている。
冷えた頭で考えると、色々なものが見えてきた。結局、ノクターンが葛藤しているのは、ラクリマもアーラも選べないからだ。その葛藤を除くにはたったひとつの方法しかない。
私がこれから彼に告げる言葉は真実だけれど、彼の心をずたずたに引き裂くだろう。
それでも、私は言わなくてはならないのだ。それは私にしか出来ないことだろうから。
私が視線を向けると、ネイドはまるで私の心を読んだかのように深く頷いた。
「ノクターン。よく聞いて。人生は選択の連続なの。一つを選択してそれ以外の選択は捨てる。両方を取ることなんて王様にだって出来ない。だから、貴方は辛いでしょうけれど、ラクリマかアーラか選ばなければならないの。
たとえ家族に対する愛情しかなかったとしても、ラクリマの想いに応えるのは間違っていないと思う。
ラクリマはそれでも幸せなんだろうから。ノクターンも幸せだったらそれが正解だわ。
でもやっぱりアーラが忘れられないというのであれば、ラクリマの想いに応えるべきじゃない。
ラクリマだって、今は辛いだろうけれど何も世界に男性はノン君一人だけじゃないんだから、その内に彼女を大事に想って愛してくれる人が現れるはずよ」
「ヤコさんは僕にラクリマを捨てろと言うんですね」
それが勇者の出した答えだった。
彼は苦悩を目元に滲ませながらも、すでに決断してしまったようだった。
彼が決めてしまったからには、これ以上私に言えることはない。
疲れたからももう眠る、と立ち上がった勇者が、今晩は一睡も出来ないだろうことは私も分かっていたけれど、それでも私は告げずにはいられなかった。
「おやすみなさい。ノクターン。よい夢を」
「おやすみなさい。ヤコさんもよい夢を」
右手を挙げた勇者がディスプレイから姿を消したのをじっと見送った私は、ため息をつく。脳が妙にさえてしまっている。
「なんだかノン君だけじゃなくて、私も眠れないかも」
「どうして?」
呟くような声が聞こえて、私は飛び上がった。ネイドの存在を失念していたのだ。
「びっくりした。まだいたんだ、ネイド」
「どうしてヤコまで眠れなくなるの?ノクターンのことなんだから、ヤコには無関係でしょう?」
「いや、確かに関係ないけど、ノン君のことが心配だから」
ネイドはフードの下で小さく舌打ちした。何故か彼は怒っているようだ。
「俺は許さないよ。ヤコが一晩中、ノクターンのことを考えて過ごすだなんて」
「許さないって言われても………」
眠れないものは眠れないのだから仕方がない。それにしても、ネイドは時々言動と行動が意味不明だ。
「許さない。だからヤコ。おやすみ」
「ネイ………」
フードの下で薄い唇が三日月を描いたのを見た瞬間、私の意識は闇に落ちていた。
翌朝、自室のベッドの上でバクのぬいぐるみを抱きしめた状態で目を覚ました私は、ネイドに強制的に眠りにつかされたことに気づき、憤ったのだった。
ー さようなら。ノクターン。貴方の幸せを遠い空の下から祈ってるー
ラクリマの衝撃的な告白から二週間後。彼女は置き手紙を残して姿を消した。
薄い水色の便箋にはラクリマの涙の染みが消えない痣のようにくっきりとにじみ、そこにノクターンの流した涙がぽつりと落ちた。
魔女が勇者一行から離脱した。
しかしこれは、これからやってくる破局のまだほんの序章にしか過ぎないのだと、ノクターンも私もそれから次々と起こった凶事によって思い知らされるのだった。